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女神に成り代わりました。
彼の人はまた浮気をしている。これで何度目だろう。
幾人もの女性と交わり子を成す彼にいい加減嫌気が差す。
いくら神々の王だからと言って限度ってモノがある。
それに私自身も疲れてしまった、最高位の女神で居ることに。
前世が人間だと他の神々が知ったら、笑われるだろうか。
私には人間だった頃の記憶があって、何時のまにかギリシャ神話の女神・ヘラに成り代わっていた。
その事実を知った時、死んだ事や両親の事を思い浮かべる前に私は『詰んだ』と感じた。
女神ヘラは嫉妬深い女性で、夫であるゼウスの愛人や子供に一切の容赦なしの報復をするので有名だ。
私はそんな鬼嫁にはなりたくないし、ゼウスが私の好みに当てはまらなかった。
だからゼウスに結婚を迫られた時、物凄く嫌だった。
けれどゼウスの正妻にならないと神話の話が変わってしまうんじゃないかと恐れ、渋々ゼウスと夫婦になった。
もちろん愛人の女神、人間、ニンフには報復し、子供には狂気も送ったり。
正直女神様がこんな事するのか? と疑うくらいエグい事をやった。
おかげで私はオリュンポスで最恐の女神として畏怖されましたよ、ええ。
そんなある日、ヘラクレスの事に関してゼウスと大喧嘩し、宙吊りにされた。
これは神話通りだから良いんだけど、問題はこの後。
千切れぬ筈の鎖がなぜか千切れて私は地上の地面に叩きつけられそうになった。
「イッテェ……」
誰かを下敷きにしたので無事でした。って言ってる場合じゃないっ!
「ご、ごめんなさい!」
手が不自由だけれど器用に彼の上から退き、安否を確認しようとして一瞬動きが止まる。
背中に生える黒い羽、頭から突き出すツノ……悪魔が居た。
「あ、悪魔!?」
何でこんなところに!? と驚く私を気に留めず彼は自分の背中を摩る。
「なんなんだよ急に……あ? アンタ……」
私に気付いた彼は驚いた様に目を見開き、此方を凝視している。
「女神ヘラ……」
向こうは私を知っているらしかった。ふと彼は私の手が縛られているのに気付くと拘束を解いてくれた。
「あ、ありがとう……」
「いーよ、別に」
悪魔は人懐っこい笑顔を浮かべてそう言った。
これが私と悪魔・レイスとの出会いだった。
「天界から落ちた?」
素っ頓狂な声を上げるレイスを前に私は力なく頷く。
「ふぅん。ゼウスも意外に抜けてるんだな」
呟く彼は興味深そうに鎖を見つめていた。
「貴方に何かお礼をしたいのだけど、何が良いかしら?」
地上に落ちても無事だったのは、レイスが下敷きになってくれたおかげだ。その事については悪魔だろうときちんとお礼がしたかった。
「オリュンポスで最高神の次に偉い女神様が、悪魔にお礼? ほんとか?」
「私は嘘を言ったりはしないわ」
レイスの瞳を真っ直ぐに見つめてそう言うと、彼は吹き出した。
「くっ、ははっ。マジか? なら、ちょっと付き合ってもらうぜ」
赤い瞳を楽しそうに細めながら、レイスは私にお礼をさせた。
「……」
「気持ちいいな〜……」
(これ、お礼というのかしら……)
レイスは私の太ももに頭を乗せながら、気持ち良さそうに眠っている。
膝枕をする事が、お礼の条件だった。正直なぜ膝枕なのか理解できないけど、レイスが良いと言ったのだから構わないか。
「ねぇ、これはなに?」
彼の近くにあった花で出来た冠を手に取ると、レイスは悪戯な笑みを浮かべた。
「俺が作ったんだ」
「花かんむりを、貴方が……?」
悪魔である彼が花に興味があるなんて信じられないと言おうとしたけど、やめた。
私が彼の好きなものを否定する権利などない。
それに……
「とても素敵ね」
色んな種類の花が使われているこの花かんむりは、それぞれの花の美しさが際立ち上品な仕上がりになっている。
「人間相手に商売してるから、見た目とかに拘ってる。それは試作品だけどな」
こんなにも綺麗な花かんむりが試作品だなんて、驚きだ。
「良ければこの花かんむり、貰ってもいい?」
「別に良いけど……なんかちょっと意外だわ。アンタほんとにあの女神ヘラか?」
そう言われ、ハッとする。そうだった、私は嫉妬深いヘラ。
もっと神話通りに毅然とした態度でいなければならないのに、私は何をやってるんだろう。
顔を歪めた私に気付いたレイスは、視線を彷徨わせる。
「あ〜、その、なんだ……」
いやに口ごもるレイスに目を向けると赤い瞳に優しい眼差しが浮かび上がった。
