第1章 再生

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第1章 再生

 南国の空は蒼く澄みわたり、頭上に限りなく広がっている。  昨日降った雨のせいか、波状のちぎれ雲がふんわりと幾重にも浮かび、あたかも白い羊たちの群れに見えた。口を持たない、語るすべを閉ざされた、沈黙する仔羊たち。白くふわふわと柔らかいものたちは、滑稽なぐらい幸せ太りして見える。  テラスに裸足でたたずんでいた難波亜美は、振り仰ぐ蒼空の清々しさに、思わず両腕を天に向けて高く伸ばした。真っ青な絵の具を塗りたくったキャンバスみたいな空に、この手で触れてその存在を確かめてみたくなる。  しかし、これでもかと降り注ぐ異国の陽射しは亜美には眩しすぎ、掌を翳してさえぎらずにはいられない。陽の当たる世界は今さら自分に似合うはずはなく、ぎらつく光線に照りつけられていると、舞台で輝かしいスポットライトを浴びていた日々、忘れようと努めていたあの底なしの苦しみを、再び思い起こさせられるような気がして、怖い。 「亜美、あとでビーチにでも行こうか」  父慶介の声に我に返り、亜美は振り向いて精一杯の微笑を浮かべた。  父が母と離縁して家を出たのは、亜美が中学に入った頃だった。無沙汰をしていた父に突然呼び出され、ハワイ移住を決めたと聞かされたのは、確か高校二年の時だ。親戚や知り合いの噂では、父はそれ以来仕事を転々としたらしく、今ではここオアフ島の片隅で小さな日本物産店をやっている。  高校時代に芸能プロダクションにスカウトされ、歌の才能を見い出され、ミュージカル界の期待の新星として一時は不動の地位を築いた亜美。  だが、そんな華やかな過去にしても、遠く離れたハワイに住む父には、実感を伴わないニュースだったに違いない。それだからこそ、疎遠だった父からしばらくハワイにでも来ないかとの唐突な誘いに、亜美は素直にイエスと応えられた。どこに逃げたらいいのか途方に暮れていた亜美にとり、父が差し伸べてくれた手は、唯一の救いだったのだ。  東京から到着したばかりで時差のため、眠っていたのか目覚めていたのかわからない浅いうつろな眠りだった。羽根布団にくるまれ一日中猫のように丸くなっていたかったが、まだ病気が快復していないのでは、と父に心配されたくはなく、亜美は昼近くになってベッドから起き出したところだ。 「雨が上がってくれて、よかった」  テラスに続くサンルームのようなキッチンのテーブルに朝食の皿を並べながら、慶介が独り言のように呟いた。  昨日初めてハワイの地に降り立ったところ、陽光が燦々と照りつける常夏の地を想像していた亜美は、不機嫌な鈍色の厚い雲におおわれた空とスコールのごとき激しい雨に驚かされた。コンクリート色の空から、これでもかと容赦なく降り注ぐ雨。  父は空港まで迎えに来てくれたが、三十二歳になった娘の顔を最初はそれと気づかなかったらしい。亜美が近寄って声をかけたところ、父はまるで初対面であるかのような当惑を一瞬顔に浮かべ、それから黙ってうなずいた。実の親子だとはいえ十数年も顔を合わせていなかったので、他人行儀なぎこちなさや妙な照れ臭さを感じるのはお互い様だ。  ハワイに出発する父に日本で最後に逢った時、芸能プロダクションに入ってモデル稼業を始めた、と高校生の亜美は自慢げに報告した。祝福してくれるかわりに、父がかすかに眉をひそめたことを今でも忘れられない。 「自分で決めたことだろうからお父さんは反対しないが、自分を見失わないようにな」  そうとだけ言いわたされた。  手を出した事業にことごとく失敗し、あちこちに借金を作って金策に駆けずり回り、家を留守にしてばかりいた父。母は父のことを良く言わなかったし、亜美としても子供心にダメな父親だと醒めた眼で眺めていた。  それでも父のことは好きだったので、スカウトされたことを喜んでもらえなかったことに落胆し、憤懣をさえ憶えた。あの時認めてもらえなかった悔しさが心のシコリになり、それ以来疎遠になっていたともいえる。 「お父さん、私がやる」  亜美はキッチンでコンロに向かい、父の手からフライパンを受け取って料理を交替しようとした。 「いや、朝食ぐらい、お父さんが作ってやるさ」  慶介はフライパンを温めてバターを溶かし、二つに割ったイングリッシュマフィンを並べると、その片隅でベーコンの両面を軽く炙り、ベーコンの間に卵を器用に割り落とした。焦げたバターの豊饒な香りとベーコンが焼ける香ばしい匂い。亜美はふと空腹感を憶え、お腹が空く、という当たり前の感覚を長い間忘れていたことに気づいた。 「亜美、コーヒーを淹れてくれ。カップはその食器棚だ」  父に指示されて、亜美はキッチンキャビネットからマグカップを二つ取り出した。真っ赤なハイビスカスの花とアイ・ラブ・ハワイという文字が描かれた安物の土産物カップ、それにイルカの尾のごとき風変わりな持ち手がついた濃紺の素焼きのカップ。  簡素な平屋の家に無造作に置かれている家具や小物はもらい物を集めたのかどれもチグハグで、センスが良いとはお世辞にも言いがたい。  ふと、青山のマンションの食器棚に整然と並べられているイギリス製高級ボンチャイナのセットを思い起こし、亜美はあわてて棚を閉めた。