青い月の中

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青い月の中

 2019年11月3日  H県瓜破(うりわり)市  その日は、月がキレイな夜だった。  増見(ますみ) 光成(こうな)は血の海で泳いでいた。  脇腹にどでかい風穴を開けられ、口から零れだす息の一つ一つは、(くら)い死を思わせるほど命が薄かった。  重たい腕を上げ、シャツの袖口から伸びる手は何かを探し求めるように彫刻を思わせる冷たい男の体に伸びる。  言わなければ。  言わなければ。  言わなければ。  彼に言葉を言わなければ。どうしてオレがこのような目にあうのか。問い詰めなければ。  彼の目の前にはもう死が差し迫っている。一刻の猶予もない。にもかかわらず、彼は思わず自分の過去を振り返ってしまう。ほんの数刻前、何気ない日常を。そして、自分の命が穿たれたあの瞬間を。血の海で溺れそうな自分を守るため、先程までのことを思い出した。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  息を吐くと白い息は天に昇り、青白い月が吸い込んでしまった。季節はもう十一月を迎えている。 「増見先生、本当によろしいのですか?」  雇い主の玄関先で、増見 光成(ますみ こうな)は念を押すように尋ねられた。雇い主の声を無視するわけにもいかず、彼は、声の主を振り返る。とんがり屋根の一軒家。外灯の強い乳白色の下、髪の毛に白いものが混じりだした女性が佇んでいた。肉付きの薄い細い身体。寒さを堪えるよう、反対の腕を何度も上下にさすっている。 「先生。夜はもう遅いです。いくら若い男性とはいえ、こんな時間に一人で帰られるなんて……」  不安そうな声と等しく、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。 「そうだよ。コーナ先生。」  女性の声にあわせ、若い声がした。声の主は14歳の少女。中年女性の背後から顔を出し、細い目を更に細めた。その表情は、彼を心配するというより、二十二歳 男性の度胸は如何ほどか。と試している表情だ。 「コーナ先生、ガリガリだし、襲われたらそのまま食べられちゃいそうだよね」  発言は表情の意味を強める。不謹慎な少女の発言に、母親は娘を嗜めた。光成は、「まぁまぁ」と間に入る。だが、少女の言葉を否定しなかった。  平均的な身長。身体の線も細い。どこかで見たかも。誰かの元カレみたい。とあまり特徴的ではない顔。他者と識別できるよう、耳たぶまで伸ばした黒髪。服装も黒のジャケットに白シャツとありきたりなズボン。この組み合わせしか知らないのか。と揶揄される程没個性な服装。  このような外見の男に頼りがいを求めるのが無謀だ。本人も自認し、「そういう類は母胎に置き忘れた」というのは彼の弁である。 「夜、一人で帰るのが怖かったらウチに泊まってもいいよ。なんなら、玲奈の部屋で――」 「玲奈、いいかげんにしなさい!」  母親の我慢は限界に達した。他人が目の前にいる事を気にせず、語気荒く娘を叱責した。玲奈は思わず、身をすくめ、上目遣いに母親を見上げる。母親の表情には、落雷第二号が差し迫っている事を匂わせている。彼女はすぐさま背を向け、上がり框に片足を乗せた。タンッと小気味よい音。母親も光成も、彼女が裸足であった事に今気付いた。 「それじゃぁね。コーナ先生」  高い位置で結ばれたポニーテイルが上下左右に動く。中学生特有の押さなくあどけない笑顔を光成に向ける。清清しい笑顔だった。彼はすぐに反応できず、遠く忘れていた憧憬の少女と彼女を重ね合わせていた。 「お見苦しいところを申し訳ございません。躾が行き届いてなくて」 「いえ。大人びたい時期ですから」  光成の一言に、「そうですかね」と母親は答えた。光成が何も答えずにいると、その場に思い沈黙が漂う。彼は軽い笑いを漏らし、 「それでは、これで失礼します」  と挨拶をした。母親は何か言いたそうだったが、頭を下げた。失礼な事をした。という罪悪感はあったが、母親の醸しだす重い空気に二十二歳の若者が耐え切れるわけはない。だから、彼は「逃げ」を選択した。  母親に背を向けると、再び玄関へ足音が戻ってきた。 「コーナ先生。おやすみなさい!」  玲奈だ。彼は、振り返ることなく、片手で上げ、生徒に返事を返す。玲奈はもう一度「おやすみなさい」と声をあげる。しかし、その声は玲奈を叱責する母親の声でかき消された。  玲奈と母親の関係は上手くいっていない。端から見れば、年頃の娘と過保護な母親。なのだが、実情は複雑だ。  雑談をする際、母親の話になると、彼女の表情は暗くなる。表情筋の緊張がなくなり目の精気も失われる。