0人が本棚に入れています
本棚に追加
うるせぇよ!
辺りはすっかり闇に包まれていた。
ダッシュボードに埋め込まれたカーナビの画面に表示されている時刻を見ると22時17分と表示されている。
「チッ。遅くなっちまったなぁ……」
苫小牧での仕事が予定よりも大幅に長引いてしまい、客先を出た時には時刻は21時を過ぎようとしていた。
経費削減の折、高速道路を使うと部長にネチネチと嫌味を言われるのと
少しでも近道をしようと支笏湖を抜けて札幌まで帰ろうと思ったのが間違いだったか……
昼間はずーっと曇り空だったのが、ここにきて小雨が降りしきっている。
おまけに山道の所々には霧まで出ているのだから、全くもってツイていない。
カーナビの画面には曲がりくねった山道と、今かかっているAMラジオの周波数とNHK第一という放送局名、それに時刻が表示されている。
こんな雨天じゃ、走り屋の連中ですら走っていない。
「あー、こんなに残業になっちゃって。 また部長から『経費がー!』って言われるよ…… ったく、ツイてねぇ!」
一人で山道を運転しているとついつい不平不満が口をついて出る。
どうせ、ネチネチ言われるのが確定してるのなら、高速道路で帰れば良かったかな……
そんな事を考えながら『急カーブ注意』の標識を通り過ぎ、標識通りのキツイカーブを曲がり終えた時、ヘッドライトに照らし出されたのは中型犬くらいの大きさの物体だった。
「あっ!! キツネ!? ヤバッ!!」
床が突き抜けるのではないかと思われるくらいの急ブレーキをかけたが、時すでに遅し
キツネは道路の真ん中でこちらを睨みつけたまま、車体の下に吸い込まれるように消えていった。
『ガコッ! ゴツッ!』
車体の下で、おそらくキツネであろう物体が大きな物音となり、一際その存在を誇示するかのように、車体前方から後方へ駆け抜けていった。
『キュー キキキキ』と、聞きなれない、何かの断末魔の叫び声のようなブレーキ音を出しながら俺の運転するライトバンは停止した。
全身がひんやりとする。人間は一瞬にして、こんなにも汗をかくことが出来るものなのか?
額から流れる一筋の汗の感触で我に返り、ルームミラーで後方を確認する。
カーブの出口に設けられたオレンジ色の照明に照らされたまま、キツネはそこに横たわっている。
あー……やっちまったなぁ。クルマ壊れたり、汚れたりしてねーかな……
そんな事を考えながら、車を路肩に寄せてハザードランプを点滅させて外に出た。
一方でキツネの方を見ると、何とキツネがよろけながら立ち上がったではないか。
「あぅ! あいつ、生きてたのか!」
驚きがそのまま口から出たのもつかの間、キツネは照明の光を反射して金色に光る眼でこちらを睨みつけ、ヨロヨロと2、3歩歩いたかと思うと、バタリとその場に倒れこみ、そのまま動かなくなった。
悪く思わないでくれよ……こっちだって轢き殺したくて、轢いたんじゃねーから……
何とも言い難い後味の悪さを感じながら、俺はライトバンに乗り込み、再び札幌市街に向けて運転を再開した。
眠気と戦いながら、深夜のAMラジオを聞き流ししばらくの間、曲がりくねった山道を走り抜ける。
鬱蒼と茂る森を抜け、ようやく文明の匂いが感じられる建物がぽつりぽつりと現れ出した頃、俺はパーキングエリアに車を入れて休憩を取ることにした。
苫小牧を出てからずーっと運転しっぱなしだったので、ひとまずパーキングに併設されたトイレに行く。
車外に出ると勢いは随分と弱くはなったものの、雨は霧雨となって降り続いていた。
湿度が高く、不快な感覚を覚える。
「ったく、キツネは轢くし、雨は降ってるしよぉ、ツイてねぇよなぁ……」
洗面台で手を洗いながら、ついボヤいてしまい慌てて周囲に他に人が居ないか見回す。