「俺は、今のアンタの方がずっと好きだ」
「……」
言葉が出なかった。驚愕と混乱と、歓喜の感情が私を支配する。
嬉しかった。本来の私を好きだと言ってくれて。
思わず笑顔をこぼせば、レイスの頬が赤くなった。
「私の笑顔に見惚れた?」
「……ああ。やっぱそっちの方がアンタぽくって良い」
愛おしげに見つめる先にいるレイスが、柔らかい笑顔を見せてくれたので、私はなんの躊躇もなく彼の髪に触れた。
悪魔に惹かれるなんて、いけない事だ。ゼウスという偉大な夫が居るというのに。
なにより私は結婚を司る女神。不貞は許さないし、許されない。
名残り惜しいけれど、私はレイスから手を離した。
「……そろそろオリュンポスに帰るか?」
「……ええ」
私とレイスは視線を絡めて、互いに苦笑する。
引き止めたいと考えているのは私だけじゃないらしい。
「今度、改めてお礼をさせてちょうだい。必ずよ」
次に会う約束を取り付けるとレイスは了承した。悪魔と逢瀬をするなんて、夫を持つ妻としては考えられない行為なのに。
でも、良いか。ゼウスだって私の監視の目を潜り抜けて沢山の愛人と逢瀬を楽しんでいるのだから。
それもただの逢瀬ではなく、子を産ませるための。
そう考えれば、私のは浮気の枠にすら入らない。ただ助けてもらったお礼をするだけだもの。
自分に言い訳をしながら、私はレイスと会える日を楽しみにしていた。
それからというもの、私とレイスはこっそり会う事を続けていた。こっそり会うと言っても、だいたいは花の話や世間話が殆どなので、浮気ではない。
しかし最近、ゼウスの様子が可笑しい。私が話しかけてもうわの空で、話を聞いているとは思えなかった。
また誰かと浮気をするつもりなのかと、警戒している。
「……ラ。ヘラ?」
私を呼ぶ声にハッとする。横を見ると不思議そうな表情をするレイスが視界に入り、慌てて笑顔を取り繕う。
「ごめんなさい。なんの話だったかしら?」
「いや、バラの話をしてたんだが……大丈夫か? ぼうっとしてるように見えたけど」
「平気よ。それよりバラがどうかしたの?」
「この赤いバラ、人間の間じゃ愛を伝えるのにちょうど良い花とされててな。ヘラにどうかと思って」
「……私に?」
強烈な印象を持たせる赤いバラは、確かにオリュンポスの中でも美しい部類に入るヘラであれば、似合うだろうけど……
「残念ながら、渡す人が居ないわ」
「ゼウスは? アンタの旦那だろ?」
「ゼウスに渡したところで、彼はなんとも思わないわよ。それに今も他の愛人に現を抜かしているだろうし……」
なにより愛されてもいないのに、愛を伝えて何になるんだか。
私は自分の想いを返してくれる人でなければ、愛を囁くつもりもないし、愛に応えようとも思わない。
ゼウスと結婚したのだって、神話通りにする他無かったから。
無かったはずなのに……
「でも、好きなんだろ」
突然私の心を見透かしたレイスの発言に目を見開く。
「ど、どうして……!」
動揺のあまり声が震える私に対して、レイスはふっと笑う。
「見てれば分かる。アンタがどれだけアイツを好きなのか」
レイスは全て分かっているようで、私は正直に白状する事にした。
「ええ、そうよ。好きよ。愛してる」
改めて言葉にすると恥ずかしくて、顔が真っ赤になってしまう。
それを見たレイスは、微笑ましそうに笑うだけだった。
レイスと別れてオリュンポスに帰ると、神殿がいやに騒がしかった。
何事かと向かうと、なぜか私とゼウスを除くオリュンポス十二神が勢揃いしていた。今日は何か会合でも有ったかしらと首を捻りながら考えていたら、ヘルメスが私に気付く。
「ヘラ様! やっと戻ってきてくれたんですね! 待っていたんですよ!」
ヘルメスはやけに興奮しながらも、私の手を引っ張って何処かに連れて行こうとする。
普段の彼からは考えられないような態度に唖然とするも、慌てて威厳を顔に貼り付ける。
「何ですか、いきなり。騒がしいようですけど、何事ですか」
「母上。すぐに父上に会ってください」
「アレス?」
息子のアレスが顔を真っ青にしながら言うので、ゼウスが騒ぎの元かと断定する。
「ヘラ、私からもお願いするわ。本当なら本意ではないけれど、今はそうも言ってられなくて……」
デメテル姉様にまでそう言われ、私は渋々ゼウスのところへ向かった。
けれど……
「何よこれ……」
ゼウスが根城にしている神殿はところどころ焼け焦げ、雷が落ちた衝撃なのか建物自体も破壊されている。
普段はこんな事はないというのに、自分が居ない間に一体何があったのか。
