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二、星を呑む竜
そもそもなぜ私は魔術師メアトと対決などしてしまったのか?それは、無垢で哀れな幼き星竜の子を、私がたまたま見てしまったから、と言うに尽きる。
田舎の良家の世間知らずな末息子であった私は、三年前、大陸一流の魔術を学ばんと期待に胸を膨らませて、この歴史ある都にやって来た。
下働きの口をまずは探し、それから適切な師を探すべしと計画していたが、私の都暮らしの幸先はよかったのだ。あまりに私の風貌が頼りなかったのか、それとも単に気に入られたのか、長屋のおかみが日当たりのいい清潔な部屋を格安で借してくれた上、衣類のお古や食事など、あれこれと持ってきては世話を焼いてくれて、結局実家から持参した資金にほぼ手をつけぬままはじめの数日を過ごしてしまったのだ。
しかしいつまでも人様の好意に甘えきりではいけないと、五日目の朝であったか、職を求め大通りに向かう途中、棘だらけの荒々しい野茨の生垣に囲まれた、異様な屋敷の前に出た。それこそはまさしく大魔術師メアトの屋敷であったが、そのときの私には名も知る由もない。
足早に通り過ぎようとしたそのとき、暗い庭の内からびしりとなにかを激しく打つ音と、ぐぐ、という低いうめき声が聞こえて、わたしはぎくりと立ち止まった。
「たわけ!この役立たずめが!」
しわがれた怒鳴り声とともにまたびしりと鳴った。人間の男がいきり立ち、庭先で白昼堂々、家畜か下僕かを鞭打っているようだった。その声を聞いて私は心底すくみあがった―白状すれば、幼少期より家庭においては優しき母と二人の姉にかしづかれ、使用人や隣近所の大人たちからも理由もなく甘やかされてぬくぬくと育った私は、男の怒鳴り声、というものを間近に聞いたことがほとんどなかったのだ。
それでも鬱蒼とした生垣の向こうで何が起きているのか知りたくて、恐る恐る棘の隙間から覗くと、髑髏のような形相をした黒衣の老人が日の当たらぬ小さな池のほとりに立っていた。老人は罵声を吐き散らしながら、白鷺に似て首の長い不思議な獣を鞭で打擲していた。私はその美しい獣が何であるか知っていた―昼間は人知れず水中に眠り、夜になると翼を広げて星空を翔け、星の欠片の宝玉を飲み込んでは水中に戻って吐き出し、水底の住処を飾ることを好むという、「星竜」と呼ばれる珍獣であった。
星竜の寿命は数百年、ときに千年以上も生き、その全長は町ひとつを覆うほどにも達することがあるという。老人に打たれ縮こまっている哀れな星竜は仔馬ほどに小さく、円らな黒い瞳といい、純白の翼といい、まだ生まれて間もない幼竜のように見えた。
「ああ、なぜ打つのです。どうかおやめください!」
気がつけば私は、恐れる気持ちも忘れて駆け出していた。朽ちた門をくぐって老人と獣の間に割って入り、なかばすがるように膝をついて懇願した。いかに温室育ちの坊やではあっても、か弱き者が虐げられるのを黙って見過ごすような男に育てられたつもりはなかった。
「力ある偉大な魔術師は、草花や樹木の精、ときに星竜などの聖なる獣をしもべとして従えるものとは存じております。しかし、あなたのなさりようは、あまりに……。」
無慈悲です、と言葉を継ごうとしたそのとき、私の目の前の地面に、びしりと鞭が飛んだ。
「たわけが!どの面を下げて許しもなくわが屋敷の門をくぐったか、この青二才。わしの捕らえた獣をわしがどう扱おうが、貴様ごときの口出すことではない!」
雷のごとき怒鳴り声に私の体はかたく強張り、目の前に星が散り、次の言葉が出なかった。背後の白い獣が怯えるように低くうなっていた。足が震えてその場を動けず、獣を撫でてやることもできない自分が情けなかった。
「どうした、声も出せぬか。鞭が怖いか?腰抜けめ。なぜこれを星竜とわかる?」
「……幼きころ、田舎の母が読み聞かせてくれた絵物語の星竜の姿と、あなた様の打ち据えていたこの獣の姿とが、つぶさに一致しておりましたので、……」
蚊の鳴くような声でどうにか理由を述べた。師を求め都へのぼるのは初めてでも、文字を覚えだした五つ六つの頃より、田舎のわが家を訪れる流浪の魔術師たちにたびたび手ほどきを受け、それなりに魔術の基礎は修めたつもりでいた私であったが、魔術師に知識を問われて幼児期の思い出など語ってしまうとは不覚であった。
「くはは、これは笑止千万。礼儀知らずの愚かな若造とは思ったが、まさか母親の乳が恋しいお子様であったとは恐れ入る。星竜について図入りでそれほど詳細なものといえばラエル版の大陸夜話絵巻ぐらいしかなかろう、女子供向けとはいえとても高価な書物だ。着ている長衣といい、貴様はさしずめ世間知らずな良家のお坊ちゃんか。」
図星を指されてうろたえる私を、老人は値踏みするようにじろじろと見まわした。
「ふん、生意気に杖を携えているな。おべっか使いの家庭教師に魔術のまねごとでも習って、なかば一丁前のつもりでこの都へやって来たか?……よかろう、この役立たずの星竜がいっこうに宝玉を吐かぬので鬱憤が溜まっておったところだ、かわりに貴様をいじめてやる。そんなにこいつが哀れならば身代わりになるがよい。」
「み、身代わり、と申しますと……。」
私は思わずあとじさった。振り向くと、暗い池の淵に真白き幼竜が、助けを求めるかのようにこちらをじっと見つめている。黒衣の老人は意地悪くほくそ笑み、枯れ枝のように尖った指を私の鼻先に突き付けた。
「魔術四番勝負だ。貴様が一勝でもすればこの星竜にかけた呪縛を解いて自由にしてやろう。だがもしも一本も取れなければ、明日から十年間、日の出から正午まで貴様はわしの弟子として休まず仕えること。―どうだ、受けるであろう?あどけなき星竜の子を強欲な老魔術師の仕打ちから自由にしてやりたいのだろう、のお?」
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