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第3話 神狼の都合
そんな事を考えていると、今度は事務所の玄関から神狼が入ってきたかと思うと、滑るような足取りでキッチンにやってきた。黒いチャイナ服が、軽やかな動きに合わせて優雅に舞う。
「早! お前ラ、飯ハ食ったカ?」
「神狼か、今日もお疲れ」
「これ、うちノ店から持ってきタ」
神狼はそう言って紙袋を差し出してくる。紙袋は膨らんでいて、手にするとほのかに温かい。口を開けた途端、ふわっと良い香りが立ち込め、中を覗いてみると大きな肉まんが六つ入っていた。
海も紙袋の中身を目にし、感嘆の声を上げる。
「わあ、美味しそうですね!」
「朝ごはん、まだだったから助かるよ。いつも悪いな」
「鈴梅ばあちゃんガ、持たせてくれたんダ。シロの分もあるゾ」
神狼の言葉に深雪は少しだけどきりとする。シロも《龍々亭》の肉まんは大好きだけれど、深雪が持って行ったら受け取ってくれないかもしれない。
どうすればいいだろう―――深雪が戸惑っていると、海が気を利かせて助け舟を出してくれた。
「私、シロちゃんに肉まん持っていきますね。部屋で一緒に食べてきます」
「うん……頼むよ。ありがとう」
深雪は海の言葉に甘えることにした。今はシロと距離を置いたほうがいいのかもしれない。もちろん仲直りはしたいけれど、もう少しシロが回復するのを待ってからでないと、ゆっくり話すこともできない。今は時間が必要だ。深雪にも、シロにも。
深雪は自分の分の肉まんを取り出すと、残りの肉まんの入った紙袋を海に手渡す。海は「まかせてください」言って微笑むと、紙袋を抱えて階段を上がっていった。
キッチンに残った深雪は、テーブルで神狼が差し入れてくれた肉まんを頬張った。《龍々亭》の肉まんは甘さが控えめで、具が多めだ。腹もしっかり満たされるので、朝食として申し分ない。
「毎日、来てもらって悪いな。俺とシロの傷が完治すれば、二人でも大丈夫だと思うんだけど」
「別ニ……これも仕事ダ。待機していルだけだシ、気にしなくていイ」
神狼は照れかくしなのか、ぶっきらぼうに答える。
つい先日、東雲探偵事務所は陸軍特殊武装戦術群から襲撃された。陸軍に所属するゴーストたちは、事務所のメンバーの留守を狙って地下室からマリアを連れ出したのだ。その手際は鮮やかで、マリアを人質に取られた深雪とシロは国立競技場跡地に呼び出されたのだった。
深雪たちを助けに駆けつけた奈落や神狼が陸軍特殊武装戦術群と応戦し、退けてくれたから、すぐには連中も接触してはこないだろう。
とはいえ、おめおめと事務所の建物に侵入されて、何の対策も講じないわけにもいかない。
緊急措置として神狼や奈落、オリヴィエ、そして流星が交代で事務所に待機することになった。深雪とシロは負傷しているし、六道やマリアはアニムスを使えるものの、戦力として数えることはできない。他のメンバーが交代で事務所に詰めてくれれば、深雪としても心強いし、安心できる。
グラスに水を注ぎ、口に運ぶ神狼を横目で見ながら、深雪はふと考えた。
(神狼はたぶん知らないんだよな……六道が俺を後継者に考えていることを)
六道の体調が悪化していることは、事務所のメンバーの間ではあまり話題に出ないものの、それなりに気づいているはずだ。みな内心ではどう思っているのだろう。深雪はにわかに気になってきた。
たとえば六道が死んだ後、どうするつもりなのか。
(この事務所の《死刑執行人》は、六道に雇われたメンバーばかりだ。六道の健康状態は、みんなも気になっているはず……)
深雪は六道から《中立地帯の死神》になれと告げられたことを、まだ事務所のメンバーに打ち明ける気にはなれずにいた。
(まだ話せない……話せるわけがない。自分の中ですら、どうするか決まっていないのに……)
それに事務所のメンバーには、乙葉マリアのように深雪のことを認めていない者もいる。自分が六道の後継者に選ばれたことを知られたら、余計なさざ波を立ててしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
