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この世の中には、色んな言葉が溢れている。
人が話す言葉。文書に埋め込まれている言葉。物語を紡いでいる言葉。音楽にのせられた言葉。きっと、ひとつひとつの動作にだって、言葉は付いてまわるのだ。
ふと、思う。毎日を生きていく中で、私たちはどのくらいの言葉に触れ合うのだろう。
その答えはきっと、私たちの身体を形作っている細胞の数を数えるようなものなのだ。
TVの中で話し続けるアナウンサーの言葉を垂れ流したまま、ケトルからマグカップへとお湯を注ぐ。鈍色の液体が、俯く私の顔を映す。ひどいクマが目の下に鎮座している。溜息を溶かすために、準備して置いたスプーンで砂糖と一緒にかき混ぜた。
ブブッと机に伏せていたスマートフォンがまたひとつ、言葉の到着を知らせた。
冷たいつるっとした表面に、いつも通りに己の親指を滑らせ、目的のアイコンをタップする。
開かれた吹き出しには、私だけに届けられた、言葉の贈り物。
「俺たち、別れたほうがいいと思う」
白い吹き出しの中には、丸みを帯びた文字で、ただその一言。
その文字たちに、目を奪われた。刹那、脳裏には、次々と言葉が溢れる。止め処ない。
何で。如何して。私の何処がいけなかったの。
嫌だ。やめて。聞きたくない。言わないで。
私が必要だって、嘘でもいいから、そう言って。
無意識で浮かんだ言葉の軌跡を、親指は辿るようにキーボード上を滑る。
親指が休憩した一瞬で、文字をなぞるように動く私の目線。
瞬きをする僅かの間で、脳内の司令官は、最後に、全てを無かったことに、と親指をバックスペースキーに誘導する。
打ち込んだ文字を全て消した。タタッ、と音を立てて動く私の指は、短いけれど精一杯の嘘を吐く。
緑色の吹き出しに表れたのは、虚偽と欺瞞で塗り固めた、偽物の私。
「分かった。今までありがとう」
本物の私の頬を、涙が伝う。
ごめんね、私の言葉たち。
ぶつけてあげられなくて。かたちにしてあげられなくて。残してあげられなくて。刻んであげられなくて。
嗚咽が零れ出る。飲み込んでしまいたくて、コーヒーを流しいれる。苦い。
それでも溢れ出して止まらない感情に、必死に唇を噛み締めた。
この涙は、別れが哀しいからじゃない。
ただ、言葉になれなかった感情が、溢れて零れているだけなのだ。
自分にそう言い聞かせて、私はスマートフォンの電源を落とした。
ただ真っ暗な画面に、言えずに閉じ込めた言葉たちが、ぱた、と雫になって落っこちた。
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