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四、丘の奇跡
真昼の初夏の日差しに汗を流しながら、私は丘の斜面を登っていた。風が吹くたびに群れ咲く白い百合が揺れ、優しい香りを放っている。どのあたりだったろう、もう少し上の方だったか。山百合の中にまれに混じるというハルワトの花を探して斜面をさまよった今朝の記憶をたどりながら、私は四つん這いになって、小さな花ばさみを探し続けた。
「そこの男、おもてを上げよ。」
どれほどそうしていただろう、頭の上から唐突に声がして、わたしはあやうく丘の斜面を転げそうに仰天した。声の方を見ると、そこには水のように滑らかな裾の長い衣をまとった、波打つ黒髪の美しい女性が、微笑むようにして私を見下ろしていた。見覚えのあるその姿は、まさに花ばさみの刃に刻まれた、私の女神そのものであった。
「昨夜で七百日になった。」
女神は微笑したまま、鈴のような清らかな声で言った。
「われに花を捧げよ、心よりわれに祈り、欠かさず花を捧げたれば、七百日ののちに汝が願いをわれは叶えん。そのようにわが宿りし刃に刻まれていたであろう?」
刃に刻まれた文字は、そのような意味をあらわしていたのかと、朦朧とした頭で得心した。暑さのせいで幻でも見ているのだろうかと思ったが、そうではなかった。驚いて無様に尻餅をついていた私のそばに女神はひざまづき、私の右手を取ると、花ばさみをそっと握らせたのだ。
「黒い糸が見える。あの老いた魔術師がおまえを縛り付ける、黒い糸だ。それを、きれいさっぱり切ってやることも、わたしにはできる。おまえは自由になる。」
わたしは固唾を呑み、思わず頷きそうになって思いとどまった。この先七年も続くメアトの束縛が解けたなら、どんなに良いだろう。しかし……。
「そうしたい気持ちでいっぱいです。ですが、あの池の星竜はどうなりましょう。私ならばあと七年耐えればよいだけのこと。願いを叶えてくださるのなら、あの日に救おうとして救えなかった星竜の子を、メアトの呪縛から解いてください。それに、いくらメアトが狡猾とはいえ、魔術対決の条件を飲んだのは私の意志です。十年、弟子となると約束したことを、あなた様のお力であっても反故にしてしまうことは、私の信条に反する気もいたしますし、それに……、」
大魔術師とはいえ、年老いて足腰の弱くなっているメアトに、あの広い屋敷でひとり暮らすことは酷であることを、三年のうちに私は知るようになっていた。流行り病で妻子を亡くしてから、人が変わったように冷酷になってしまったのだとも、長屋のおかみから聞いて知っていた。もしも心変わりさえしてくれて、自分を本当に弟子として魔術を教えてくれる気になったのなら……。そのことをどう伝えようかと口を開きかけると、女神は微笑したまま小さく頷いた。
「おまえの願いは、よく分かった。」
呟くように短く言うと、女神は立ち上がって天を仰ぎ、風とともに姿を消した。私の右手には、ずしりと重い小さな花ばさみが、何事もなかったように澄まして刃をぴたりと閉じていた。
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