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梅と桜、踏切に、風通う。
この時期の梅の花はきっと綺麗なんだろうな。なんて、床に落ちたカレンダーを見て思う。“彼女”さえいれば、花見に出かけていたというのに。
朧げな記憶を手繰りながら、真っ昏な部屋の片隅で、真っ白な天井をぼんやりと眺めていた。
あの日以来、ただただ自分の殻に籠ってばかりいる。
明かりの入らない部屋、散らかった床一面、溢れかえるゴミ箱。何もかもが色褪せた世界、そのベットの上で、力なく倒れているだけ。何も面白いことなんてなかった。
ふと、時計を見て見ると、日付が変わろうとしている。また、気付かない間に夜が来ていたみたいだ。そして、知らない間に秒針は何十周もしている。
そんなことが頭で理解る度、全てがどうでも良くなり、ただ呆然としていた。
偶に、手を伸ばし、空虚の輪郭をなぞってみる。だが、その度に何かが掴めそうで掴めないもどかしさに苛立ちを覚えた。
脳裏を過ぎる彼女の笑顔。
一回、もう一回でいいんだ。あと一回見られれば、思い残すことはないだろう。ただ、もしそれ以上に欲を言えるとするなら、話がしたい。
別に他愛もない話だ。最近、何をしているのか、何を食べているのか、何を読んでいるのか、何を見ているのか。
とても下らないこと。けど、きっと死んだ人に伝えたい言葉なんて、それで十分。言い残したことなんて、きっと、ない、はず……。
つい思い出してしまうと、大切な記憶までも入った涙が流れていく。
こんな夜を、途方もなく過ごしていた。
そして、眠りと共に、心の奥底へと引きづられる。今日もまた、何もない一日が終わるのだ。
ふと目を覚ますと、見知らぬ場所で立っていた。––––いや、違う。ここは、見覚えしかない。
冬明けを知らせる梅の花が咲き乱れた並木道。真下を流れる用水路。片方だけ降りなかった踏切。そして、ボンネットが歪んだ黒い車。全て静止画のように止まっているが、間違いない。あの日の光景だ。
三月十四日。彼女は、目の前で黒い車に突き飛ばされ、遮断機が降りなかった踏切に身を投げられると、そこを通り掛かった電車と衝突した。偶然に偶然が重なって生まれた事故。でも、そのせいで、彼女は帰らぬ人となったのだ。
あの忌々しい事故の舞台を忘れるはずもない。
そして、同時に悟った。
これは、“夢”なのだと。
「正解」
後ろから聞こえてきた声。優しいけど、何処か切なく、透き通った声。そして、何度も何度も耳にした声だった。
彼女が、いる、のか。
「それも正解」
恐る恐る振り返って見ると、そこには数え切れない程の時間を共に過ごした人が立っていた。
彼女が浮かべている笑顔を認識した瞬間、数々の記憶がフラッシュバックしていく。学校の屋上、公園、図書館、カラオケ、僕の部屋。いろんな場所で見せた彼女の笑顔が脳裏を過っていくにつれて、言葉には出来ない感情が胸の奥底から溢れ出した。
あの時にいなくなったはずの彼女は––––。
「水無瀬 真希」
「ちゃんと覚えてくれてたんだね。葦原 拓海くん」
––––真希は微笑んでいた。
彼女は、いつも着ていたピンクのスカートに、可愛いロゴの入った白いシャツ、そして、お気に入りだったベージュの上着を着ていた。あの時のままの格好をしている。
「何で真希がここに居るの?」
「さぁ? 私にだって分からない。けど、これが夢だからじゃないかな?」
「夢、だから?」
「うん。夢だから、かな」
そんな風に問い掛けてみても、釈然としない答えしか渡されない。ただ、悪い気はしなかった。こうして夢の中で会えるだけでも十分嬉しいのだ。
しかし、彼女はそれ以降、僕の質問にはただ微笑み返すことしかしない。
そして、彼女は不意に歩き出す。行き先なんか教えてくれやしない。だけど、きっと彼女のことだから何かあるのだと思い、黙々と付いて行った。
「この道、覚えてる?」
彼女がそう言って、止まったのは梅が咲き誇る川沿いの道。彼女との最初の思い出の道だった。そして、その時も梅が咲いていたっけ。
だが、風に揺られ、散り行くはずの花弁は宙を舞っているままで、一切たりとて動かない。まるで、時が止まった世界にでもいるかのようだった。
「覚えてるよ。初めてのデートの時だよね」
「そう」
告白が成功した翌日、急に連絡があり、デートすることになった。けど、あの時はどうすればいいかも分からず、ちょっとした緊張でぎこちない会話をしていた思い出がある。
そうやって懐かしさに浸っていると、何も動かないはずの世界で、花弁が一枚降ってきた。
これは……。
「あすか川 淵は瀬になる 世なりとも 思ひそめてむ人は 忘れじ」
ふと聞こえた声に、振り返る。
彼女は梅をぼんやりと見上げていた。だが、すぐこちらに気付くと、微笑みを向け、「次、行こ?」なんて言って、また何処かへと歩き始める。それにただただ付いて行くだけだった。
と、気付けば、景色は変わっていた。
「本当に懐かしいね」
なんて言いながら歩いているのは、よく来たショッピングモールだった。
いつも人が行き交っていて、煩くも感じていたが、こう誰一人といないと、それはそれで寂しさを覚えてしまう。