それはほんの一瞬で、彼女は、母親の話などなかったかのように、お気に入りの話をふる。 「瓜破市 連続()()()()」  光成や玲奈達が住む市を恐怖に陥れている現在進行形の事件だ。 「今日の新聞では、三人行方不明になったんだって」  授業の終わりに、彼女は得意げに光成に言った。 (確か、まとめサイトにもそう書いていたはず。場所は……) ――行方不明者は、人通りの少ない場所。あるいは夜遅くに忽然と姿を消します。所持品など手がかりになりそうな物は一切なく。足跡も途中で消えています。警察では一連の失踪事件を同一人物、愉快犯。両方を視野にいれ――  まとめサイトの一文を思い出し、彼の足は止まった。 (ここ、どこだ?)  そこは、記憶にない場所だった。いつもの帰り道は、人通りも多く道路は広い。狭い間隔で外灯が灯され、住宅街からは温かい光が漏れている。  しかし、外灯は少なく道は暗い。ブロック塀と思しき高い壁が途切れることなく続いている。おまけに壁から黒い塊。木の葉だろうか。ギロチン台にはめられた首のように身を乗り出していた。この塊のせいで、民家の光がかき消されていた。  風が鳴る。は十一月にしては寒すぎる風だ。 (どっか、変なところで曲がったのかな?)  迷ったのならば、もと来た道を戻ろう。と振り返るも、そこには道などはない。吸い込まれる闇が壁のように鎮座していた。光成は、咽仏を上下させる。おかしい。おかしい。と頭の中で四文字が暴れだす。気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をした。咽を通る冷たい空気が、興奮しかけていた彼の気持ちを静めていく。 (こういう場合はスマホスマホ)  鞄にしまいこんでいたスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動する。電波は通じるようで、現在地はすぐに提示された。幸いな事に、現在地は玲奈の家の近く。彼の土地勘の及ぶ範囲だった。 (よかった。ここならまだわかる)  最寄り駅のルートを検索すると、経路は彼が思っているよりも単純で、徒歩圏内である。目的地を選択し、アプリの指示に従い再び歩き出す。暗い夜道。ディスプレイの放つ光は光成の寄る辺だ。 (それにしても、すごい道だな。まるで迷路じゃないか)  ディスプレイに表示されている地図を良く見ると、光成の迷い込んだ場所は曲がり角が異様に多く、行き止まりもいたるところにある。  道路整備を計画した人間は、日ごろの鬱憤を晴らす嫌がらせのように、この道を作っていとしか思えなかった。曲がり角一つ間違えれば、目的地までの距離感覚を失ってしまう。一見さん泣かせの場所だ。  何故、このような道を。と悪態をつく光成に脳内で、玲奈の雑談がよぎる。 「もともとウチの周辺って、広おおおおおい竹林だったんだってー。でも、なんとか開発? っていうブームがこの周辺に起きて、アッと言う間に住宅地にされたらしいよ。でも、その工事中に迷子になって行方不明になった人が二人いるんだって。おかしいよね? 広いって言っても、大人が迷うような広さじゃないのに。でもさ、噂なんだけど、今でも夜な夜な出るんだって。男の幽霊が。竹林を壊して腕を振るいながら道を探すんだって」  自慢げに語る玲奈に、自分は何と答えたのか。と問うも答えは出なかった。 ――大人が迷うような広さじゃないのに、迷子になる――    玲奈が言ったその言葉は、あながち嘘ではない。地図アプリ上では、まっすぐ歩いているのだが、感覚的にはグルグルグルグルと渦巻きを描くように歩いている。グルグルと歩くのは道路だけではなく、玲奈の言葉もグルグル回り始める。全てがマーブル状に溶け合い、現在地を飲み込んでいく。薄暗い道で、彼は現在を失っていた。 (もしかして、俺、やっぱり迷子?)  そう思った途端、彼は不安になった。  今の日本は、迷子になっても、確実に親元に戻れる。しかしながら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。失踪。その二文字が頭によぎっただけで、未来の新聞に新たな失踪者として自分の顔写真が載るところまでイメージしてしまった。  光成は、スマートフォンを強く握り締める。一刻も早く、この場所を抜けようと大股で歩く。二十二歳になり、夜である事を良い事に彼は鼻水を垂らしながら泣いた。散乱した自分の部屋を死ぬほど恋しくなったのは、今日が初めてだ。  部屋に帰り、温かいシャワーを浴び、迷子の不名誉を睡眠と共に抹消したい。温かい布団を愛おしく思い、彼は心の中で叫んだ。 (はやくおうちにかえりたい!)
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