東雲探偵事務所はただでさえ、陸軍特殊武装戦術群の襲撃を受けてぐらついているのだ。自分が原因で、混乱に拍車をかけるような真似は絶対にしたくなかった。
肉まんを食べ終わった深雪は、神狼にそれとなく尋ねてみる。
「神狼、ちょっと聞いていいか?」
「何ダ?」
「神狼はこのまま東雲探偵事務所に所属し続けるつもりなのか?」
すると神狼は訝しげな表情になる。
「どうして急ニ、そんな事を聞ク?」
「ああ、いや……ちょっと気になって。たとえば他の《死刑執行人》の事務所に移籍するとか、《死刑執行人》を辞めるとか……そういう事は考えてないのか?」
深雪が慌てて説明すると、神狼は少し考え込むように視線を伏せる。
「そうだナ……先の事ハ、まだ考えていなイ。でモ、一つだケはっきりしていル。俺にとって一番大事なのハ、家族ダ。鈴華と鈴梅ばあちゃんの二人ガ、何よりモ優先すべき家族なんダ」
「何て言うか……少し神狼が羨ましいよ」
「羨ましイ……? 何故?」
「俺にはそこまではっきり大事だと言えるものが無いような気がして……。以前はあったけど、今はもう……何も信じられない」
「……」
神狼はじっと深雪を見つめた。黒曜石のような混じりけのない黒い瞳を向けられると、まるで心の中を見透かされているような気がして、どことなく居心地が悪い。
その場の空気を換えようと、深雪は別の話題を持ち出す。
「神狼は《東京中華街》に戻るつもりはないのか?」
「今のところハ、ないナ。鈴華も鈴梅ばあちゃんモ、あの街に戻る気ハないみたいダ。だから俺モ戻らなイ」
「神狼が事務所にいるのは、鈴華と鈴梅ばあちゃんを守るためか……優しいんだな」
「別ニ……家族を守るのハ、当たり前だろウ!」
照れ隠しなのか、神狼は若干、乱暴な口調で答えた。実際、神狼は鈴華と鈴梅を実の家族も同然に慕っているし、鈴華や鈴梅も神狼を家族の一員として大切にしている。彼らは三人で力を合わせながら《龍々亭》を守っているのだ。
深雪はさらに尋ねる。
「実のお兄さん―――黒彩水とは連絡を取り合ってないのか?」
「……。取っていなイ。でモ《導師》はたぶん、俺のことを全部知っていル……そういう人だかラ」
「だとしても不思議じゃないよな。あの人は《紫蝙蝠》の長だったんだろ?」
「……あア」
《紫蝙蝠》はかつて《レッド=ドラゴン》の暗殺部隊だった。彼らを率い、神狼に暗殺術のすべてを教え込んだのが、実兄である黒彩水なのだ。
神狼と黒彩水の関係は、二人の事情を何も知らない深雪の目から見ても特殊だった。普通の兄弟とは違う、絶対的ともいえる主従関係。ある意味では強固な絆ではあるが、その強固さゆえに、神狼は黒彩水との関係に悩んでいるように見えた。
「神狼は……《紫蝙蝠》に戻りたいって思ったことはある?」
そう尋ねると、神狼はふと遠いところを見つめる目になった。
「……。《紫蝙蝠》ハ、この世にもウ存在しなイ。戻りたいト思ってモ、戻れなイ」
「そうか……ごめん、変なことを聞いて」
「でモ……例え戻れたとしてモ、俺は《紫蝙蝠》にハ戻らないと思ウ。《紫蝙蝠》にいた時、俺ハ傀儡みたいなものだっタ。常に《導師》の望んだ通りニ動いテ、それガ最良なのだト信じていタ。あの時の俺ハ、息ハしていたけド、生きてなかっタ。俺自身の人生ヲ、生きていなかったんダ」
「今はそうじゃないだろ?」
「そうだナ……まダ完全じゃないけド、自分にとっテ何が大事カ、何ヲ優先すべきなのカ。前よりずっト、考えられルようになっタ。……俺ハこの事務所に来テ、良かったと思ってル」
《紫蝙蝠》にいた時の神狼は、すべてが兄の言いなりだったという。だが、当時の神狼はその状況を苦痛に感じてはいなかった。外の世界を知らなかった神狼は、自分の置かれた状況が特殊だということすら知らなかったのだ。
(俺も決して他人事じゃない。俺がもし陸軍防衛技術研究所で雨宮や碓氷と同じように育てられていたら……あの二人みたいに命をモノのように扱う人間になっていたんだろう)
深雪が「深雪」でいられるのは、普通の社会の中で、普通の子供として育てられたからだ。あくまでクローンの実験の一環にすぎなかったそうだが、そういった意味では他のクローンくらべて恵まれた環境にあったのだろう。
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