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「伊一!」
利助が飛び起きると同時に感じたのは、胸を破りそうなほど激しい己の鼓動だった。全身ぐっしょりと汗で濡れ、牢の硬い床に染みをつくっている。視界に入るのは鉄格子。ここは伝馬町牢屋敷の中にある牢獄だ。
「起きましたか、随分魘されていましたよ」
利助に穏やかに声をかけてくれたのは、万吉という同じ牢に入れられた男だ。他にも数人牢の中にいるが、他の者たちは利助から距離をとって嫌悪の目をこちらに向けている。
「起こそうかと思いましたが、あなたが息子さんの名前を繰り返すので。逆に悪いと思いまして」
万吉は利助より五つ年上だと聞いている。穏やかそうな成りだが、殺人を犯して利助同様死刑を待つ身だ。自分たちだけでなく、この辺りの牢に入っているのはみな死刑を宣告された者たちである。しかし利助は、万吉に息子の名を教えたことがあっただろうか。
「男が男の名をああも切なげに繰り返すなら、それは息子さんではないかと」
死刑囚に似つかわしくない丁寧さで、万吉は言った。
「それにあなたがご家族を例の事故で亡くされたことは、牢番たちも言っていましたし」
牢屋敷の牢番に限らず、江戸の人間はみな噂好きだ。利助がどんな人間かは牢に入れられて早々に牢屋敷中に広められてしまった。おかげで利助の牢生活は居心地が悪いくて仕方がない。悪人が集まる牢屋敷でも、特に非道な者への当りはきつい。周りから受けた私刑の跡は、背中に生々しく残っている。利助も逐一やり返すものだから、その傷もなかなか治らないのだ。
唯一、普通に利助と接してくれているのが万吉なのである。
「私も息子たちを亡くしましたから。いえ、永代橋ではありませんので安心してください」
万吉は利助相手でも柔和に頬を緩めてみせるのだ。
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