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第4章 ムーンあんどビロォン
月の静かの海は地球から見るとウサギの顔にあたる。
大昔から人類はこのうさぎに欲望を願ったり、生きる辛苦の恨みを送り続けてきた。
わたしはそこに浮遊して地球を眺めていた。
芽と幾生が体験した「最悪」とは「愛する」ことだ。
二人の愛は、どんな係数を掛けても死に終わる。
死によって成就する愛。
誰が言ったか知らないが、死ねばふたりはひとつになれる、ああそれを信じたばっかりに、殺して殺して殺しあう、情念と書いて愛と呼ぶ。
なにこれ、演歌みたい。
てか、ドロドロの哀艶歌、みたいな。
この悲劇的で絶望的で、夢も希望もゼロで、答えは虚無しかないという身も蓋もない最悪の方程式。
この世界を生きるということは、なんて陰湿で暗いの。
そんなわたしのおもいに呼応するように、
「うんざり」
とガスペグが言う。
ふんふんと何かのメロディーを鼻で歌っている。
聞いたことのあるような、月に関係したタイトルのような。
そして歌いながら、その歌をBGMにして言うのだ。
そういうことができるのがガスペグなのだ。
「我慢にも限界がある」
と、まんざらでもうんざりでもなさそうに言う。
「でも永い付き合いだから仕方がない」
わたしとの付き合いのことを言っているのか、あるいは人類全般のことなのか定かではないが、ガスペグは一拍おいて言った。
「昔、教えてあげたでしょ」
なにをだろう。
考えてみるが、ガスペグは待ってくれない。
「時を信じるなって」
ああ。それはわかる。
でも、今の文脈とどうつながるのか。
「時は信じるに値しない。逆に惑わすもの。死を怖れるなと教えてあげたでしょ。死は時の連続の中にあるのではない。死は常に内在している。生と並行して存在している。なのに死ですべてが終わるという考え方は、とってもヘンテコ。それは時に縛られた、時に操られた洗脳よ。人は結局のところ重力からは逃れられないと思い込まされ、かくして時は勝利し、人は自由を奪われ、死を究極の逃げ道だと勘違いする」
わたしはどんどん混乱してくる。
ガスペグはわたしを置いてきぼりにしてどんどん突っ走る。
「エントロピーに抗いなさい」
エントロピーとは、熱力学において逆方向には戻らない一方向のみの現象を数値化したものだ。よく知られた例を引くと、コーヒーにミルクを垂らす。この時点でスプーンでそっとミルクを掬えば元のブラックコーヒー(に近い状態)に戻せる。このエントロピーは低い。でも、そのコーヒーをかき回してしまうと分離不能なまでにコーヒーとミルクは一体化、同質化されてしまう。こうなるとエントロピーは高くなる。元には戻れないからだ。物体は上から下に落ちたら、下から上には戻れない。すべての生物は歳をとるが、若返ることはない。わたしは考えた。ガスペグの言う「エントロピーに抗え」というのは、定められた地点に向かって動く運命という歯車を逆に回せということなのか。それは死者を生かすということなのか。そんなことができるの?
「なんて常識的な凡庸な返ししかできない子なの。そんなことできっこないじゃない。死者を生き返らせるなんてできないし、意味がない。だってせっかく死んだのに、生き返らせてどうするの」
とガスペグがあっさり否定した。
なんなのよ。
「じゃあ、どうすればいいの」
「抗いなさい」
わたしが混乱の極みに至ってぼんやりしているというのに、ガスペグは繰り返してばかり。
「抗って重力から自由におなりなさい。びろぉおおおおん…って昔教えてあげたでしょ」
……びろぉおおおおん……。
あ……なるほど、了解。
承知。
わかったわガスペグ、あなたを信じるわ。
あなたの言う通りやってみる。
わたしにはもうそれしかできることはない。
自信はないし、あなたの言うことのほとんどは理解できていないのだけれど、「びろぉおおおおん」だけは遥かな遠い記憶のどこかで覚えているわ。
どうせ逃れようのない孤独なら、そこから目をそらさないでもう一度やってみるわね。
そこから再び始めてみよう。
重力から自由になるやり方を試してみよう。
おもいきって。
ビロォオオン。
防砂林の奥に火葬場がある。
少年が窯から灰を掻き出している。
わたしは幾生さんを振り返って微笑んだ。
幾生さんはわたしがしようとすることを知っていて微笑み返す。
「ぼく」
と、わたしは少年に声をかけた。
こちらを見た少年は、健気に頭を下げた。
「いつも感心ね」
