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猫尾城
突上戸から櫓の内に流れ込む風に、煙が混じるようになった。状況を確かめようと、三娘は、用心深く外の様子を窺った。眼下に見下ろす二ノ丸櫓に火の手が上がっている。城門が打ち破られ、敵味方の兵が激しく入り乱れている。
彼女はすぐに顔を背けたが、それは煙が目に滲みたからではない。駆け上がって来る風が、喚声と悲鳴、そして夥しい血の臭いを運んで来たからだ。
黒木川と椿原川が結ばれる地点を見下ろす山の頂に建つ猫尾城。その本丸、大手門櫓の二階に彼女はいた。
いよいよ覚悟の時がきたのだ。
彼女は沈痛な面持ちを決意の表情に一変させ、壁に立て掛けていた長刀を握ると、半ば飛び降りるように階段を駆け下りた。
「父上」
「三娘か」
彼女の呼び掛けに振り向いたのはこの城の主、黒木家永である。一月半に及ぶ籠城戦で、顔の半分は髭に覆われているが、眼光はなお炯々として精気を失っていない。還暦を迎えてなお若者のような闘志を感じさせる。
「敵が来ます」
「承知している」
家永は落ち着いている様子だった。だがそれは迎撃の自信があるからではない。すでに敗北必至の状況下で壮絶な覚悟を決めた者に訪れる静寂に似た心境によるものだった。
黒木家は長きに亘って豊後大友氏に臣従していたが、肥後龍造寺家に隆信という稀代の英雄が現れると、彼の冷酷非情な圧迫の前に膝を屈した。結果的に龍造寺家に寝返る形となり、大友氏からは裏切者として恨まれることになった。
この春、龍造寺隆信が島原で討ち死にするという不測の事態が生じ、巻き返しを図る大友氏によって黒木家も討伐を受ける状況に陥った。
しかし要害として知られた猫尾城に立て籠った黒木家は、数倍の兵力で押し寄せる大友勢に包囲されても動揺しなかった。戦況はむしろ籠城している黒木の方が優勢かと思える程だった。
その状態に業を煮やした大友氏は、名将の誉れ高い戸次道雪・高橋紹雲の派遣を決めた。戸次・高橋に率いられた四千五百の軍勢は、大半が敵の勢力圏内という十五里(約六十キロ)の道程を僅か一日で駆け抜け、黒木の里に到達した。天が味方したのか、折からの激しい雷雨と夜の帷が、到着した軍勢の姿を隠した。果たして翌朝払暁と共に、突然湧き出たように出現した軍勢を目の当たりにし、さすがの黒木勢にも激しい動揺が走った。
まず黒木家の筆頭家老である椿原式部が降伏し、守備に就いていた高牟礼城を開城した。それが十日程前のことである。
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