欲望バンク

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"欲望バンク サービス開始 株価急騰" 翌日の経済紙の一面は曽根崎の発表したサービスのことで埋めつくされた。 欲望バンク。 その名の通り、人々は各々の欲望を自由に預けたり、取り出したりすることが出来る。曽根崎が発見したある特定の型の脳波と、それに対応した神経伝達物質群との組み合わせによって、人間の欲望をコントロールすることが可能になった。 しかも、1錠の薬剤と1台のスマホだけで。 曽根崎が初めてその企画を立ち上げたとき、周囲の反応は冷ややかなものだった。 「欲望を預けたり、取り出したりすることに何の意味があるのでしょうか。」 役員の1人は言った。愚かだ。想像力の欠片もない。欲をコントロールすることは、人間を自由にする。記者会見で曽根崎が語ったことは、決してパフォーマンスだけの戯言ではなかった。 それはMVP(実用最小限の製品)の市場投入で次々に証明されることになる。 まずは、欲望を預けるということ。その効能はシンプルだ。人々は欲望の満たされなさを抱えて生きている。欲しいと思うから満たされずに苦しむのだ。ならば欲望そのものを脳の外に追い出してしまえば良い。仏の教えにも通ずる真理である。しかも、特別な修行は必要ない。 例えば、単身赴任することになった夫(または妻あるいは両方)が、身近に性行為の相手を失ったことで浮気に走ってしまいそうだというケース。 理性では浮気を否定しても、性欲を抑えることは容易ではない。そんなときは、性欲を一時的に欲望バンクに預けてしまえば良い。 性欲そのものを外に出してしまうと、夫(または妻あるいは両方)は決して浮気に走ることはなくなった。そもそも異性に性的な関心がなくなるのだから、当然だ。 誰だって浮気をしたいと思ってする訳ではないのだから、性欲を預けておくという行為は、欲望の鎖から自由になることだと言って良い。 もちろん、ずっと性欲を失ったままでは、正式なパートナーとの正式なセックスも出来ないことになってしまうので、それだけでは困る。ちゃんと後から欲望を取り出すことが出来るようにしておかなければならない。 だから、欲望を引き出すということ。これもまた同時に必要となる。 預けることと、引き出すことは、その意味で表裏一体を成す。だからこそのバンクだ。それもやたら手続きの面倒な銀行ではダメだ。いつ欲望が必要になるか分からないので、何時でも欲望を出し入れ出来るスマートなシステムが求められる。 その点、曽根崎の作り上げたシステムは、まさに完璧と言って良いものだった。人々は24時間自由に欲望を出し入れすることができて、同時に高いセキュリティを保っている。 「しかしまあ、色んな種類の欲望があるもんですね。支配欲に自己顕示欲、殺人欲なんてのもありますよ。何だか人間というものが恐ろしく感じてきます。」 部下の高橋が言った。欲望バンクのトレーダー第一号の役を任せている。少々軽率で上司にも明け透けに意見するところがあるが、彼には常に客観的に物事を把握する能力があった。欲望の取引を仲介する人間にはなくてはならない資質だろう。 「そうだな。しかしそうした欲望を預けてしまうことが出来れば、世の中ずっと平和になるとは思わないか。」 「ええ、それはそうなんですが。そういう欲望を買う人間がいることも事実なわけで。」 他人と欲望をトレードすること。これは欲望バンクの重要な機能である。というも、個々人の欲望の量は皆同じという訳ではない。例えば性欲は若者ほど沢山もっているし、逆に権力欲などは高齢者の方が沢山もっていたりする。すると人によって欲望に過不足が生まれ、そこに取引を行う余地が生まれる。 また、世の中の欲望の需給も一定ではない。例えば性欲は夜の時間に需要が高まるし、食欲は秋の季節に需要が高まる。 するとどうしても、欲望のバランスを調整するトレーダーの存在が必要となるのだ。これは既存の金融システムの在り方と丁度符号する。 「まあ、それが私の仕事ですから。どうもこうもありませんけどね。」 そうだ。欲望に善悪などない。やはり高橋は適任だった。曽根崎は自分の人を見る目に改めて自信を持った。それは曽根崎がこれまで長い時間をかけて鍛えてきた能力の一つである。 「その通りだ。任せたよ。私は少し出かけてくる。」 曽根崎はその日の為に新調したマッキントッシュのコートを羽織る。行き先が決して愉快な場所ではないだけに、行動するのにはそれなりの格式めいたものを必要としていたのだ。 「それから。」 「はい。何でしょう。」 「私の為に、2時間分ほど、性欲を確保しておいてくれないか。マイルドなやつで構わない。」 欲望の種類は脳波のHzの単位で表される周波数(代表的な区分の仕方ではα波やβ波などがあるが曽根崎はそれを更に細かく分類している)と波形、リズム、脳の刺激領域などの複合的な要素に対応している。一方、欲望の強さは主に∝vの単位で表される活動電位の振幅と持続時間によって規定されるのである。 「分かりましたよ。いってらっしゃいませ。」 高橋の気怠そうな返事を聞き流して、曽根崎はオフィスを後にした。
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