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第2話 五里霧中《ごりむちゅう》
東雲探偵事務所の外壁はレンガ造りだが、立てつけが悪いのか、夜はそれなりに冷える。
今は《関東大外殻》の外で言うと真夏に当たり、年中、気温の低い《監獄都市》も少しだけ暖かい。それほど寒さが苦にならないが、冬が来る前に何らかの対処は必要だろう。
その日も深雪は肌寒さで目が覚めた。掛け布団を被りつつ、ベッド脇の棚に置いた腕輪型通信端末で時刻を確認すると、朝の七時だった。
布団の外に出るのは苦痛だったが、窓から差し込む日の光のせいで、目はすっかり覚めてしまった。仕方なく起き上がると、いつものTシャツにパーカー、デニムという出で立ちに、のそのそと着替える。
シロに刺された脇腹の傷は、ほとんど塞がっていた。大きな絆創膏を貼っているだけで、包帯もガーゼも必要ないくらいだ。だが、治癒の喜びはまるで感じない。
この傷を目にするたび、深雪はひどく憂鬱になってしまうのだった。
「シロ……今日も俺と会ってくれないのかな」
シロは深雪を守るために陸軍から差し向けられた刺客と戦い、ひどい傷を負った。それもあってか、彼女は事務所の三階にある自室に閉じこもったまま、決して部屋の外に出ようとはしないのだ。
もっともシロが深雪と顔を合わせようとしないのは、それだけが原因ではない。
故意ではなく、事故だった―――いくらそう説明しても、シロは深雪の脇腹を刺してしまったことをひどく悔やんでいる。
(俺はシロを守りたかった。陸軍特殊武装戦術群の刺客と戦い、我を失って暴走するシロを見て、いつもの明るくて心優しい彼女を取り戻したくて……だからシロの前に飛び出したんだ。でも……それは間違いだったのか?)
すべてが終わってみれば、深雪よりもシロのほうが深刻な傷を負っていた。そのことからも、シロが深雪を助けるため相当に無理をしたのだと分かる。
シロを支えたい。怪我を肩代わりすることはできないけれど、せめて顔だけでも見せて欲しい。
しかしシロは、そんな深雪を頑なに拒絶するのだった。
《監獄都市》で深雪がシロと出会ってから、こんなに距離を置かれたことがなかった。深雪自身、この膠着状態をどう打開すればいいのか分からないし、シロにどう接していいのかも分からない。
今日も面会を断られるだろうか。それを考えると、シロの部屋へ向かうことに躊躇いが生まれる。それでも深雪は自分に気合を入れると、自室をあとにしたのだった。
「シロ、おはよう……もう起きてる?」
深雪はそう声をかけながらシロの部屋の扉をノックする。ややあって「ユキ……?」とシロの声が返ってくる。
「ごめん、まだ寝てた?」
「……ううん、起きてたよ」
「傷の具合はどう……? もし良かったら一緒に朝ご飯を食べようよ」
「……。シロ……あまり食欲ない」
「そ……そう」
「ごめんね、ユキ。シロ、もう少し寝たいから……」
「……分かった。ゆっくり休んで……はやく良くなるといいな」
「……うん。ありがとう、ユキ」
ここ数日、シロはずっとこの調子だった。深雪に会いたくないらしく、深雪がいくら声をかけても面会を断られてしまうのだ。
深雪が嫌いになったとか、会うのが嫌だとか、そういう事ではないのだろう。おそらくシロは深雪に罪悪感を抱いているのだ。深雪を傷つけてしまったことを後悔し、自己嫌悪に苛まれている。
(こういう時、どうしたらいいんだ? 俺から積極的にシロに接触していくべきなのか、それともシロが俺に心を開いてくれるのをじっと待つべきなのか……)
どちらも正解でもあり、間違いであるような気がする。深雪は小さく溜め息をついた。
シロに正面からぶつかっていくべきか、それとも引いて待つべきか。どちらの方法が絶対に正しいわけではないだろう。ただ、深雪がどっちつかずで、吹っ切れないでいるだけだ。そう考えると余計に沈鬱な気分になってくる。
(俺はいつもこうだな。うじうじ悩んで、自分じゃ何も決められない。普通の学生だった時には―――ゴーストになる前は、自分はもっと決断力のある人間だと思っていたのに……現実は全然そうじゃない)
深雪はそっとシロの部屋の前から離れる。そして階段を降りると、事務所の一階へと向かった。
薄暗く、寒々とした階段を降りる途中で、深雪は事務所の屋上で六道から告げられた言葉を思い出した。
六道はすでに知っていた。自分の命がそれほど長くはないことを。それを深雪に打ち明けたうえで、こう言ったのだ。
―――お前が次の《中立地帯の死神》になれと。
それを聞かされた当初、深雪はひどく困惑したし、驚愕し、そして激怒した。何の力も持たない深雪が《中立地帯の死神》になれるわけがないし、なりたいとも思わない。
しかし、深雪は陸軍特殊武装戦術群にその身を狙われており、六道の要求をのむ以外に選択肢はなかった。陸軍のゴーストたちは深雪を連れ帰ることを諦めてはいない。いつか必ず、再び接触してくるだろう。
東雲探偵事務所に居続けたければ―――陸軍に連行され、モルモットのような実験体の生活を送る最悪の事態を回避したければ、《中立地帯の死神》になれという六道の『命令』を受け入れるしかない。
だが、深雪はその決心を固めることができなかった。
《中立地帯の死神》が《監獄都市》において重要な存在であるのは確かだ。深雪も幾度となく痛感してきたから、《中立地帯の死神》の重要性を否定するつもりはない。
同時に《中立地帯の死神》は恐れられ、忌避される存在でもある。《監獄都市》に生きるゴーストに恐怖を与えることで、犯罪や暴力への抑止力となる役割を果たしているのだ。
深雪の知る《中立地帯の死神》は、そういった恐ろしく忌まわしい存在だ。「なれ」と言われて、「はい、なります」と簡単に答えられるわけがない。おまけに自分に適性があるかどうかも定かでないのだ。
(いや……六道は適性のない人間に仕事を無理やり押しつけるなんて無駄な真似はしない。少なくとも六道はできると思っているんだ。俺には《死神》の適性が―――非人道的な行為に手を染め、《監獄都市》を震撼させる存在になれると……!)
そう思うと余計に腹立たしくてならなかった。もっとも深雪が二十年前、六道にした仕打ちを考えれば、《死神》の適性があると思われても仕方ないが。
深雪は六道の半身を奪った張本人だ。深雪が《ウロボロス》のメンバーを皆殺しにした現場に居合わせた六道は、アニムスの暴走に巻きこまれて右手と左足を失った。六道にとって深雪は憎き仇であるはずだ。
だが、六道はそんな深雪を東雲探偵事務所に招き入れた。常識的にはまずあり得ない行動だ。だが、それは深雪を自分の後継者に据えるという目的があったからではないのか。そうでなければ、六道の行動には不可解な点が多すぎる。
(六道は《中立地帯の死神》の後継者を誰にするか決めかねて、ずっと悩んでいたのかもしれない。俺が《監獄都市》に放り込まれるまでは……そう考えれば、すべての辻褄が合う)
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