私は伝令の神であるヘルメスの肩を掴んだ。
「これはどういう事ですか? ゼウスが加減もせず暴れたのですか?」
「ま、まあ。その……」
言いにくそうに口ごもるヘルメスの様子が、全てを物語っている。頭が痛くなりそうだった。
「何でこんな事……」
「あのぉ〜。大変言い難いのですが……」
「何です。言ってみなさい」
促すと、ヘルメスはおずおずと口を開く。
「ゼウス様は、ずっとヘラ様の名前を呼んでいました。しかも、浮気したのかと泣き叫んでいて……」
「……はぁ?」
意味がわからない。私がいつ浮気をしたというのか。それにゼウスが泣き叫ぶ? 全く想像出来ない。
「も、もちろんボクらはヘラ様がそんな事をするとか思ってません! でもほら、誤解があるなら解いた方が良いんじゃないかって……」
ヘルメスの言うことにも一理ある。また訳の分からない理由で暴れられても困るし、さっさと解決した方が良い。
しかしそう上手くは行かないと、私はこの後身をもって経験するのだった。
ゼウスの私室に行けば、半壊状態の部屋で酒を呷っていた。杯に並々と酒を注ぎ、一気に飲み干す。
私が近寄るとゼウスはその事に気付き、顔を歪める。
嫌悪とも取れるその表情が、ひどく腹立たしかった。
「私の名前を叫んで、とても怒っていると聞きましたが」
単刀直入に問いかけると、ゼウスはせせら笑う。
「君が浮気をしたのは事実だろう」
「私が? いつ?」
「ここ最近、ヘラがどこかへ出掛けているから付けてみれば、男と二人きりで会っているじゃないか。私の浮気は咎めるのに、自分の不貞は許すのかい?」
探るような目付きで見るゼウスに辟易する。
「会っていたというだけで浮気と決め付けられるなんて不愉快ですわ。私は彼に助けてもらったお礼をしていただけです。その証拠に、彼と交わった事など一度もありません」
「ならば堂々と会いに行けばいい。男と密会している時点で疾しい気持ちがある証拠だろう? それに彼は悪魔だ。私から君を奪い取ろうと画策しているかもしれない」
その言葉に、ついにプチンと私の中で何かが切れた。
「いい加減にしてくださいっ!! レイスとの間には何も無いと言ってるでしょう!? 第一浮気癖のある貴方と心優しい彼を一緒にしないで!」
私の言葉に、暫しゼウスは黙り込んだ。
けれどその青い瞳はいい知れぬ怒りを表していて、ゼウスは乱暴に杯を机に置いた。
「君がそこまで怒るとは。そんなにあの悪魔が気に入いりかい? まあ愛を囁いていたくらいだし、無理ないだろうね」
……愛? 何を言っているんだろう。
「おや、覚えがない? 好きだと、愛してるとあの男に言っていただろう」
それは、ゼウスに向けて言ったもので……というか本人に聞かれてたっ!?
かあっと顔が真っ赤になっていく。
私の姿を見たゼウスは、更に不機嫌になった。
「そんなに……あの悪魔が良いか」
ぼそりと呟かれた言葉は私の耳に届かなくて、沈黙が続く。
痛いほどの静寂な空間に、ゼウスの呆れたようなため息が吐き出された。
「もういいさ。ヘラは私が嫌いなんだろう? 君のタイプでもないみたいだし?」
嫌味を言うゼウスに思わず顔を顰めてしまう。
彼は私のタイプに当てはまらない。けれどそれを本人に言ったことはない。なら誰かが喋った?
「見てれば分かるよ。君が私に好意があるかどうかなんて」
ゼウスはつまらなそうに言ってから立ち上がった。
「私と離婚したい?」
「……え?」
何、言って……
「何で驚いているのかな。好きとも言わない、愛してるとも言わない。そんな妻を持つ夫の気持ちを、君は考えたことがあるのかい?」
妙に迫力のあるゼウスから、無意識に距離を置こうとした。
しかし彼は私の腕を掴み離さない。
青い瞳から漏れでる烈しい怒りが身を貫く。
その時になって、私はようやく己の軽率さを理解した。だって、知らない。見たことすら無かった。
──ゼウスがこんなに怒り狂う様を。
でも、私はなぜゼウスがここまで怒るのか、解らなかった。彼は散々浮気を繰り返して、正妻であるヘラを蔑ろにしてきた。
なのに他の男と親しくなった途端、所有欲を露わにする。
いくら好きな相手でも、この仕打ちはない。
「私は、離婚したいなどとは一度も……」
「うん。君は口が裂けてもそんな事は言わない。本音を言う気が無いんだろう?」
ハッとなってゼウスを見ると、彼は冷たい目で私を見下ろしていた。
胸に一筋の痛みが走りどうしようもない不安に駆られる。
(私はこのまま、ゼウスに捨てられるの?)
