第一話「予言」

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第一話「予言」

「失礼しました」と、下げたくない頭を下げて一階の理事長室を出る。 「秀ちゃん!」 「桜か」  幼馴染の桜が、俺のところまで走ってくる。ショートカットの髪がリズミカルに波打つ。大きな胸もわずかに上下に揺れている。本人は、無自覚なのだろうか? 「校長先生がた、なんて言ってたの?」  俺は、黙って廊下の窓から四月の夕空を見上げる。 「まさか、秀ちゃん、囲碁部やめないよね」  桜の顔を見ると、泣きそうな表情で俺を見つめていた。下手に隠すより、はっきり言ってやった方がいいのかもしれないなと思い、理事長たちからの話を伝える。 「今度の夏の全国大会団体戦で優勝できなければ、特待生を剥奪されることになった」 「そんな」  桜がうつむく。うつむいた先には彼女の胸がある。長袖の真っ白なブラウスから、下着が透けて見えた。今日は青か。確か昨日はピンクだったな。  そんなくだらないことを思いながら、俺は教室まで鞄を取りに行こうとしたところで、彼女にこう言われた。 「秀ちゃん。私、秀ちゃんの将来が不安なの。だからお願い、囲碁を打とう?」  こいつはいつもそうだ。自分の心配なんかしないで、俺のことばかり。俺の親気取りでいるのだろうか? 「そういうお前こそ、受験、大丈夫なのかよ。もう二年生だっていうのに、お前、家庭科以外2や3ばっかりじゃん」  俺たちが通う汐留高校は10段階評価で、桜は家庭科だけが10。まぁ、そんな彼女のおかげで、俺の家や衣服も綺麗に保たれているわけなのだから、その点においては感謝しなければならない。食事にも困っていないし。  俺の母親は俺を産んだときに死んだ。父親は売れない画家で、修行とか言って俺を放置して海外をぶらぶらしているどうしようもない人だ。そして俺はというと、家事が一切できないものだから――やりたくないと言った方が正しいが、家のことはほとんど幼稚園の頃からの付き合いの桜に任せている。 「そんなんじゃ、仕事見つからないし、進学だってできやしないぞ」 「秀ちゃんの、――になるからいいもん」と、桜はか細く言い、何を言ったのか肝心なところが聞き取れなかった。 「……まぁ、いいや。桜は、この後予備校だろ?」 「秀ちゃんは?」 「渋谷寄って帰る」 「あ……、遊んでばかりで、大丈夫なの? 団体戦って、三人一組なんだよね? みんなと練習しなくていいの?」  俺は桜の胸から視線を外し、無言でスタスタと歩き始めた。  入学当初は楽しかった。日本棋院の院生を辞めても、囲碁がつまらなくなるわけではないと、純粋に楽しんでいた。学校で初めての友達もできた。だけどそれも、最初の半年までのことだった。  ――アマとして、君は強すぎるんだよ。プロになればいいのに。  ――あいつの強さ、はっきり言って反則級だよな。  一年の夏の、全国大会個人戦決勝のことだ。対局相手と、俺の応援で来ていた連中に、そう言われた。  そして対局の内容も、つまらないものになっていた。一方的な碁だった。相手は大石が死なないよう、懸命に生きるのが精一杯で、俺は相手の弱い大石を攻めながら地をうまく囲えばいいだけの碁。相手がモタツイテいるあいだに地合い差は大差だったのだが、最後は、相手のポカで大石が死んで俺のアゲハマとなり、とても全国レベルの内容とは言えなかった。 「別に、いいだろ。それに、もう嫌なんだ。学校のために打つのがさ」  誰のためでもない、自分のために打ちたい。でも、自分の碁がわからなくなっていた。厚みのある碁でも、模様を張る碁でも、実利先行の碁でも、俺は対局相手の棋風に応じて打つことができていた。勝つことも。なまじオールラウンドに打てると、碁はどう打てばいいのかわからなくなるらしい。それが中学時代、プロ試験で四敗を喫するまで続いていた。  小学生の頃から中学生の頃まで、院生一組一位と他の追随を許さなかった俺は、プロ試験も当然全勝合格できるだろうと、誰もが思っていた。しかし、七年間一組一位の成績でありながら、プロ試験はあともう少しというところで連敗し、結局合格には至らなかった。実力では、誰よりも上を行っているはずなのに、まるで勝ち方を忘れてしまったかのように負け続け、中学を卒業する前に院生を辞めた。 「じゃあ、私、予備校行くね。また明日ね」 「ああ、頑張れよ」  俺たちは下駄箱のある正面玄関でわかれた。  ――学校のために打ちたくない、か。