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談雑3:君の名の
「『左 灯心』というのはペンネームですが、本名を知りたい人もおられると思うんですよねぇ。公表はしないのですか?」
「しませんよ。するくらいなら最初からペンネームなんて使いません」
「なるほど。では、わたしが公表したいと思います。皆さん、左くんのほ――」
「わー! わー!! わー! わー!!!」
「あーもーうるさいなぁ。何なんですか?」
「あのね、司さんあなたね、私の言ったこと聞いてました? もとい、聴いてました?」
「もちろん聴いていましたとも」
「じゃなんで公表しようとするの?」
「それは……例えば、左くん」
「ん? どうした?」
「ちょうどわたしの右手にですね、人気作家の単行本があります。左くんの好きなM博嗣さんのシリーズ最新作にして完結編となる一冊です。もう読みました?」
「いえ、まだです。……で?」
「そうですか。OKです。さてさて、次にわたしの左手ですが、ご覧のようにビニール袋があります。中身は、わたしの愛犬が今朝方散歩した際に生産した茶色の物体です」
「……」
「どちらかを選ぶよう言われたら、左くんはどちらを選びますか?」
「そんなもん、M博嗣先生の単行本に決まっていますよ!」
「どうして?」
「『どうして』? どうしてって、私が興味があるのがそちらだからです」
「ほー、茶色の物体には興味がないと?」
「ないないないない」
「じゃあ、その物体にまだ温もりが残っていたとしたらどうですか?」
「うわあ~、やめてください、なおいらんわ」
「え? 左くんは、いったい何を想像しているのですか? ま、いいか……。話を進めましょう。
今の左くん自身の回答からもおわかりのように、人は皆、自分の興味のある方を選択します。そうですね?」
「……ええ、まあ、そうですけど」
「わたしも、そうしようとしただけです」
「えーと、つまり、私が本名を公表しないことにではなく、公表することに司さんは興味があると?」
「そういうことです」
「本人が公表したくないと言っているのに?」
「そんなこと関係ありません。選ぶのはわたしですから」
「それはひどいなあ」
「え? どうして? じゃあじゃあ、わたしが、『М博嗣の単行本ではなくて茶色の物体を渡したい』と思ったら、左くんは受け取るのですか? 受け取らないんでしょう? たとえそれが温かくても」
「それは……そうですけど」
「選ぶのは左くんであって、わたしの思いは関与できませんよね?」
「うーむ……」
「ね? ね? 同じことです。わたしは左くんの本名を公表したいと思った。……それだけのことです。間違ってないですよね?」
「……そうかも……しれないと……うーん、思えてきました」
「お、お、苦しんでますね?」
「ぐぐぐ……うー……うーん――」
「その苦しみを乗り越えた先に、より広ぉぉぉぉぉぉぉい視野が開けるのです」
「……うーん……」
「頑張れ! 頑張るんだ! 左! 左灯心!! 今、いま、新しい左灯心が誕生しようとしています! その歴史的な瞬間を、間もなく、まもなく、迎えようとしています!
いやあ、この場に立ち会えて非常に嬉しいですね、司さん。
そうですね司さん、わたしのおかげで、昔からの長い付き合いである友人が考え方を調整するのを見るのは……感動です! ううッ。
ですよね。それにしても、左くんはしきりに首を傾げていますね? まだこれまでの自分の思考が捨てきれないのですね? 古い人格を捨てるのは大変なことなのですね。
でもこれは、乗り越えなければならない試練です……おや? 左くんの動きが止まりました! これは、精神的脱皮に成功したのかぁぁ?! 」
「……」
「真顔になった左くんに訊いてみましょう。左くん、左くん?」
「あはい」
「気分はいかがですか?」
「べつに、なんとも」
「考えの整理はつきましたか?」
「整理? どういうことです?」
「わたしが左くんの名前を公表することにつ――」
「そんなもん、ダメに決まってます」
「あら~」
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