と言うと、少年は恥じらう表情を見せた。
わたしが、
「お花、好きかしら?」
と訊くと、少年はこくりと頷いた。
わたしは小さな紙袋を差し出した。
「今日ね、街へいったのよ。そうしたら、お花屋さんにコスモスの種があったの」
少年は紙袋におずおずと手を伸ばした。
「育ててみる?」
とわたしが言うと、少年は真剣な顔で首をこくんと上下に動かした。
昨日の夕刻、わたしと幾生さんは砂漠の小舟の中にいた。
幾生さんは、小舟の底に仰向けに横たわって、月を見上げて詠った。
「ずっと大昔、今夜、この満月の夜、わたしはこうなるように決まっていた。何億年も前から、芽さんに殺されるように決まっていたんです。いま無性にそんな気がします」
わたしは幾生さんの首に手をかけ頚動脈を圧迫した。安らかに死を待っている幾生さんの呼吸が、次第に荒くなり胸を張り出し身体を捩る。わたしは、幾生さんに跨って首を絞めつづけた。
「だめ、暴れちゃだめ、早く逝って」
幾生さんは、脚をじたばたさせたので額縁を蹴ってガラスが割れてしまった。わたしを振りほどき肩で大げさな息をしている。
「……死ぬかと思った……」
船底に置いたわたしの手に蝿が一匹止まっている。
わたしはぼんやりとその蝿を見ていた。
幾生さんもぼんやりこちらを見ている。
わたしは幾生さんにぶつかるように飛びついた。
思い切って。
飛びつきながら、こんなことを考えていた。
牧村さん、あなた、勘違いしてた。
たぶん。
じゅうりょくのない世界に、愛なんて存在しないわ。
死んで、じゅうりょくのない世界で薫さんと同化して、それであなた、幸せなのかしら。
違うでしょ。
だってそれは愛とか恋じゃないから。
だってドキドキがないでしょ。
あの時は、死んだばかりではじめての経験で、興奮していたのよね。
だから勘違いしたのよね。
わたし、今、やっとわかったわ。
膜か、幕のようなものを通り抜けたと感じた。
薄い粘土のような幕、膜。
もちろん目には見えない。
それをびろぉおおおおんと通り抜けて、
通過して、
わたしはぶつかるように幾生さんの胸に飛び込んだ。
幾生さんの首に両手を回し、抱きついた。
抱きついて、そして、幾生さんの唇に、
唇を、
重ねた。
じっとそのまま。
二人とも目を閉じて唇の柔らかな久しぶりの感触に浸った。
その柔らかさの向こうにある密かな歓びに浸った。
その歓びには永遠の香りがした。
息が続かなくなって唇を離した。
わたしは頬が火照ってしまって、幾生さんも首まで紅潮している。
きん、と音がした。
どこからかしら。
再び、きん。
わたしたちは空を見上げた。
月。
そこからきんという音が落ちてきた。
祝福するように、
きん。
幾生さんがわたしを見た。
わたしの瞳の奥で呼吸する月を覗き込んで言った。
「あした街へ出かけましょう」
「何をしに?」
とわたしは訊く。
「新しい写真を撮りに行きましょう」
わたし、全身の細胞が震えたの。
その細胞の遥かな奥深くで、四億年も前のわたしが両腕を交差し肩を抱き、自分自身を抱きしめている。
はいと言う代わりに、わたしは顎をあげて月を見上げた。
愛おしくて、涙がこぼれそうだったから。
わたしは、幾生をベビーベッドに寝かせ、荒れ果てた部屋の片づけを始める。
それが終わると幾生と入浴し、風呂上がりに入念な化粧をし、お気に入りの洋服に着替える。
幾生を腕に抱き、リビングからベランダに一歩出るときに、妙な感じがした。
膜か、幕のようなもの、透明な薄い粘土のカーテンのようなものをびろぉおおおおんと通り抜けたと感じた。
もちろん目には見えない。
それを通り抜けて、ベランダに立った。
月からの風に髪をなびかせて佇む若く美しい母親、わたし。
ベランダは月光が降り注いで黄色かった。
夜景も黄色かった。
すべてが黄色い。
黄色い宙を見つめていたわたしの目の前を一匹の蝿が通過し、幾生の頭に止まった。
やだ、腐ったチューリップを片付け忘れたかしら。
でも白いテーブルの上にはもう花瓶も花もない。
わたしはぼんやりとその蝿を見ていた。
いや、見ていたのは幾生の頭なのか、よくわからない。
その時、どこからか、
きん、という音がした。
遥かな月から降ってきた音のようでもあるし、誰かが臓腑の深い所から吐き出す太い息のようにも聞こえる。
幾生を抱いていた腕が痺れてきた。
気のせいか幾生の体重が増えたような。
いや、確かに増えている。
ずんと重くなっている。
わたしはベランダの床に幾生を下ろした。
その体はめりめりめきめきと大きくなる。