いや、嘘なのかもしれない。本当は、相手が誰であろうと本気で打てば、プロ試験でなければ絶対に勝ってしまうから、もう俺にとって囲碁はつまらないゲームでしかないのかもしれない。  ――もう、部活に来なくていい。ただ、公式手合いにだけは出ろ。出て勝ちさえすれば、文句はない。  と、顧問はさっきの面談で言っていた。理事長も、「君は我が校の広告塔だ。君が結果さえ出してくれれば、何も言うことはない。廃部寸前の囲碁部を守れるのは、君だけだ」と。 「ネット碁でも、プロに勝っちまったからな」  虚しい気持ちが、孤独を呼ぶ。もう、俺に勝てる奴は、この世のどこにもいないのかもしれない。  階段を三階まで上がり、夕陽に染まる教室に入る。教室には誰もいなくて、窓際の机と椅子だけが茜色に存在感を放っていた。孤独だ――と、思う。まるで俺と同じように、どこか知らない場所に迷い込み、誰も助けてはくれない。そんな空間が広がっていた。  俺は鞄を手に持ち、また階段を下りて正面玄関を出る。すると、冷たい一陣の風が吹いた。 「もう、春だっていうのに」  急に、渋谷に行く気も失せたので、真っすぐ帰ろうとし、正門を出ようとしたところで、昨日のことが頭の中で繰り返される。 「君が、夏目秀呉だね?」と、下校しようと正門を通る瞬間、声をかけられた。 「……あん? てめぇ、誰だ」  正門の柱を背もたれに寄りかかって立っていたのは、長袖のYシャツに身を包んだ同年代の男だった。  ――あの胸のエンブレムは確か……、私立洛陽高校の。囲碁部がやたら強いと聞いたことがある。特に去年入学した奴らは、特別強いと。その中でも群を抜いているのが、 「元院、洛陽高校囲碁部二年の林英一だ」  そう、思い出した。こいつだ。部長に聞いたことがある。去年の週刊碁にも写真付きで紹介されていた。実力はすでにプロ並みで、碁会所や囲碁道場で院生相手に指導碁もしているのだとか。 「元院様が、何の用だよ」と、鼻で笑いながら問う。 「君は、今度の夏休みにおこなわれる全国大会団体戦に、出場するのかい?」  俺の質問は無視かよ。 「言っておくけれど、今年は僕がいる。去年は院生だったから出場できなかったが、今年は違う。メンバーの棋力も充実してきている。だから、僕の勝利は絶対だ」 「はいはい、それは良かったな。だが残念だったな。俺は出ない」  林の眉が、ぴくりと動いた。 「出ない? ふざけるな! 君と公式の場で戦うために、院生を辞めたんだぞ」  俺が院生を辞めたのと入れ替わるようなかたちで、こいつは院生になったのだという。わずか半年で、二組二十六位から一組一位まで上り詰めたという。それだけの才能がありながら、なぜ院生を辞めたのか訊いてみた。 「君と、対局するためだ。僕が院生になった頃、君の噂を聞いた。トップ棋士と互角のレベルを持ちながら、メンタルの弱さが原因でずっとプロになれなかった君の話を。僕は君に勝ってから、プロになる」  俺のメンタルの弱さだぁ? そんなもん、あるかよ。 「それはご苦労なことで。言っておくが、お前ごときじゃ俺の相手にもならねぇよ。もっとも、大会には出ないから、相手になるならない以前の問題だがな」  じゃあなと言って、立ち去ろうとした。 「いや、君は必ず出る。君の意思がどうであろうとね。これは予言だよ。そして勝つのは僕だ。大将戦、楽しみにしているよ」  最後に林はニヤリと微笑み、そう言った。  小田急線成城学園前駅で急行に乗り、新百合ヶ丘駅で降りる。その頃にはもう夕陽は沈んでいて、夜の帳が下りていた。  俺が必ず出場する? どういう意味だ?  昨日の出来事を思い返しながら、改札口を抜けて家までの道をゆっくりと歩いていると、だんだん、闇が濃くなってきた。空を見上げると、満天の星々がそこにあり、その輝石たちが己の御伽噺を聞かせるかのように必死で光っている。これだけの星たちが粒々と散りばめられている薄明りの空はすてきだ。まるで俺の不満をキュウっと吸い取ってくれているようにさえ思えてくる、そんな夜だった。                 ***  ピンポーン! と、チャイムが鳴り、目が覚めた。時計を見てみると時刻はちょうど四時だった。ベッドから降りて窓の外を見る。 「はぁ、桜か」  自室を出て、階段を下り、寝間着のまま玄関の戸を開けた。 「秀ちゃん、おはよう」 「おう。今日は暑いな」  満面の笑顔で挨拶する幼馴染。今日はオレンジか。個人的にはピンクか青が好い。 「上がってて。