深夜の街はずれのパーキングのトイレには俺の他には誰もいない。
ましてや週の初めの月曜日、それも雨の降る夜ともなれば、そりゃ人はいない、走り屋の連中だってこんな時には家で大人しくしているに違いない。
トイレから出て、すっきりした状態でライトバンに乗り込む。
すっかりぬるくなった缶コーヒーを飲んで一息ついていると、後部座席に置いてある上着の、胸ポケットに入っている私物のスマホから電話の着信を知らせる音楽が聞こえてきた。
「はいはいはい、今出ますよ」
慌ただしく上着を手に取り、内側の胸ポケットからスマホを取り出し、電話に出る。
「もしもしー。市井ぃー」
電話をかけてきたのは以前の勤め先で世話になった山田先輩だった。
「あーせんぱーい。おばんですー。元気でしたかー?」
久しぶりの先輩の声に表情も緩んでいくのを感じる。
「おー、どうしてるかなーと思ってよー。まさか、寝てたかー?」
「いや、寝てませんよー。だって俺今、芸術の森の所の国道沿いのパーキングで会社のライトバンに乗って、ぬるい缶コーヒー飲んでるところでしたから」
久しぶりの先輩との会話は弾んだ。今の会社の愚痴、お互いの近況、昔の仕事仲間の動向など
こういう話は時間が経つのを忘れさせてくれる。
ただ……どうしたわけか先輩がだんだんと不機嫌になっていくような気がしてならない。
気のせいか……とも思ったが、先輩は次第に口数が少なくなり「おー。おー」と面倒くさそうに相槌を打つだけになってきた。
数年間同じ職場で働いてきた仲なので、これは先輩が不機嫌な時の特徴
それも、話し相手に対して怒っているときの特徴だと、すぐに分かった。
「……あの、先輩……すいません。俺、何か先輩を怒らせちゃいましたか?……」
恐る恐る切り出すと、先輩は電話の向こうで深いため息をついて、口を開いた。
「あのよぉ。人が電話で話してるときに、横でバカでかい声でゲラゲラ笑ってるのは非常識だと思わねぇか? うるせぇよ!!」
笑い声? ……横で?? 先輩は一体何を言っているのだ?
何と答えていいのか分からず、そのまま黙りこくっていると、先輩が電話口でなおも怒鳴るように怒りをこちらにぶつけてきた。
「黙ってねぇで、注意して黙らせろよ、その女! さっきからゲラゲラ笑ってうるせぇんだよ!」
額から一筋の冷たい汗が流れ落ちる。
「おい! 聞いてんのか? 市井!」
慌てて、先輩に返答をする。
「せ、先輩! お、俺今、ひ、ひとりです! お、お、お、女なんていませんし、このパーキングエリアには俺のライトバン以外に車も人もいません! ラ、ラジオも切ってます!」
緊張と恐怖のあまり、声が裏返って早口になってしまった。
先輩は人を怖がらせようと質の悪い冗談を言ったりはしない人だ。
「え?」
先輩はそう言ったっきり、俺も先輩もしばらく黙りこくってしまった。
「い、今も笑い声は、き、聞こえていますか?」
「いや…… さっきお前が自分しかいないと言った時にパッタリと止んだ……」
周囲を見回して、誰もいないのを確認してから、俺は先ほどの出来事の一部始終を先輩に話した。
「……おまえそれ、キツネの霊なんじゃねーか…… ヤベェよそれ……」
それ以降会話は続かず、どちらともなく電話を切り、俺は足早に自分のアパートへと家路を急いだ。
自分の部屋に着くと、大慌てでパジャマに着替えて布団をかぶって床に就いた。
その晩は、着物を着た面識のない若い女が、ひたすら笑いながら俺を追いかけてくる夢にうなされ
朝起きた時には、全身が汗でびっしょりになっているほどだった。
あれからは特に何も起こってはいない。
ただあれ以来、支笏湖には一度も近づいていない。
最初のコメントを投稿しよう!