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再会
夏本番はまだまだ先だと思っていたが、もう随分暑い。今朝見た天気予報では六月中旬の気温らしい。五月に入ったばかりだというのに。
外を見れば、春の訪れを告げる淡いピンクの花が散り、瑞々しさを湛えた若葉が芽吹き始めていた。
まとわりついて離れないようなじっとりとした湿気はまだ少ないが、なんにせよ暑い事には変わりない。あまりにも急に気温が変わったものだから衣替えは間に合わなかった。比較的薄手の冬服を見繕ってきたが、今はそれを最大限に後悔している。通気性の悪いジャケットは熱を閉じ込めて、ちょっとしたサウナ状態だった。
カラカラに乾いた口は冷たいものが欲しいと訴えかける。誤魔化すように少しぬるくなったアイスコーヒーを、一気に喉へ流し込んだ。
「ええと、次。何やるんだ」
無意識に声が零れた。次の予定はなんだったか。一度停止してしまった脳みそでは上手く考えられず、諦めてスケジュール帳をめくった。お世辞にも綺麗とは言えない字が所狭しと並んでいるそれを開くのは、本日何度目だったか。
本来であれば思案する前に次の予定を告げてくれる人がいた。兼業の期間もあったが三年余りの時を隣で支えてくれた、優秀な秘書は今はいない。
三年間秘書を続けてくれた松永さんが産休に入った。大変めでたいし、子供は授かりものだ。医療がいくら進歩したとはいえ母体にかかる負担も死ぬリスクもある。産休に入ることは誰も止めず、当然の事のように喜んだ。「お子さんとの元気な写真待ってますね」と総務課の若い子たちが嬉しそうに言っていたのが記憶に新しい。
しかし、しかしだ。当然ながら人が居なくなればその人の居たポジションは空いてしまう。そしてその影響を少なからず受ける場所に居たのが自分だった。穴を開けてしまうからと後任用の資料を短期間で作り上げて産休に入った松永さんは本当に仕事が出来る。しかしその肝心の後任がまだ決まっていない。
ちょうど雑誌の取材やら新規プロジェクトの立ち上げやらで忙しく、後任を探す指示を出すのが遅れてしまった。少しの遅れでプロジェクト全体に影響が出るのだから気をつけろと言っている立場の人間がやってしまったのだから示しがつかない。
溢れ出たため息と一緒に自嘲気味に笑うと、タイミングよく近くで笑い声が響いた。
声の主は会社創設時からの相棒である立石だ。体育会系を絵に書いたような男の、豪快な笑い声は例えるならストレートの豪速球だ。すぐ隣で話しているのか、会話内容まで聞こえてくる。件の秘書のポジションの面接中らしい。
今度、声を抑えるよう言っておかなければ。なんせ、扉はないのだから。
フロアはパーテーションで仕切られている。使用場所は会議室、応接室と、自分がいる社長室。社長室なんてのは名ばかりで、パーテーション一枚を隔てただけのそこには揃いのオフィスデスクとチェア、そして、秘書の席があるだけだ。
「おーい、鷺沢」
「なんだ」
視線をあげると、立石がパーテーションから顔を出していた。動き出した思考は残念ながらまたもや強制停止してしまった。じろりと恨みがましく見たが、当の本人はいつもと変わらぬケロッとした顔だ。それでも、心なしか嬉しそうに見えるのは長年一緒にいる勘というやつなのだろうか。
「今さ、松永さんの後任の面接してんだけど」
「……ああ、今日か」
まるで知らなかったかのような反応をした。本当は隣のパーテーションの奥から聞こえる声に気づいていた。安定感のある優しいアルトの声。やけに耳馴染みの良い声は不思議と懐かしい気持ちになる。
「話した感じ良さげな人が来てんだけどさ、業務上一番やり取りあるの鷺沢だろ? ちょっと話してみろよ」
「今それどころじゃ……いや、そうだな話そう」
渡された履歴書の資格の欄を見ながら向かう。秘書検定は当然の事ながら持っているが、経理系の資格もある。資格の数が随分と多い。資格マニアか?
「面接の途中でお待たせしてすみません。弊社の社長と少しお話していただきたく」
「代表をしております鷺沢です」
プチサウナによる弊害でかいていた汗をハンカチで拭いながら、立石の横に用意されていた椅子に腰をかける。思ったよりも汗を吸ったハンカチが恥ずかしくて挨拶は早口になってしまった。
「相田桜と申します」
「――え?」
その名前には聞き覚えがある。
進学のため上京し、初めての一人暮らし。慣れない生活に不器用な自分。生活が荒れるのは必然だった。
そんな自分を見兼ねて生活を手伝ってくれた人がいた。三つ歳上の先輩。ロングの黒髪に、優しいアルトの声。
「……さくら、先輩?」
記憶の中の、その人そのものだった。
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