欲望バンク

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曽根崎は混乱していた。  「私は何か間違っていたのだろうか。」 妻はその愛のつくりものっぽさに、勘付いていたのかも知れない。いや、そうではない。愛は本物なのだ。欲望それ自体は人工的に作られたものだとしても、そこから生まれる人間の意思は本物であるはずだ。 「私は自分の意思で妻を愛したいと思ったのだ。そこに嘘はないはずなのに...。なぜだ。」 その日以来、曽根崎は何とか誤魔化してはいるものの、妻の意思は変わらないようだった。 会社の執務室に籠もって、曽根崎はデスクに身を沈ませるが、どうしても安定しない。 "あなたはきっと愛なんてものはこの世に存在しないと思ってるのよ" 後頭部から、女の子の声が聞こえる。 違う。違う。違うのだ。 「大丈夫ですか?顔が青いですよ。」 気がつくと高橋が執務室にいた。 「すみませんね。一応ノックはしたんですが、返事がなかったので勝手に入ってきちゃいました。ちょっとした緊急事態だったもので。」 「ああ。大丈夫だ。何かあったのか?」 頭はまだずっしり重いが、曽根崎は現実に引き戻された。 「はい。問題ありです。システムエラーで欲望の取引が全て止まっています。原因を調査していたのですが、恐らくこれかと...。」 橋本が差し出したの、欲望バンクのオーダー画面をプリントアウトしたものだった。 「ここです。欲望欲って。設定にはないはずの種類の欲望がシステム上に現れてるんですよ。」 「何だそれは。しかしそれくらいのこと。プログラムを少し修正すれば済む話だろう。そもそもそんな欲望は意味のないものなんだから。」 曽根崎の言葉に高橋は肩をすくめた。 「そう単純な話でもないみたいなんですよね。システム全体が、ある意味その欲望欲という概念に支えられているかたちになってるんですよ。だから欲望欲の実体を明らかにしないと、システムを維持出来ないんです。」 「まさか...。」 曽根崎の脳はフル回転していた。欲望欲などというものをプログラムした覚えはない。しかし それがシステムを支える前提となっている。果たしてそんなのことが起こり得るだろうか。 いや、既に実際に起こっているのだ。 曽根崎が慌てて執務室を出ると、オフィスは大騒ぎになっていた。電話が鳴り、怒号が飛ぶ。社員たちはあたふたと動き回るが、それの動きにもはや意味などなかった。 「曽根崎社長!エラーが増幅してます。欲望欲のオーダーが沸騰していて、もう手がつけられません!」 曽根崎は踵を返して、自室に戻った。ドアを閉めるとオフィスの喧騒が遠くなった。 欲すること、それ自体を欲すること。欲望バンクはそれを可能にしたはずだった。しかし、曽根崎の目の前には再び同じ鉄の壁が立ち塞がっていた。 欲することを欲することを欲すること。 欲望欲とはつまりそういうことだと、曽根崎は直感した。そしてそれは、曽根崎にも作ることの出来ない欲望だった。 あるいは、たとえそれが作れたとして、また再び同じ問題に直面するに違いない。 欲することを欲することを欲することを欲すること。無限に後退する鉄の扉に閉ざされる。 「結局私たちは、全く自由ではなかったということなのだろうか...。」 窓の下には、オフィス街を歩く人々の頭がある。曽根崎の目にはそれがまるで機械仕掛けのように見えた。何だか全てのことが、もうどうでもよいことのように思えた。 「君はこんな時でも冷静だな。」 背後に高橋の気配を感じて、曽根崎は言った。 「何となくこうなる気がしてたのかも知れません。でも、曽根崎さん。僕はそれでも人は自由なんだと思いますよ。曽根崎さんが奥さんと結婚して、奥さんを大事にしていることは、分かります。そうしないことも出来たはずなのに。それは自由意思として愛が存在する唯一の証拠じゃないでしょうか。」 「そんなことは...。」 「少なくとも。僕はそう信じますけどね。」 ガラス窓に映った高橋が立ち去ると、そこには外の景色が透かして見えた。無限のガラス窓の先に、人がいて、街路樹があり、海があった。 そして風が、ガラスを通り越して、曽根崎の頬を柔らかく撫でた。 了
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