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冷静に考えれば、《中立地帯の死神》の後継者など誰もなりたがらない。常に他人から恐怖の眼差しを向けられ、嫌悪される役割など、たとえ頼まれたってゴメンだ。
たとえば、裏社会で生きる人々なら恐怖に価値を見出すこともあるだろう。恐怖は人を支配し、脅すのに役立つ。うまく利用すれば、甘い汁を啜ることもできる。
だが、《中立地帯の死神》が人々に与える恐怖は、それとは少し違う。《死神》は他者に恐怖を与えるが、それで対価を得ているわけではない。むしろ、自分には何の利益もないと言っていい。
(もし俺が《中立地帯の死神》になったら、亜希や静紅、銀賀……《ニーズヘッグ》の皆はどう思うだろう? いや、彼らだけじゃない。俊哉や花凛、鈴華や鈴梅ばあちゃん、石蕗先生……みんなと今までの関係が続けられなくなるかもしれない。俺が《監獄都市》で得たものを、すべて失うかもしれないんだぞ……!)
六道がそれを理解していないはずはない。彼は深雪に言ったからだ。「俺はお前を同じ地獄に引きずり込もうとしているのだろう」と。
六道は何もかも理解したうえで、深雪に《死神》の後継者になるよう迫った。そして深雪が抗ったところで、自らの考えを覆すつもりは毛頭ないのだ。
(六道が何を考えているのか俺には分からない……六道の言うことを信じていいのか、それとも疑ってかかるべきなのか……それすらも分からないんだ)
六道が深雪に向ける感情が憎悪や恨みつらみであれば、《死神の後継者》となることを容易に受け入れられるのに。六道は被害者であり、深雪は加害者―――それは事実なのだ。もし六道が深雪に復讐するつもりであるなら、深雪にはそれを咎める資格などない。
しかし復讐が目的なのであれば、深雪を《死神の後継者》にするという面倒なことをせずとも、六道が目的を達成する手段はいくらでもあるはずだ。
上司という立場を利用すれば、六道は深雪を苦しめることなど簡単にできる。ただ、《リスト執行》や抗争の鎮圧といった危険な仕事を率先して回すだけでいい。事件や抗争に巻き込まれて深雪が死ぬようなことになれば、六道は何も手を汚すことなく雪辱を晴らすことができる。
だが現実には、六道は深雪に《リスト執行》を命じたこともなければ、抗争の鎮圧に加わるよう指示したこともない。流星も経験不足を理由に深雪を現場に出そうとしないし、六道もその方針に異論はないようだ。
それに六道は深雪が神狼と二人で《東京中華街》に潜入して囚われた時、自ら乗り込んで助けにきてくれた。しかも《タナトス》を使ってまで。その結果、血を吐いたことを考えると、六道にも相当、負担が大きかったはずなのに。
(六道の考えを理解できないのは、きっと俺が六道を知らないからだ。六道が《監獄都市》で何を感じ、何を考え生きてきたか……それを知らないからなんだ)
それを知ることができたら、決心がつくのだろうか。六道が何を考えているか知ることができたら、迷うことなく自分の将来を見定めることができるのだろうか。深雪には分からない。
六道に《中立地帯の死神》になれと告げられたこと。自分がクローンだったこと。両親が本当の家族ではなかったこと。一度にあまりにもたくさんの事実を突きつけられ、消化不良に陥っている。それが今の深雪の状況だった。
気づけばいつの間にか一階のキッチンに足を運んでいた。誰もいない、どこかよそよそしい印象を受ける台所に、深雪は深く溜め息をついた。
「やっぱり……シロがいないと何か変な感じだな」
いつも当たり前のように一緒にいるシロが、そばにいない。それだけで、どことなく寒々しい感じがする。事務所の中がいつもより広く、ガランとしているような気がしてしまう。
深雪は嫌というほど気づかされる。隣にシロがいることも、この事務所にいることも、深雪にとっては、ありふれた日常の一部となりつつあるのだと。
最初は好きでこの事務所にいるんじゃないと思っていた。深雪が東雲探偵事務所を出て行かなかったのは、六道に対する負い目もあるにはあるが、一番は他に行く当てがなかったからだ。
それがいつの間にか深雪の居場所となっていた。それが良い事なのか悪い事なのか、深雪には分からない。ただ、東雲探偵事務所が以前ほど忌まわしい存在ではなくなってきているのは確かだ。その心変わりすらも六道の計算のうち―――という可能性も考えられる。
(考えれば考えるほど分からなくなってくる。何が正しいのか、どうすべきなのか。俺は……いったいどうしたいんだろう? よりにもよって自分の気持ちが一番、分からないなんて……)
結局、シロにどう接すればいいのか分からないのも、考えても仕方のない六道の真意をあれこれ想像してしまうのも、すべて自分の心があやふやだからだ。
自分の心や立ち位置がはっきりしていないから、次から次へと雑念が湧き上がり、迷ってしまうのだろう。そう自覚はしているが、だからと言って迷いが消えてなくなるわけではない。
深雪が小さく溜め息をついたその時、二階から階段を下りてくる人影があった。深雪は、はっとして視線を向ける。ひょっとしてシロではないかと思ったのだ。
しかし、降りてきたのはスーツをまとった琴原海だった。
「おはようございます、雨宮さん」
「琴原さん……おはよう」
海は書類の整理や作成、各種機関との連絡など、いわゆる事務を担当している。深雪とは仕事で直に接することはほとんど無いが、六道やマリアの仕事を陰から支えている彼女は、東雲探偵事務所には無くてはならない存在となっている。
海は深雪のところまでやって来ると、声をかけてきた。
「怪我の具合はどうですか?」
「もう、かなり塞がってきてるよ」
「そうですか……良かった! シロちゃんは一緒じゃないんですか?」
「シロは……まだ少し眠たいみたいでさ」
「そうですか……」
海もおおよその事情は知っている。深雪とシロの間にトラブルがあり、そのために深雪が負傷したことを。深雪が落ち込んでいるのを察して、海は気遣うような視線を向けた。
「私、シロちゃんの様子、見てきましょうか?」
「ああ、うん……そのほうがいいかも」
シロは深雪には会いたくなくても、海なら心を開いてくれるかもしれない。一日中、部屋で独りで過ごすより、海がいてくれたほうがシロも気分が晴れるだろう。
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