体長が伸び、肉が増え続ける。
幾生が立ち上がった。
それでも身長が伸び続ける。
ベランダの天井に頭が届いた。
幾生は手すりから体を乗り出す。
さらに伸び続ける。
それと同調して肉もバランスよく増え続ける。
幾生は、きん、きん、という息を吐きながら拡張し続け、その巨体はベランダの狭い空間には収まりきらない。
ついに幾生は18階のベランダから飛び降りた、いや、落下した。
その数秒後、きん、という声を発して幾生の頭がベランダの手すりの向こうに現れた。
赤ちゃん顔のまま、首から下の肉体は筋骨隆々なのだ。
幾生はどんどん膨張を続けている。
幾生がわたしに向かって両手を広げた。
わたしは、?と戸惑っていると、指をくいくいっと自分の方へ曲げる。
おいでよ。
わたしは、リビングを通過し、玄関まで戻った。
ベランダの外に立つ幾生を振り返った。
幾生が両手をばちんと打ち鳴らした。
スタートだ。
走れ。
スプリンターになれ。両腕を大きく振れ、腿を高く上げろ、床を蹴って前へ進め、ダッシュ、ダッシュ、次はハードルだ、歩幅を整えろ、右足を振り上げろ、まっすぐ振り上げろ、左足を腰の高さまで引き付けろ、ひざと足首を直角に曲げるんだ、腰の高さまで上げろ、その高さをキープしろ、よしっ、ナイスフォームだ、そのまま手すりを飛び越えろ。
わたしは黄色い夜にダイブした。
幾生に抱きついた。
肩までよじ登り、幾生の首筋を叩くように撫でた。
幾生は、きん、と声を発して歩き出した。
歩きながらも成長は続いている。
幾生とわたしは、大通りを歩き、国電のガードをまたぎ、東京タワーを眼下に見て、東京湾に達した。もはや遠くの富士山も下に見える。
さあ、これからどこへ行こうか幾生。
と尋ねると、
きん、
と幾生は応える。
頭上を指差している。
月。
ああ、いいわね。
あそこへ行こう、一緒に。
月への階段を登るように幾生は宙に足を踏み出し、確実に一歩ずつ登る。
わたしは幾生の首にしがみついた。
キスした。
バニラの味がした。
ずっと一緒なのね幾生。
ずっと、ずっと、一緒。
きん、と幾生が応える。
雨が降ってきたかと思った。
それは幾生の涙だった。
隠すことも恥ずかしがることもせず、幾生は誇り高く涙を流していた。
わたしはそんな幾生が愛しくて、
涙を流し続けた。
わたしは、太古の海の深くで漂っていた。
無音だった。
すべての音が海に吸い込まれ、消滅していた。
そこは、四億年前の満月の海だった。
遥か上方の水面に月の影が揺れている。
氷のような満月の影をわたしは見上げた。
その影を小さなものが横切った。
蝿のようにも見えた。
蝿はどんどん大きくなり、細長い魚になってわたしめがけて泳いできた。
鱗が月明かりを反射してキラリと光る。
翡翠色のウツボだ。
彼女はわたしの鼻先まで顔を近づけて囁く。
「……永遠の暗い循環を続ける輪の中にあなたは囚われていた。あなたには、その輪を反対に廻そうとする力が必要だった。だから、あなたがわたしを殺す前に、わたしがわたしを殺したの」
ウツボはくねくねと身をよじると、服を脱ぐように脱皮する。
その抜け殻は翡翠色の幾生だった。
わたしは幾生の殻を抱きしめた。
すると、かすかな音がする。
きん。
抜け殻の中を覗き込むと、そこは深い闇で、わたしは闇に落ちていく。
わたしはベッドの中で幾生の殻を抱きしめていた。
幾生の殻の毛穴から体液がにじみ出てきた。
古代海水の面影を残す体液はベッドを濡らし、あふれ続ける。
その水分を栄養として殻の中に生まれるものがある。
きん。
芽が出て茎が伸び、
つぼみがあらわれ、
花が咲く。
次々と連なるように花が咲く。
スターチスの花が殻を埋め尽くし、
ベッドに咲きひろがり、
寝室の床や壁や天井にまで広がり咲いた。
その花に押し上げられるようにわたしは身を横たえる。
すると、見えた。
月光が差し込む白く広いバスルーム。
アンティークなバスタブの中に幾生がいる。
タイルの床には、ひん曲がったスプーンが山盛り。
幾生が拳銃を握る。
銃口を口にくわえる。
引き鉄の指に力が入った。
わたしは、花に埋もれて虚空を睨む。
集中した。
眼球を迫り出す。
口は張り裂けんばかりに開ききる。
心の力を呼び戻す。
目の涙袋から血が一筋流れ落ちる。
鼻血が流れる。
耳からも血が。
わたしの中に宿る四億年の生命のカタマリを腹の底から吐き出す、
無声の、
大迫力の、
気。
全実存をかけた、
芽の、
心の、
ちから。
無言の咆哮が爆発する!
