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「おいおい、お姉さん。あれ見えるかい。あいつ、いったい何やってんだ」
運転手の指差す先を目でたどって見ると、龍応会の組事務所の三階部分の壁に両足をついて仁王立ちしている男が見えた。
「何だよあいつ。宇宙空間でもないのに、ありえない」
運転手が酷く狼狽えるのも道理だ。何しろ、壁に両足をついて真っ直ぐ直立不動の姿勢を取っているのだ。云うまでもなく地球には重力があるし、引力というものもある。それをあの男は、物理学を完全に無視するかのように壁に両足ついて直立しているのだ。
男はヤクザふうな派手な背広に身を包んでいた。青白い顔は生命を持った生身の人間のそれではなかった。
男は星空を背にしながら壁から生えたように真横に向かって直立し、遠い眼差しで真っ直ぐ前を見ていた。
「おい、お姉さん。見えてるだろ、あんたにも」
「み、見える」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
「スマホ。俺のスマホ返してくれ。早く」
運転手に急かされ、私は取り上げていた携帯電話を本来の持ち主に手渡した。
「ええと、カメラ起動。上手く写ってくれよ」
準備を終えた運転手が携帯電話を構えると、龍応会の組事務所の壁から真横に生えていたあの男は消えていた。
「ありゃ、消えたな」
運転手は腑に落ちないような様子で首を傾げた。
「お姉さん。今のあれ、何だったんだろうな」
運転手が後ろを振り向いた。
もちろん、あれが何だったのかなんて、私にわかるはずもない。ひとつだけハッキリしているのは、生身の人間にあんな芸当はできないということだけだ。ロープ等の補助器具を使えばある程度は可能なのかも知れない。それでもさっきのあの人物のように、真横に向かって真っ直ぐ綺麗に完璧な姿勢を保って直立し続けるなんて不可能だ。
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