還れぬ涙のクラリッサ

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還れぬ涙のクラリッサ

「やり直し!」  バン!と手摺を叩く大きな音がした。私はびくりと肩を震わせて俯く。  泣いてはいけない、泣いてはいけないと言い聞かせる。涙を零したら余計相手の機嫌を損ねることなどわかりきっているのだ。彼女はきっと思うだろう、泣けば同情して貰えるとでも思っているのか!と。泣いて自分は被害者だとでも主張したいのか、と。  だから自分は絶対に、泣かないようにしなければいけないのだ。というか、いい加減慣れないといけない。機嫌を損ねてバンバン壁や手摺を叩いて不手際を指摘されることなど、今に始まったことではないのだから。 「何なの、この埃。私、言ったはずよね?今日は大切なお客様がやってくるのだから、エントランスの掃除は徹底するようにと。それなのに、こんな目立つところに埃や手垢がついているのはどういうことなの?」  いい加減こっちを見たらどうなの、と言うので。私は仕方なく顔を上げた。  真っ赤なドレスを着た奥様は、ギラギラした目でこちらを睨んでくる。真っ白に塗りたくった顔に、青く派手なアイシャドー、ダークレッドの口紅がけばけばしい。もう良い年齢なんだろうが、正確にいくつくらいなのか全くわからない。なんせ、こっちは見た目はともかく中身は純日本人なのだ。白人女性の正確な年齢を図ることに長けているはずもないのである。  恐らく四十から六十。その年齢のせいなのか、夫の愛情が自分から離れていくことにイライラしているからなのか。彼女は私がやってきてから、当然のように当り散らす日々が続いているのだった。私が可愛いからではない。単純に一番新人で、一番若いからである。彼女にとっては私のような貧しい生まれのそばかすだらけの女であっても、若いというだけで充分嫉妬の対象なのだろう。 「も、申し訳ありません、奥様……」  私はどうにか、声を震わせながら謝罪を口にする。言いながら、何で私ばっかりが、と心の隅で思っていた。  そもそもエントランスは人の出入りが多いせいで、一番汚れやすいのである。日本の家と違ってこのヨーロッパ風の世界は、カーペットも寝室も靴を履いたまま上がるのが当たり前だ。当然、泥もそれだけ持ち込まれやすくなる。玄関は特にそう。誰かが通るたびに新しい汚れは増えるし、そもそもカーペットの汚れを完全に落とすことなど不可能だろう。  それなのに、奥様と来たらいつも私にばかりこの一番大変な玄関周りの掃除を申し付けるのである。他にもメイドはいるのに、何故か私一人でやれと。  彼女は待っているのだ。私が音を上げるのを。そして、仕事をやめていくのを。 「申し訳ありませんって言うけれどね。いつも同じじゃないの。ねえクラリッサ。貴女、何回同じことを言ったかしら?指示された掃除が終わらなくて、言われた通りにできなくて、どれくらい私に恥をかかせてきたのかしら?ねえ、私だってこんなふうに誰かを怒鳴るようなことしたくはないのよ?誰のせいなの、ねえ?」
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