エントロピーに抗え!
きん!
その音というか気が、
膜か幕のような薄い粘土のようなものをびろぉおおおおんと通り抜けたと感じた。
きんは、それを通り抜けて、バスルームへ飛んでいった。
わたしは見えた。
幾生が。
呆然としている。
愕然としている。
信じ難い顔をしている。
幾生は口から銃を出した。
銃身がぐにゃりと曲がっていた。
銃身は一回転し、
結び目ができていた。
その銃口から花が咲き、
銃身に花が巻きつき、
バスルームのどこもかしこもスターチスの花に埋め尽くされていった。
その花を見つめる幾生の奥二重の涼しい目が震える。
形の良い細い鼻とぽってりとした唇がわななき、
透き通るような涼しく美しい顔が涙でぐしゃぐしゃになっている。
花園の中でわたしも泣いていた。
血と涙と鼻水が一緒になって、顔はひどいことになっていた。
嬉しくて切なくてありがたくて涙が止まらない。
涙がこんなに愛しいものだと、
初めて知った。
愛おしいという心の様が、
愛おしくて愛おしくて、
たまらなかった。
「愛しい」わたしがそう言うと、「嘘くさい」という応えが即座に返って来た。
少女だった。
少女というにはまだ幼い、小学校に上がる前の年頃の女の子だ。
その子がわたしを睨むように、じっと見つめている。
わたしを……少女の顔の前でホバリングしている一匹の蝿を。
しかし蝿とは似て非なるものである。
この蝿の主体はガスペグと名乗った。
病院の駐車場で煙となったわたしを月に導き、静かの海で一緒に遊んでいたのだ。
今、わたし=ガスペグの目の前に立つ少女は、わたしの娘である。
「だって、それ以外の言葉が思いつかないんだもの。ただただあなたが愛おしいのよ」
とわたしは愛を訴える。でも娘は、
「勝手にふいといなくなっちゃって、そんで、勝手に蝿になって戻って来て、愛おしいなんて言われても、勝手すぎるとしか思えないわよ」
と怒ったようにたて髪を揺らす。
百獣の王と蝿では勝負にならない。
わたしは停戦(もしくは和平交渉)を呼びかけた。
「ソフトクリーム食べに行く?」
娘は、わたしをじっと見て、しばらく凝視して、そして諦めたように肩をすくめて言った。
「バニラには誰も勝てないわ」
そこは早暁、もしくは夕刻の砂漠だった。
防砂林に囲まれて火葬場がある。
入り口にソフトクリームののぼり旗が風になびいている。
わたしは旗の奥に声をかけた。「すみません」
大きなチリ取りを持った老人が出て来た。
「ソフトかね?」
「はい。ふたつください、いえ、ひとつでいいわ」とわたしが言うと、娘が老人に話しかけた。
「火葬場にソフトクリームって珍しいですね」
老人は慣れた手つきでコーンにクリームを乗せている。
「そうかね。火葬場に合わんものなどないと思っとったが。火葬場にはすべてがふさわしいんだがね」
娘は老人の話を聞きながら火葬場の裏へ視線を移した。
そこで、娘の目が見開いた。
唇から、すごいという言葉が漏れた。
火葬場の裏は一面のコスモス畑だった。
何万本ものコスモスの花が今を盛りに咲き誇っている。
老人は、わたしたちの視線に気づいて、話し始める。
「かまどを掃除すると、燃えかすの灰が出る。この灰は粗末にできん。人の最後の姿だ。昔、子供の頃、どこかの奥様が紙袋に入った種をくださったのが最初だ。それからずっとここに灰を撒き、種を育て、花を守り続けてきた。この焼き場に来て六十年以上になるが、毎日欠かさず、ずっとだ。見なさい、あのわずかだった種がこんなに増えてしまった。これはみんな、死んだ人の生まれ変わりだとわたしは思っている」
わたしたちは、何万本ものコスモスに囲まれている。
コスモスは風にそよぎ、大海の波のようにうねっている。
娘が空を仰いだ。鳥が飛んでいる。
ゆったりと輪を描いて飛んでいる。
突然、娘が泣きじゃくる。
わたしは声をかけようとして、声をかけられなかった。
デジャヴの感覚。