今までレイスと会っていたことが、ゼウスの不信感を煽ったのだとしたら。
もう彼は、私の話を聞く気は無いのかもしれない。
「……ヘラ?」
ゼウスが戸惑ったように私を呼ぶから、首を傾げる。
青い瞳が溢れてしまいそうなくらい大きく見開かれて、驚愕を露わにしていた。
ゼウスの指先が私の目尻に触れて、何かを掬い取った。
それは涙だった。
ポロポロと瞳から溢れる涙に気付き、咄嗟に手で顔を覆う。
ゼウスに泣き顔なんか見られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
必死に顔を隠し続けているとゼウスの大きな手が重ねられた。
びくりと肩を揺らした私を彼が笑った気がした。
ムッとして顔を上げれば青い瞳が優しい眼差しを浮かべて私を見ている。
息を呑んだまま固まっていたら、突然キスをされた。
あまりにもいきなりだったので呼吸することも忘れたまま茫然としてしまう。
瞳に涙を溜めた状態でゼウスを見上げると、彼は少し困ったように笑い、黄金の髪をかき上げた。
「……言っておくけど、離すつもりはないからね」
そう言いながら、ゼウスは再び私の目尻に触れた。
「君が心の中で誰を想っていようと、誰を想って涙を流そうと。俺はヘラを正妻の座から降ろすつもりはない」
ゼウスの腕の中に閉じ込められて、彼は甘えるように私にすり寄った。
「愛してるよ、ヘラ」
想いを返してくれる人でなければ、愛を囁くつもりもないし、愛に応えようとも思わない。
けれど愛されないことより、失うことの方がずっと怖い。
私は何も、ゼウスを手放したいわけじゃない。
「……私もですよ」
ほとんど無意識にそう言うとゼウスの身体が跳ね上がった。
「……え?」
他の神々には見せられないようなマヌケ面を晒すオリュンポスの王に、私は初めて自分からキスをした。
途端にあたふたするゼウスに笑いかければ、彼は恐る恐る訊いてくる。
「ヘラは、俺が好き……?」
「……これ、差し上げます」
ゼウスの問いには答えず、レイスから貰ったバラを渡すと彼は更に呆けた顔になる。
(簡単に愛してるとか言ってあげない)
そんな意地の悪いことを思いながらも彼を見れば、ゼウスはこの上なく嬉しそうにしていた。
手の中に在る、一本のバラを見て。
「それが、私の気持ちです」
「……ありがとう、ヘラ」
助け出された、あの日から。私は貴方しか見えていない。
神話通りに進めなくちゃいけないと思いながらも、この気持ちを捨て切れなかった。
愛してる、なんてこの浮気症の神に対して簡単に言ったりしないけど。
愛がないまま結婚したわけじゃないということは、信じてほしかった。
「どこにも行かないで、ヘラ……」
抱きしめながらそう懇願するゼウスの背中に腕を回す。
(……寝ている時に好きって言おうかな)
そう考えながら。
〜おまけ〜
ふらふらと帰ってきたオリュンポスの主神を、ヘラを除く十二神が出迎える。
「お、ゼウス帰ったか。ん? ヘラはどうした。迎えに行ったんだろ?」
兄であるポセイドンがそう声を掛けるが、ゼウスは一向に返事をしない。
不審に思った神々が更に声を掛けようとした、その時。
バリバリッ!! と稲妻がオリュンポスを襲った。
「「「え……!?」」」
全員が驚愕する中、ゼウスが叫んだ。
「ヘラのバカァァァァッ!! なんで私とじゃなく他の男とイチャついてんだよッ!! なんだよ好きだよ愛してるって!? 俺にはそんな事言わないくせに〜〜ッ! 立派な浮気じゃんか!! 俺の方がヘラを愛してるって気付けよっっ!!! てか誰だよあの男!? 俺の奥さんの心を横から掻っ攫いやがって……!」
バチバチッと雷を帯びるゼウスに誰も近付けず、無惨にも神殿がゼウスの雷撃で破壊されて行く。
「結婚してからも片想い継続中だってのに、どこの馬の骨とも知らない野郎にヘラを渡してたまるか! ヘラもあんな男のどこがいいのさっ!? 私の方が数百倍魅力的だろう!?」
妻であるヘラの事になると我を忘れるゼウスは、もはや口調がごちゃ混ぜになっている。
最高神のご乱心に戦々恐々とした神々は、ただ一つの事を願っていた。
(((ヘラ/ヘラ様/母上、早く帰ってきてくれ……)))
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