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その時、深雪は唐突に思い出してしまう。かつてエニグマに教えられた恐ろしい情報を。エニグマによれば、オリヴィエはヨーロッパを震撼させた大量殺戮の犯人だという。
(まさか……オリヴィエがそんな事をするなんて信じられない)
エニグマからその情報を聞かされた当時は、まだオリヴィエのことをよく知らなかった。だから深雪も半信半疑で話を聞いていた。信じられないと思いつつも、さりとて否定するだけの材料も無かったのだ。
しかし今は、はっきりと言える。オリヴィエがそんなことをするわけがないと。もしオリヴィエがヨーロッパで起きた大量殺戮に関わっていたとしても、何か事情があるに違いないのだ。
そう考えた深雪は、思い切ってオリヴィエの事情に踏み込んでみることにした。
「その……聞いてもいいかな? 何があったのか……その事件とオリヴィエが神父をしていることとは、ひょっとして何か関係があるのか?」
「……」
オリヴィエの、じょうろを傾ける手がふと止まる。その横顔は心なしか青ざめているようにも見えた。
(あまり聞かれたくない質問だったかな……?)
思い切って尋ねてみたけれど、不用意な質問は避けるべきだっただろうか。明らかに雰囲気を一変させたオリヴィエを見て、深雪は後悔した。
ところがオリヴィエは蒼白になりつつも、静かに話しはじめる。
「深雪は現在、ヨーロッパがどのような状況に置かれているか知っていますか?」
「いや……あまり知らないんだ。二十年前のことだったら覚えているけど」
《監獄都市》の中から外界の情報に触れるのは極めて難しい。ネットワークが隔絶されているため、国内の情報ですらあまり手に入らないのだ。オリヴィエも深雪が壁の外の情報を知らないと承知しているらしく、詳しく説明してくれた。
「……ヨーロッパは民族紛争に加え、移民問題や難民問題、そして経済格差などの諸問題にずっと悩まされてきました。それらの問題は今も解決されることなく、重度の慢性病となってヨーロッパを蝕んでいます。近年ではそれにゴースト問題が加わり、混乱に拍車がかかっているといいます。EUは今や形骸化し、国家もほとんど機能していません。EUや国家を信用できなくなったヨーロッパの各都市は、それぞれ勝手に独立し、無秩序かつ自己中心的に振舞っています。彼らは自分さえ良ければ他者など知ったことではないと思っているのでしょう。一部の持てる者は、両手に余るほどの莫大な富をたった一人で握りしめ、多くの持たざる者たちは空腹と憤怒を持て余し、街にあふれ返っている。まるで中世の封建社会が蘇ったかのような有様です」
「でもさ……今はたまたま調子が悪いけど、すぐに力を取り戻すんじゃないか? ヨーロッパは歴史的にも大きな影響力を持っているんだし」
「……それは難しいでしょう。もう昔とは違います」
「そこまで悲観しなくても……」
深雪はどうにかフォローしようと努めるが、オリヴィエは悲しげに首を振る。
「それが事実なのです。ヨーロッパの混乱とEUの弱体化に乗じて、ロシアや中国による干渉と支配が浸透しつつあります。そのため情勢は余計にややこしくなっているのです。……ヨーロッパの人々がアイデンティティすら保てなくなるのは、もはや時間の問題でしょう」
衝撃を受ける深雪をよそに、オリヴィエは淡々と話を続ける。
「問題なのは、当の本人たちがその危機にまったく気づいていないことです。彼らは思想や権利を主張し、他者を攻撃していれば、いずれ道が拓け、幸福が舞い込むと信じている。莫大な富を独占する者。自分勝手に振舞うことが自由や平等だと勘違いしている者。危険だと分かっていても大国のちらつかせる飴にすがりつくしかない者……ヨーロッパは完全に分断されてしまいました。もう二度とひとつに戻ることは無いでしょう」
「……」
深雪は言葉もなかった。東京もかつては日本の首都として発展していたが、今や《監獄都市》へと変貌し、その存在すら忘れられようとしている。他の国や地域にもゴーストは出現していると聞くし、ヨーロッパが同じような困難に直面していてもおかしくはない。