今となっては二度と思い出したくない生活、決して開けてはならない固く封印された過去だ。  コーヒーメーカーからポットを取り出しコーヒーをマグカップに注ぐと、キッチンに香が立ちこめた。開け放したテラスから陽光が降り注ぎ、微風に煽られたレースのカーテンが揺れるたびに、タイル敷きの床に光が愉しげに躍る。  ひょっとして、再びやり直せるのではないだろうか、と亜美は実に久し振りに、漠然としたかすかな希望を見出した。  父と向かい合って朝食のテーブルに座り、亜美は黙々と朝食を食べはじめた。  昨日は到着したばかりという言い訳があったのだが、今日は数年振りに再会した父と、面と向かって話らしき話をしなければいけないに違いない。  しかし、いったい何をどこからどう話したらいいのか、まったくわからなかった。父と逢わずにいた間に起こった怒涛のような変転を、一度は確かにこの手でとらえた幸福の絶頂と、コテンパンに叩きのめされ、精神的な地獄を這いつくばっていた忌まわしい日々を、いったいどう説明すればわかってもらえるだろう。 「その卵、うまいだろう? この近くの農場が直販しているんだ」  少しうわずった父の声に、亜美は顔を上げた。 「うん、すごく美味しい。黄身の色も濃くって綺麗だね」  亜美の返事に、父は安堵したかに目許を緩めた。  小さい頃、亜美は父親似だとよく言われたものだ。六十歳を超えた慶介は白髪やシミが増え、肉体労働者のごとく浅黒く日灼して顔皺も深く、昔ほどの好男子ではなくなっている。  昨日空港で再会した折には父がずいぶん老けたことに内心驚いたが、こうして向かい合って座ってみると、記憶にある昔の面影が残っていた。それに、父を悩ませ老けさせたのは娘であるこの自分の失態かもしれず、申し訳なさに胸が痛む。  亜美がフォークを持つ手を止めると、父が心配げな声で聞いてきた。 「ベーコン、焼きすぎて固くなっちゃったかな」  亜美は急いで首を横に振った。 「そんなことない。それに、カリカリベーコン、私、好きだし」  父を安心させるべく微笑しようと試みたとたん、頬の筋肉が不自然に強張り、唐突に涙があふれて止まらなくなった。 「おい、・・大丈夫か? どこか、具合でも悪いのか?」  父のおろおろした声が、まるで擦りガラスの向こうから話しかけられたかに、間遠に響く。 「全然、大丈夫なの。・・時々、こうなるんだ。・・でも、心配しないで。本当にもう大丈夫」  あわてて指で涙をぬぐいながら亜美が無理に笑顔をこしらえると、不安な面持ちで椅子から腰を浮かしかけていた父は、ようやく椅子に座り直した。  しばらく無言だった慶介は、それからゆっくりと口を開いた。 「あのな、亜美。ここはお前のうちなんだから、無理するな。・・泣きたい時には泣けばいいし、黙っていたい時には黙っていればいい。・・お前は昔から頑張り屋だったから、きっと長年の疲れが溜まっているんだ。ハワイでバカンスしているつもりで、お父さんの家で好きなように過ごしたらいい」  亜美は父のいたわりの言葉に思わず眼をそらし、テラスの向こうに広がる青々とした緑の芝生を眺め、出かかっていた嗚咽を呑みこんだ。  何が悲しいということでは、ない。  一人では支え切れない悲しみ、睡眠薬中毒に陥るほどの絶望。  この身体を蝕んできた悪夢とは、もう完全に縁を切ったはず。  長い間疎遠だった父親の、いかにも親らしい気遣いやら優しさに触れて、それで涙腺が緩くなっているのだろうか。  父と視線を交わすのが気恥ずかしくて、亜美は庭を見つめながら、胸の内を思いつくままに言葉で現わそうと努めた。 「あのね、お父さん、・・お父さんは私が芸能界に足を踏み入れた時に、自分を見失うな、って言ってくれた。・・でも、私は長いこと自分を見失っていた。・・どうしてそうなっちゃったのか、自分でもわかっている。病院で治療してもらったから、今度こそもう大丈夫だ、って思っている。・・でも、・・まだ不安なの」  慶介はしばらく無言だったが、それから励まそうとばかりの快活な声を出した。 「亜美、不安じゃない人間なんて、この世にいないさ。誰だって不安だし、臆病になる。お父さんだって、この歳になっても毎日、不安に思うことがいろいろある。だから、心配するな。そのうちに、きっとそんな自分と折り合いがつくようになる。美味しいものでも食べて、先ずは腹ごしらえだ」  亜美は父を振り向き、無理に笑顔を形づくった。  たぶん父は母から、亜美が精神を病んで自殺未遂を起こし、インタビューや舞台稽古をドタキャンして芸能界を追い出されたことや、薬物中毒で入退院を繰り返したことを聞いているに違いない。  けれど、そういった暗い過去に触れないでいてくれることがありがたかった。父のお陰で、心ない芸能記者に追い回される心配がないオアフ島の片田舎に逃げて来られたことにも、感謝していた。  たぶんいつの日にか、父にだけは苦しかった年月を打ち明けてみたい気がする。でも今の精神状態では、禁断の過去の日々を振り返る危険は冒したくない。もう本当に大丈夫だと自分を納得させられるまで、あの日々のことは忘却の彼方に追いやっておきたいのだ。
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