すぐに支度する」  どうせ特待生は剥奪されるのだから、今日はサボろうと思っていた。昨日、仮病の電話をすればよかったなと、思いながら洗面と着替えを済ませ、脱衣所から居間に移動する。  ――続いては、連続殺人事件のニュースです。  桜がテレビをつけたまま、制服にエプロン姿でキッチンに立っていた。 「待ってて。今、朝食ができるから」  俺はソファに座り、テレビを見ながら、あることを訊いてみた。 「なぁ、お前、ちょっとは強くなったのかよ」 「なったよ~。伊藤部長と高橋くんに教えてもらってるんだから」 「ふぅん、あんなヘボ二人組に教わって、強くなれるもんなんだな」  高橋哲郎。俺と桜と同じ囲碁部員で同級生。何でも小学五年生の頃に全国子供囲碁大会で優勝したことがあるらしいのだが、去年の春に対局したときは手応えをまるで感じなかった。  伊藤進部長は三年生で、棋力は初段。こっちは論外。詰碁と手筋の問題を何十問と毎日解いている割には、対局中、死活を間違えることが多い。相手の手筋も見抜けない。まるで盤上の魔法使いを相手にしているかのようだよと、去年、高橋との対局後に言っていた。  夏の全国大会団体戦で優勝しろ……か。理事長と校長、それから坂上顧問も無理難題を押し付けてくれたものだ。もし出場するのだとしたら、部長を大将にして、残りの副将戦と三将戦で勝ちにいく作戦でないと優勝はまず無理だ。 「桜、今、棋力どれくらい?」 「3級だよ」と、言いながら朝食をおぼんに乗せてテーブルに持ってくる。サラダにスクランブルエッグ、食パンにコーヒー。  俺はテーブルの椅子に座りながら「去年、5級だったよな? 一年かけてそれだけしか強くなってないのかよ」と、呆れてしまった。  いよいようちも駄目になってきたな。たかが級位者なんかを相手にする日々。これは優勝どころか予選すら危ういな。  去年の汐留高校囲碁部は、二十人くらい部員がいたのだが、当時の三年生が新一年に恐喝や暴行、集団万引きをさせたりで大騒ぎとなり、廃部寸前の危機を迎えたのだった。そして残った部員が、俺と部長と高橋と桜の四人だった。 「秀ちゃんが指導碁を打ってくれれば、みんなも、私だってすぐに強くなれるよ!」 「そうだといいがな」あまり期待せずに言い、パンをかじる。 「今日は、部活来るよね?」  囲碁は、格下が相手ならば、逆コミ5目半とか置石とかハンデをつけるのだが、俺は三子以上の置き碁は打ちたくない。三子以上の、下手な奴とは打ちたくなかった。全国区の高橋でさえ、俺と打つときは五子局になる。 「乗り気しねぇ」と言うと、 「みんなで強くならないと、全国大会団体戦、優勝できなくなるよ? うちの大将は秀ちゃんなんだから、みんなを引っ張っていかないと」と、桜はスクランブルエッグをスプーンで口に持っていきながら言った。 「勝手に大将にするなよ。それに、本気の対局でも指導碁でも、俺と打つなら、あの如何ともしがたい実力差を埋めてからにしてほしいもんだぜ」  俺の言葉で、桜の表情が暗くなる。彼女の希望を、俺は闇の奥へと追いやってしまったが、事実だからしかたない。  囲碁が上達するのに重要な考え方なのが効率だ。囲碁は効率を求めるゲーム。例えるなら、少ない人件費(石数)で大きなお金(陣地)を作ったり、相手の石の働きを鈍らせて効率の悪い陣地にさせたりするゲームなのだ。その辺のことが、部長ですらわかっていない。  ――あの人、石の形とその効率の良し悪しが、まるでわかってないからな。  それからは、俺たちの会話は沈黙してしまい、朝食の跡片付けをしてそのまま登校となった。  途中で、 「ねぇ、秀ちゃん。あそこ、何だろう」と、桜が路地裏にできている集団を指さす。 「ちょっと寄ってみよ?」  桜は有無を言わさず俺の腕を引っ張った。  人と人との間を抜けて最前列に出てみると、keep outと書かれた黄色いテープが張り巡らされている。  ――連続殺人事件が、またあったらしいぜ。  ――怖いわね。これで七人目だっけ?  と、男女の話し声が後ろでした。  どうも、犯行現場は路地裏の奥の方で、ここからだとよく見えなかった。現場がどうなっているかは俺たちには想像するしかなかった。  この、新百合ヶ丘という小さな街で、もう七件か。  上空を見てみると、暗雲が垂れ込めようとしていて、今にも雨が降り出しそうだった。何か、嫌な予感がする。そんな早朝だった。
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