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 春に初等学校五年生に進学すると同時に、父の弟子を名乗る男があらわれた。名はオーギュスト。家名はエリュアール。我が家名オービニエと、引けを取らない名家だと記憶している。だが決定的にちがう点がある。エリュアール家は作戦参謀として、名の通った一族。一方でオービニエ家は、いまいちぱっとしない。古くから皇帝一家につかえているだけで、名を上げたことは一度もない。弟子入りするならば、もっと名の通った家にするべきだろう。そもそも父ウスターシュは娘である私を放って置いて、あっちこっち飛び回っている。貴族としてではない。探偵として飛び回っている。貴族として名を上げようとはせず、庶民に深く愛されるのを望んだのだ。おかげで市民の人気はめっぽう高いが、貴族の中では嫌われている。一度だけ、父に「なぜ市民をとったのか」問うたことがある。 「市民をかろんじていては、いずれ痛い目を見るものさ」  答えは実にシンプルだった。父を深く尊敬しているし、うたがいもしていない。けれどもオーギュストはべつだ。事件に首を突っ込もうとすると、さきまわりして行動をやめさせる策を練ってくる。そもそも父が不在の屋敷にいるのが奇妙なのだ。弟子と名乗るならば、父の側についていればいいのに。屋敷には私ジゼルと、使用人しかいやしない。おかげでさいきん、怪我をしなくなった。いいことなのか、悪いことなのか。判断はつきかねたが、今日も仕方なく寄り道せずに帰り道を通っていた。 「ジゼル嬢、お帰りなのですね」  やわらかい笑みをたずさえて、動物好きの婦人が声をかけてくれた。手には黒い猫をかかえている。 「かわいいですね。お名前はなんというのですか」 「プルートよ。主人が名付けたの」  しばし会話を交わしてから、婦人と別れた。屋敷へ戻ると、オーギュストが玄関で待ち構えている。 「お帰りになりましたね。わたくしは所用がございますので、数日の間、外出いたします」  監視の目がなくなるのか。気づくと、頬がゆるんでしまった。 「ジゼル嬢。くれぐれもお供もつけずに外出なさろうなどと、考えないでくださいね」  考えがすっかり読まれてしまって面白くない。ふてくされながらも、オーギュストを見送った。部屋へ入って鞄を投げ出すと、市民の子どもが着る服に素早く着替えた。いままで「この姿」は誰にも見られてはいない。窓から糸をたらして、するすると降りる。街で事件が起きていないか確認するためだ。異常がないのを確認して、つま先を屋敷に向ける。すると、おぼつかない足取りで歩く黒猫を見つけた。近づくと、足から血が流れている。目も片方が、つぶれていた。 「もしかして、プルート?」  首輪を外してみれば、「Pluto」と刻まれている。あの婦人の猫だ。何かあったのだろうか。ひとまず連れ帰って、使用人に手当てをしてもらった。  次の日。怪我が治りきっていないプルートは置いて、婦人の家に向かった。家から男と一緒に、数人の警官があらわれた。 「うたがいが晴れて、なによりです」 「いいえ。またうかがいにまいります」  言い残して、警察はさっていく。奇妙に感じて、近くにいた女性に声をかけた。 「どうして警察が家に来ているのかって? 昨日からあの人の奥さんが、行方不明になっているんだよ。警察は夫である彼をうたがっているのさ」  証拠は出ていないようだけれどね。と、女性はさってしまった。ちょうど飼い猫プルートも怪我をしていた。婦人と猫をおそった犯人がいるのだろうか。屋敷に戻って、新聞を広げる。小さな記事がひとつ載っているだけだ。女性から聞いた内容と、そう変わらない。  翌日。帰り道に、思いっきり寄り道をした。婦人の近所に住む人に、話をききに回ったのだ。けれども、収穫はなし。あらそう声も、猫の鳴き声も、何一つ聞いてはいないのだ。机にノートを広げて考え込む。オーギュストが戻ってくるまでに、婦人の所在をたしかめたい。ペンをすべらせて、知っている情報をまとめ上げた。大人しくしていたプルートが、ぶるりと躰を震わせる。毛布をかけてやったが、するりと窓から飛び出してしまった。いけない、と、制服のまま追いかける。あたりは日が落ちて、宵闇に包まれていた。  闇の中で、二つの目がぼうっと浮かぶ。ついてこいと、言っているのだろうか。するすると駆け抜けて、プルートは一軒の家に入り込んだ。小声で「失礼します」と、扉を開ける。プルートをさがして、視線をあちらこちらへ向けた。不法侵入であるから、罪悪感がふくれあがる。ぼうっと、また、二つの目が浮かぶ。 「待って!」  猫を追いかけていくと、開いたままの地下通路にたどり着いた。音を立てぬよう慎重に降りると、男の声がひびいてきた。 「ここに隠してしまえば、誰も気づきやしない」  はっと、口許をおおった。壁に婦人の躰が、埋め込まれているのを目にしたからだった。 「誰だ!」  息を呑んだ音が思いの外、地下室にとどろく。逃げだそうにも、すべって尻餅をついた。黒猫プルートが威嚇をするが、男の怒りを買うばかりだ。手元にある斧を、男は振り上げた。とっさにプルートをかかえて、階段を駆け上る。庭にある石につまづいて、すっころんでしまう。刃先が目前までせまった刹那。横から別の影があらわれて、男をねじ伏せた。月明かりが端正な顔を、はっきりと照らし出す。父の弟子オーギュストだ。携帯電話を取りだして、警察を呼んだ。十分後くらいにあらわれて、男を連行していく。 「お供もつけずに出歩かないよう、言ったはずですが」  肝がすうと、冷えていって目をそらす。うつくしい黒い毛のかたまりが、足下にすり寄ってきた。 「プルート、無事で良かったよ」  抱き上げて頬ずりすると、小さく「にゃあ」と鳴いた。
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