娘のぼろぼろ落ちる涙と鼻水と歪んだ顔と押し殺した鳴咽と握り締めたソフトクリームとぽたぽた落ちるクリームの雫と円を描くトンビとどこまでも続く砂の丘と梅の枝と白衣の男と紫のチューリップと瓶の中の胎児とスターチスの花と翡翠の美少女と。
漠然としたなつかしさに襲われていたわたしは、やっと娘に声をかけることができた。
「星の彼方にすれ違ってしまわなくてよかったわね」
娘は流れる涙を拭おうともせず、きょとんとわたしを見上げる。
「どういうこと?」
「会えてよかったね、ってこと」
娘はわたしをしげしげと見つめて言った。
「そうね。会えてよかった」
そして、
「なんか……なつかしい……」
と娘は話し始めた。
「初めての事なのに、あ、これって前にどこかで、という感じ。なつかしかった。今、星のかなたにすれ違うって話をママがした時も、すごく感じた。ずっと前に同じ事があったなぁって。なつかしい。とっても」
「……そうね」
「なんか、鼻の奥のほうが、ツンとなるような。そんな感じ」
「懐かしくて泣いたのね?」
とわたしが訊くと、
「風がね……吹いてきたの」
と娘が応える。
「その風の中に、声があったの」
「声が? 聞こえたの?」
「ううん。聞こえたんじゃなくて、声がそこにあったの」
「……そこに?……あった?」
「それで、その声がわたしの心にくっついちゃったの」
「それで悲しくなったの?」
「え?」
と娘が眉をしかめる。
「悲しいから泣いたんでしょ?」
とわたし。
「ちがうよ。声がくっついちゃったから泣いたんだよ。悲しいからとか嬉しいからとかじゃなくて、ただ泣けてきちゃうって感じ」
わたしは風を感じる。
以前、ここではない場所で吹いた風を。
過去とか未来とかの時ではなく、時の連続の彼方にある風ではなく、すぐそこにある、わたしのすぐ横にあるずっと以前の風を。
くっついちゃうほど近くにあるその風を。
いくつもの生を分け隔てる膜とか幕のようなものをびろぉおおおおんと通り抜けて自然に行き来する風を。
どの幕の向こうにも芽はいて幾生がいる。
「その声。なんて言ってたの?」
わたしは、娘に訊いた。
「あした」
と娘が応えた。
「あした?」
「そ。あした」
「あした……なに?」
「あした、写真を撮りに行くんだって」
そう、声はそこにある。
いつでも、手を伸ばせば芽と幾生はそこにいる。
ずっと黙って聞いていた老人が口を開いた。
「かかる世に何をもって楽しみとして生きるか」
わたしは微笑して応えた。
「呼吸をするもひとつの快楽なり」
老人と娘の唇の端が微かにほころんだ。
月が出て、星がまたたき、あたりは暗くなっていた。
「眠るにはもったいない夜だね」
と娘が呟く。
こちらを見た。
一粒のまん丸い涙が瞳から溢れて一粒のまん丸い真珠になった。
そこに月が映っている。
真珠の中の月からきんという音が鳴っている。
そのきんは、誰かの声になる。
わたしの声かもしれない。
こんな夜は、眠るためにあるんじゃないの、目覚めるためにあるのよ、幾生。
娘、幾生のうなじの痣、スターチスの花は消えていた。
わたしはわが家に向かった。
ドアを開けてくれる幾生は三十八歳になっている。
わたしはそこから入った。
リビングに夫がいた。
ぼんやりとベランダの向こうの月を見ていた。
こちらにゆっくりと振り向いた。
夫と目があった瞬間、ガスペグが離脱した。
わたしは、この重力のある世界で身の丈にあった愛を生きようと決心した。
夫は七十歳になっていて、しばらくわたしを見つめ、そして、微笑んだ。
「おかえり」
わたしは今、困ったような微笑みを浮かべているのだろう。
芽ちゃんのいつもの癖だねといつか夫が言っていた。
その微笑みのまま言った。
「ただいま」
もはや蝿としか言いようのないわたし、
芽は、
慎重にホヴァリングしながら、
夫の膝に着地した。
(了)
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