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Amoreの嫉妬。
イタリア人の彼と結婚して一年が過ぎた。
一年の間に数度のカルチャーショックを味わったけど夫はとても優しい。
けれどその優しさは妻の私だけじゃなく他の女性も同じで。
夫であるロンさんは友人の女性に会うと必ず、綺麗だね。とか、美しい。とか平然と言う。
イタリア人は女性に対して紳士的だと聞いていたけれど、心の中がモヤモヤするのは止まらなかった。
国が違えば人間の性質も変わるのは仕方のないこと。
でもなぁ……
思わず遠い目になりながら空中を見据える私の横でロンさんと友人の女性が恋人同士の様な会話を繰り広げている。
「ミーシャ、その服似合ってるよ。天使様みたいだ」
「ありがとう、ロン。嬉しいわ」
みたいな会話だと思う。不確定なのは私が全てのイタリア語を理解出来てるわけではないから。
初歩的な言語は話せるけど難しい単語は無理だ。
でもはっきりと会話の内容が分からないのは幸いだったかもしれない。
心の靄が身体中に広がって行く感覚に気付いてソファーから立ち上がると手首が誰かの手に掴まれた。
ゆっくりと後ろを見ると友人と話していたはずのロンさんが此方を見上げている。
「どこへ行くの? 買い物?」
心配そうな表情で流暢な日本語を話す夫に真顔で散歩。と伝えた。
公園のベンチに腰かけ頭を抱える。
今日の気温は三十度とムシ暑い。しかし私が座ったベンチは木陰の部分にあったので幾分か涼しい。
外国での結婚生活は甘くないと覚悟していたけれどいざ味わうと堪えるものがある。
でもロンさんは悪気があるわけじゃない。アレが普通なんだ。
それを受け入れられないなんて妻としてどうだろうか。
悶々としていると頭上に差す影がより濃くなった気がした。
反射的に顔を上げれば顔が整った男性が窺わしげに此方を見下ろしている。
情けない事に知らない男性を前に口を閉ざしたままでいると男性が手を差し出した。
「大丈夫ですか? 気分が優れない様なら病院へお連れしましょうか?」
ベンチで項垂れていたら急病人と勘違いされたらしい。
「あ、いえ、私は大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
慌てて頭を下げてお礼を言う。にしてもこの人日本語上手いな……
「本当ですか? なら良かった」
ニコリと人の良さそうな笑顔を浮かべた男性は隣に座ると自分の胸に手を置いた。
「初めまして、お嬢さん。僕はユーリ・海堂と言います。母が日本人で父がイタリア人のハーフなんです」
ああ、それで日本語が上手いのかぁ……
「お嬢さんの名前を伺っても宜しいですか?」
「私は千春と言います」
自分の名を名乗るとユーリさんは素敵な名前ですね。と言ってくれた。
その時の笑顔に少しばかりドキッとしてしまった。
素敵な人だなと思っていると彼が持っている荷物が気になった。
袋の中には沢山の野菜が入っている。これを一人で食べるのかな?
私の視線に気付いたらしいユーリさんは少し笑うと野菜を取り出す。
「僕は料理をするのが趣味で、今日も食材をスーパーで買った帰りなんです」
その話を聞いた私はとある考えに至った。立ち上がってユーリさんに頭を下げる。
「あの、料理を教えてもらえませんか!」
イタリアに来て一番困ったのは食文化だ。イタリアンと日本食じゃ味が全然違うみたいで、あまり受け入れられなかった。
でも好きな人に美味しいと言ってもらいたい。そんな思いで頼み込むとユーリさんは快く引き受けてくれた。
それから毎日とは言わずともユーリさんに料理を教えてもらった。
彼は私の質問にも丁寧に答えてくれて、本当に優しい人なんだと感じた。
三週間くらい経った日、家に帰るとロンさんがソファーに座っている。
あれ、今日って仕事じゃ……? 訝しんでいるとロンさんは振り返った。
冷ややかな視線を向けられて思わず後退る。彼は立ち上がると一気に距離を詰めて来た。
冷ややかな瞳とは裏腹に、発した声はとても穏やかだ。
「どこに行ってたの?」
これは彼が最近口にする口癖で帰って来るといつも訊かれる。でも今回は様子が違うような……
「図書館に……」
裏で料理の腕を上げていることはロンさんに隠しているので、心が痛むが嘘を言った。
いつもはこれで引き下がってくれるんだけど……
「いつまでウソを言うつもり?」
ロンさんの突然の言葉に息を呑むと同時に荒々しいキスをされる。
優しいロンさんのキスとは思えない程の乱暴さに驚いていると、彼は私をソファーに押し倒した。
押さえつける力が強くて、本当に同一人物か疑ってしまう。
「ハルが他の男と会ってるのは知ってるんだよ。俺にウソまで付いて不倫してたの?」
「えっ、ち、ちが……!」
ロンさんが在らぬ疑いを抱いていると知り直ぐに否定する。けれど目の前に居る彼は見た事もない冷笑を浮かべている。
結婚してから今までそんな表情を向けられた事はなかった。
「違う? じゃあ何で男と二人きりで会ってたの?」
「そ、それは……」
思わず口籠ると腕を掴むロンさんの手に力が加わった。
もしかしてロンさんの心は今、疑心に塗れているんじゃないかと思った。
なら下手に嘘を言うよりも真実を話した方が信じてくれるかもしれない。
そう思って口を開こうとしたら、私より先にロンさんが口を開いた。
「ハルは俺の事、もう愛してない? あの男と居る時の方が楽しそうだったよ」
悲しい感情が込められた声はやけに頭の中に強く響いた。
ロンさんから見たら私はそんな風に見えたのか。
確かにロンさんに喜んで欲しくてその事を想像しながらユーリさんに教わっていたから、結構楽しんでいたかもしれない。
「……ほら。俺なんかよりあの男の方が良いんじゃん」
黙り込んだままの私に対してますますロンさんは膨れっ面になり、私は困ってしまう。
彼の事は好きだし、愛してる。でもそう言おうとする度にロンさんが他の女性に愛を囁く場面を思い出してしまう。
けれど夫であるロンさん以外に気持ちが傾くという事は無い。
「……料理を教わっていたんです。本当にそれだけです」
青い瞳がじっと見つめて来て意地で見つめ返した。
やがてロンさんの目から険の色が薄れる。
「料理を? どうしてよりによってあの男に……」
ボソリと呟かれた言葉はイタリア語で、私は彼がなんて言ったのか判らない。
「料理なら俺が教えるよ。だからもうウソを言わないで?」
必死に懇願されて断る筈もなく、私は黙って頷く。
それを見たロンさんはいつもの優しい笑顔を浮かべたけど、上から退いてくれる気配はない。
「じゃ、お仕置きね」
にこりと甘く蕩ける様な笑顔なのに、背筋がゾッとする。
「や、やっぱりロンさん怒って……!」
私がそう言うと、ロンさんはふっと不敵な笑いを零す。
「愛してる人が他の男と居たら嫉妬するに決まってるよ」
どストレートな言葉に耳まで真っ赤になっていく。
ああ、何で愛されていないなんて思ったんだろう。
目の前に居る彼は私に愛情と瞋恚の両方の感情を向けているのに。
ロンさんが嫉妬で身を焦がしているなんて全く想像していなかった過去の自分を殴りたい。
私はちゃんと愛されてる。そう自覚させられる二つの瞳が私だけを映している。
……駄目だ。愛しい夫には敵いそうもない。
私は目を閉じて彼の体温に身を寄せた。
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