海よりも深く

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今時こんな律儀な人がいるんだ。 「隣に越して来た人見海と申します。よろしくお願いいたします」 差し出されたタオルを受け取りながら私はそんな風に思った。 「これ、もらったよ」 室内に戻り、明に話しかける。 写真立ての中で穏やかな笑顔を見せている、遠距離恋愛中の婚約者。 本当はこのマンションは彼と同棲し、そのまま新婚生活に突入できるよう契約したのに、こんな事になってしまった。 『そこに居ても仕方ねーだろ?さっさと帰って来いよ』 実家の弟には、電話越しにそう諭された。 典型的な体育会系でとても明るくて強い子なんだけど、周りにもそれを求めるのが玉に瑕で。 挫折を知らない分、人の心の機微を読み取るのはあまり上手ではない。 ただ、確かに一人で住むにはここは広すぎる。 お隣さん…ヒトミカイさんは、どういういきさつで越して来たのかしら…? 「あ、高橋さんおはようございます」 数日後の早朝、集積所にゴミを出し、エレベーターを待っていると背後から挨拶された。 振り向くと、上下黒のジャージに身を包み、首にかけたタオルで額の汗を拭っている人見さんの姿が。 「おはようございます。ジョギングですか?」 「ええ。元々ストレス解消にジム通いしてたんですけど、精神を安定させるには心を無にして走るのが一番だと最近気付きまして」 言葉とは裏腹に、何故か彼は寂しそうに微笑んだ。 その時ふいに感じた。 この人は私と同じ匂いがする。 深い深い悲しみを経験し、何とかそれを乗り越えようともがいている人。 「…じゃあ、私も走ろうかな」 「え?」 「今、遠距離恋愛中なんです」 数日前に出会ったばかりの人に何を言ってるんだと思ったけれど、言葉の勢いは止まらない。 「物理的には離れてしまったけれど、精神的には今でももちろん繋がっています。いつかは彼の元に行けるんだから、それまでは精一杯頑張ろうと思います。でも…」 人見さんは無言で私を見つめている。 「やっぱり、どうしようもなく心が折れそうになる時があって…」 すると彼は素早く接近し、タオルで私の頬を拭ってくれた。 そこで初めて自分が泣いている事に気が付く。 「人生、色々ありますよね…」 穏やかに囁いたあと、人見さんはハッとした。 「あ、すみませんっ。俺の汗が付いたタオルなんて汚いですよね?」 慌てる彼を見て、私は思わず破顔した。 明と離れてから 明が天国に行ってから、初めて心の奥底から沸き上がって来た、とても温かい気持ちに押されて。
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