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「君とこの道を歩くのも、今日で最後になるのか」
コンビニで買った120円のバニラアイスを舐めながら、彼女が唐突にそう呟く。
8月31日。高校2年の夏休み、その最終日。図書委員の仕事を終えた僕たちは、残暑極まる夕暮れの下を、二人して帰路についていた。
「……これから、だよね。青森だっけ」
「ああ、津軽さ。本州の端から端へお引っ越し。陸なら車で1500キロ、空なら3時間50分だ。私が言うのも何だけど、なかなかの距離だよな? 韓国の方がよっぽど近い」
いつもより覇気の無い声で僕が訊けば、彼女はそんな風に、冗談交じりの声で返してくる。
こういうところだ。彼女のこういうサバサバしたところが、僕は前々から好きだった。
「準備はもう、済ませてあるの?」
「ああ。あとは私が家に帰れば、そのまま出発だ。親はお盆前の引っ越しを予定してたんだけどな、私がワガママを言って、限界まで遅らせた」
「それって……」
どうして、とは聞けなかった。聞いていいのか分からなかったし、別れを前にして聞く勇気も無かった。聞けるような男なら、とっくに関係は進展している。
「“寂しくなるな”」
「えっ」
「……とでも思ってるんだろ? 顔に出てる」
分かりやすいやつだな。そう言って彼女は目を細めた。
「……悪い?」
一瞬でも期待した自分が馬鹿らしくて、素っ気なく返す。彼女が再び前を向く気配があった。
「私も同じ気分だぞ」
そうしている内に、いつものバス停に着いた。彼女は普段、ここで乗る。僕はこの先の駅まで歩く。またね、また明日、また明後日。そんな感じで手を振り合って、さよならを告げるのが僕たちの習慣だった。どうせすぐに会えるから、名残惜しさなんてこれまでは気にならなかった。
どちらからともなく足を止める。向かい合い、意味ありげに俯く2人分の影が、アスファルトの上に長く長く伸びていた。
拳を固く握りしめる。しばらく、沈黙。気付けばいつもより顔が熱い。
迷い、躊躇い、悩み空かした末に僕が言葉を発そうとしたとき、彼女が一足先に「なあ」と口を開いた。
「私たちが知り合った時のこと、覚えてるか」
ハッとなって僕が顔を上げれば、彼女は一口、アイスにかぶりついてから、口元を可憐に綻ばせてみせる。
清流のような黒髪が、熱を帯びた風に乗って胸の膨らみの上に流れた。
「君と一緒に係をするのは、楽しかった」
図書室での記憶が脳内に蘇る。2人でカウンターの裏側に座って、たまーにしか来ない利用客相手に貸出しの手続きをするけど、大抵はすることもなくお喋りに興じていた、そんな放課後。好きな本のことで盛り上がったり、テストを見せ合って悔しがったり、先生の悪口で笑い合ったりして過ごしたあの無意味な時間が、堪らなく好きだった。
「……うん。僕も」
乾いた口で返事を絞り出す。そこで彼女は、不意に何かを思い出した顔になって、鞄の中から1冊の文庫本を取り出した。
「それは……」
「随分前に借りて、そのままだっただろ。途中までしか読めてないけど、返す」
「そんな。別にいいんだよ、読み終わるまで持っててくれても」
そうすれば、いつか会う切っ掛けになるから。最低でも、繋がりを絶やさない理由には。打算的な想いに基づいて、けれど決して表には出さず、差し出された本を押し返す。すると彼女はまた微笑んで言った。
「じゃあ、もう少し借りておこうかな」
遠くからバスの音が近付いてくる。残された貴重な十数秒を、僕たちは無意味に見つめ合って過ごした。
彼女がアイスのコーンを頬張る。サクリ、という心地良い音。最後の一口が彼女の喉を下り終えたとき、丁度、バスが到着した。
熱くなる目頭には無視をして、僕は小さく、彼女に向かって手を振る。
「……じゃあね。さよなら」
すると彼女は、予想に反して唇を尖らせた。
「違う」
「へ? 何が」
「そうじゃないだろう、いつもの私たちは」
腕を組む彼女の真意は、僕にだって痛いほど分かっている。だけど……いいのか。本当に、それを口にしていいのか。薔薇色の約束、けれど下手すれば呪いにもなり得る、その言葉を――。
「バスが出る。早く」
ウジウジしてたら急かされて、かくして僕も覚悟を決める。
ええい、ままよ。
「……ま、また会おう! 明日は無理でも、冬休みとか!」
「…………うん」
囁きはポツリと、雫を落とすように。
「その言葉が、欲しかった」
頷く彼女の頬が赤く染まって見えたのは、きっと夕日のせいだけじゃないのだろう。
ステップ、1つ。彼女がこちらに踏み込んでくる。互いの顔が目と鼻の先まで近付いた、その数秒後。
ふわりと、一瞬、唇に柔らかい感触があった。
「……!?」
いつになく狼狽する僕とは反対に、彼女は何事も無かったかのような表情をしていた。
「落ち着いたら、連絡するよ。多分、手紙を送ることになるかな」
それだけ告げて、颯爽とバスに乗り込んでしまった。
ポカンとなった僕を残し、バスが走り去っていく。身体の火照りが完全に消えるまで、僕は
その場から一歩も動けぬまま、さっきの余韻に浸っていた。
蜂蜜。
レモン。
あるいはイチゴ。
大抵はその辺で喩えられるのだろうが、彼女のそれは、文字通り一味違っていて。
食べたばかりだったから、きっと口の中に残っていたんだと思う。
記念すべき僕のファーストキスは、溶けかけたアイスの味がした。
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