「私が育ったのは、まさにそういった混乱と分断の最中でした。両親がどういう人たちだったのか、自分がどこで生まれ、どんな場所に住んでいたのか。私は詳しいことを何も知りません。とにかく、物心ついた時にはフランス中西部にあった修道院に入れられていました。私が5歳の時のことです」
「修道院……」
つぶやいた深雪は、ふと合点がいった気がした。
(ああ、それで神父なんだ……)
オリヴィエは信仰心が厚いから神父になったのだと深雪は思っていたけれど、実際には逆なのかもしれない。修道院で育てられたため、その影響で神父になったのだろう。
一方、オリヴィエはなおも話を続ける。じょうろを傾けているが、すでに水は空になっているようで、先端の蓮口からは雫が滴るのみだ。しかしオリヴィエは会話に気を取られ、そのことに気付いていない。
「そこでは私と同じような孤児が大勢、集められていました。戦争やゴーストの抗争に巻き込まれ、両親を失い、孤児となった子供ばかりです。暮らしは貧しく、戒律も厳しく、毎年、逃げ出す子供が大勢いました」
「オリヴィエは逃げなかったの?」
オリヴィエは「いえ……私は」と小さく首を振る。
「……もし私が両親の顔を覚えていたら……少しでも修道院に入る前の記憶が残っていたら……きっと逃げ出していたでしょう。しかし、何の記憶も持たない私には逃げ出す場所など無かったのです。その当時は修道院が私にとって唯一の世界であり、全てでした」
深雪はその話を不思議に思い、首を傾げる。
「記憶がない……? 5歳っていえば、まだ幼稚園に通う年齢か。確かに記憶がなくても不思議じゃないけど……」
「いえ、そうではないのです。私には……『こちら側』には幼少時の記憶が残らなかったのです」
「『こちら側』……? それってどういう意味なんだ?」
「それは――……」
口を開きかけたオリヴィエは、しかしすぐに押し黙ってしまったかと思うと、すっかり空になったじょうろを取り落とす。深雪は驚いて顔を上げた。
ところがオリヴィエは白い手袋を嵌めた右手で心臓のあたりを抑えたかと思うと、蒼白だった顔色がさらに悪くなってゆく。深雪は慌ててオリヴィエに駆け寄った。
「オリヴィエ、大丈夫!?」
「え……ええ」
オリヴィエはどうにか微笑もうとするも、スカイブルーの瞳には苦悶の色が浮かんでいる。よほど具合が悪いのだろう。
(オリヴィエにとって、口に出すことすら辛い記憶なのかもしれない……)
深雪も覚えがある。事務所のみなに《ウロボロス》の事件を打ち明けた時、ひどい苦痛を感じた。オリヴィエにもきっと、他人には簡単に打ち明けられない過去があるのだろう。それでもオリヴィエは苦しい過去を深雪に明かそうとしてくれている。
「……さっきオリヴィエは言ったよな。フランスで大きな事件を起こして、そのせいでたくさんの子どもが死んだって。ひょっとして……その修道院で何かあったのか?」
「ええ……それは……」
口を開きかけたオリヴィエは再び顔をしかめる。心臓を抑えたまま、額には汗が浮かんでおり、かなり息苦しそうだ。深雪がどうしたらいいのかと悩んでいると、オリヴィエの両手に嵌めた白い手袋の甲に、鮮烈な血がにじむのが目に入った。
おそらく《聖痕》が発動しているのだろう。オリヴィエの《聖痕》は、手の甲に刻まれた十字の傷跡から流れ出る血液を変幻自在に操る力だ。
深雪が見つめる間も、オリヴィエの両手の甲からは、次から次へとどす黒い血が流れ出している。
オリヴィエは苦痛に顔を歪めており、《聖痕》を制御しているようには見えない。オリヴィエの意思とは関係なく、ただ黒い血液が流れ出し、滴り落ちているのだ。
その異常な光景に驚き、深雪は思わず叫んだ。
「オリヴィエ……血が!」
「大丈夫です……《聖痕》が私を守ろうとしているのでしょう」
「……何が起こっているんだ?」
「……深雪、あなたの言ったことは正しい。修道院の子どもたちが殺されてしまったのは、私が原因です」
「え……?」
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