「そう言えば、約束に来なかった日あったよね」
「あ、うん」
「あの日、とっても寂しかったんだよ」
「……ごめん」
「まぁ、でも仕方がないか。拓海くんのおばあちゃんが亡くなったんだっけ」
そんな事もあったな。
確か、あの時は優しいおばあちゃんが居なくなった寂しさと、彼女に逢えない寂しさで、心は引きちぎれてしまいそうだった。
「秋の田の 穂の上霧らふ 朝霞 何処辺の方に 我が恋ひやまむ」
まただ。また彼女は、何かを口にした。
多分、和歌、なのだろう。ただ、あまり聞いたことないせいか、その意味は全く分からない。でも、不思議そうに視線を向けて見ると、彼女は知らん振りをして、「次に行こっか」と誤魔化す。
気にならないはずもない。
だが、触れてはいけない気がした。触れてしまったら、この夢が終わってしまいそうな気がして。
「そうだね。でも、次が最後。そこで話そうか」
彼女の言葉に、ふと口を抑える。
「大丈夫。声には出てないから」
「じゃあ、なんで……」
「僕の心の声が聞こえるのか、って? だから言ったじゃん。これは、拓海くんの夢だって」
悪戯な笑みを浮かべ、「ほら、早く」なんて言うと、彼女は走り出す。それに置いて行かれないように、全力で走った。そして、彼女が足を止めると、それに合わせて僕も足を止める。
ただ、何故か息を切らしてしまい、その場で思いっ切り咳き込んでしまった。なんとか肺を宥め、心臓を落ち着かせると、ゆっくりと顔を上げる。
「此処って」
目に入ったのは、この夢の最初の景色。あの踏切だ。
「どうして……」
「ねぇ、知ってる?」
僕の言葉を遮るように彼女は話し出した。
「昔の人はね、夢で恋する人と逢ってたんだって。でも、それは生きている人だけじゃなくて、死んじゃった人とも」
語り出した彼女の声は、泣き出してしまいそうな程、感情が詰め込まれている。だが、彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。
「それで、もし本当に夢で逢えたんだったら、現実でも逢えるって言われてたんだ」
頬を一筋の涙が滴り落ちる。勿論、抑え込もうとはした。でも、抑えきれない。次第に、眼からは一杯の涙が溢れ出してしまう。
それを隠すように、顔を俯けた。
「ほら、泣かないで」
「でも……」
「そっか……。それじゃあ」
パンッ。
乾いた音がこの世界に響き渡る。
「ほら、これならこっちを向けるでしょ?」
ひらひらと左手に落ちてきたのは、一枚の花弁。でも、梅の花ではない。これは……。
桜の花弁だ。
顔を上げ、涙を袖で拭うと、彼女の背後には満開の桜が現れていた。そして、ピンク色の雨をこの世界に齎らしていく。
「もう、時間だ。夢から覚める時間だよ」
「待って」
唐突に告げられた終わりの合図。それを聞くや否や、途轍もなく大きな衝動に駆られる。
まだ、一緒に居たい。
「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 波越さじとは」
「え?」
「またね、拓海くん」
段々と揺らいでいく意識に、必死で手を伸ばす。遠のいて行く彼女に届くように。
届け、届け、届け。
だが、あと数センチのところで届くことはなかった。なのに、最後に見えたのは、満面の笑みを浮かべた真希だった。
目が覚めると、暗い部屋のベットに横たわっていた。
飛び起きてみるが、やっぱりさっきのは夢だったのか。そんな時に、ふと左手を見てみると、そこには桜の花弁が一枚握られていた。
「風通ふ 寝目覚めの袖の 花の香に 薫る枕の 春の夜の夢」
ふと頭に思い浮かんだものを呟いてみる。和歌、か。聞き覚えがある気がする。
確か、この和歌の意味は……。
足場のない床の上を歩き、埋もれた古典の教科書を適当に開いてみる。と、その和歌が乗っていた。
そして、『朝目覚めると、部屋に風が入ってきて、私の袖が花で薫っていた。枕もその薫りがしてる。私はその枕であなたの夢をみていたのですよ 』と書いてあった。
目線を少し下ろし、袖を見てみると、そこにはしっかりと涙の跡がある。そして、カーテンを開けると、ほんの少しばかり窓が開いていた。
途端に、身体は勝手に動き始め、気付いたら、家を飛び出していた。向かう先は決まっている。
初めてデートした川沿いの道、人と思い出が一杯のショッピングモール、そして、あの踏切。その全てを駆け抜けて行く。でも、そこにあったのは梅なんかではなかった。桜だった。夢の中で、彼女が最後に見せたあの満開の桜。
「夢で逢えたんだから、また逢えるって言ったでしょ?」
そんな声があの踏切の、降りた遮断機の向こうから聞こえてきた。そして、そこには確かに彼女がいた。
「真希っ」
刹那。僕らが過ごした時間と同じ速さで電車が目の前を横切ってしまう。
それから数秒後、遮断機も上がる頃には、彼女の姿はどこにもなかった。
春の日を駆けていく風は、僕の部屋も通り抜け、始まりを運び、終わりを攫って、天高く吹き抜けて行った。
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