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警察には真犯人は分からなかった。そして最終章へ。
(八)疑惑
翌日、鬱はホームセンターで拒食症が持っていたのと同じナイフを買ってきた。そしてそれをヒッキーの手に握らせた。
また、台所にあったのと同じ文化包丁も買ってきて、それを幻覚と借金の手に握らせた。そして借金は幻覚とやり合って殺されたことにした。背後から刺されるという形では自殺はできないからだ。そして女は借金に殺された。口封じのために絞殺されたということにした。また、その時の様子は鬱が少し空いた襖の間から見ていて、女の呻き声と「お前宇宙人だろ」という幻覚の声と「何しやがる」という借金の声が聞こえたことにした。
こうして鬱が110番をした。
「私達は○○市の横田さんの家で集団自殺をしようとしていた者です。しかし集団自殺する前に自殺者が出て、また仲間割れで死んだ人間もいます。それから自殺とは関係のないデリヘル嬢の女も殺されています。自殺は取りやめますからすぐに来て下さい」
「あなた、お名前は?」
「安田幸作と申します。元高校の教員です」
「わかりました。今から警察官を派遣しますから、そこを動かないでいて下さい」
間もなくパトカーがやってきた。
「わー。これはひどいなあ。五人とも自殺か。とにかく三人とも事情を聞くからパトカーに乗って」
鬱とリスカちゃんと拒食症は別々に車やパトカーに乗せられ、別々に話を聞かれることになった。
「安田幸作。職業は元高校の音楽教師だな。では五人がなぜ死んだのか、また君たちはどうしてあの家に集まっていたのか話してもらおうか?」
「はい、俺たちはみんな自殺志願者です。広間にあった練炭で自殺しようと集まったんです。ネットを見て全員参加しました。ただ、物置にいた女だけは違います。小野君が最後のお楽しみとして呼んだらしいです」
「練炭で自殺しようとしたが、先ずは井上幸太五五歳の首つりが見つかったんだな?」
「はい、私達が朝一階へ降りて行くとじっちゃん、いや井上さんは既にクビを吊ってました」
「そうか。全員司法解剖ということになると思うが、嘘はいかんぞ。次に佐山信吾二五歳だ。風呂でクビを切って死んでいた。発見者は吉山留美二五歳。それで間違いはないか?」
「はい、間違いないです」
「しかし、おかしいのではないかな?普通は首を切る場合はナイフを首に立てたりしない。上から頸動脈を切るのが普通なんだがなあ。そうは思わなかったのか?」
「私にはわかりません」
「まあいい。これも司法解剖ということになるだろう。次に村沢孝太郎二五歳と小野祐輔二八歳、それに甲村由紀二十三歳。だが、三人がやり合った時にどうして止めなかったんだ?」
「小野君は元自衛隊員ですよ。かなり癇癪をおこしてましたから怖くて止めることはできませんでした。」
「では、君は三人がやり合う所を見ていたんだな?」
「はい」
「で、先ずは小野が甲村の首を絞めて一緒に死のうとしたんです。そこで甲村は小野の胸を刺し、村沢が小野の背中を刺したので小野は村沢の頸動脈をかっきったというわけか?」
「そうです。なんせ、もみ合いになってましたからくわしくは言えませんが---」
「その時に何か三人は言葉を発しなかったか?」
「突然村沢君がおかしくなって『お前、宇宙人だろ』とか言って小野君を刺したのです。すると小野君は村沢君ともみ合って、『何しやがる』なんて言ってました。その前に女が入って来てなんかの行き違いから小野君がその女を殺したんだと思います。だから女の首を絞めて殺したのは小野君だと思います」
「そうか。これも司法解剖だな。とにかく他の二人との証言の一致、それから司法解剖ではっきりとしたことは分かる。嘘はないだろうな?」
「嘘はつきません」
このようにして鬱は男で最年長であったので、厳しく取り調べられた。
次にリスカちゃんはどうなったのだろうか?
リスカちゃんは取り調べの間、ずっと泣いていた。未成年で女性ということで女性の警察官が取り調べにあたった。
「泣かなくてもいいのですよ。事情を聞いているだけですから。ところで、今までの話だと井上と佐山は自殺、小野と村沢と甲村は殺し合ったということで、井上の第一発見者があなたなんですね?」
「はい、じっちゃんは私が一階へ降りると既に首を吊って死んでいました。他の三人は私が発見したのではありません」
「そう。でも駄目ですよ、そんな若さで自殺なんて。それから事件が起こった時にどうして直ぐに警察を呼ばなかったのですか?」
「みんなが『どうせ死ぬんだから』と言ったので---」
「そう。あなたのお母さんがもうすぐ来ると思いますが、お母さんにきちんと話せますか?」
リスカちゃんの顔が突然の夕立のように急に曇った。そして警察官に向かって言い放った。
「あんな奴母親でも何でもねえんだよう。私が見ている前で男といちゃつきやがって」
「『男』というのは誰ですか?あなたのお父さんではないのですか?」
「父です、義理の」
そうこうしている間にリスカちゃんのお母さんが到着した。そして取調室に入るなり、リスカちゃんにビンタを喰らわして言った。
「この子はなんてことするの?どれだけ心配したか?『私死にます』なんてメールを残して家出なんかするんだから」
ビンタを喰らわせられたリスカちゃんは応戦した。
「何しやがるんだ?お前なんか母親だと思ったことはねえんだよう!男といちゃつきやがって!」
「何ていう口をきくの?この子は、親に向かって」
「じゃあ言ってやろうか?あんたと暮らしているあの男はなあ、私を強姦したんだよ!中学生の時にね。それから何度も同じ事をされた。あいつは『お母さんには内緒でね』と言って私の胸をもみ、それから一物を入れてきやがった。あいつは獣だよ」
「嘘おっしゃい」
「こんな所で嘘が言えるかい。本当だよ。それから私がどうやって学費を稼いでいたか教えてやろうか?援交だよ、え、ん、こ、う。スケベ親父なんかは私に五万も出すんだよ。五万だよ」
「何を言い出すかと思ったら、この子は情けない。学費もお小遣いも出してやってたじゃないの」
リスカちゃんの母親はその場で泣き崩れた。そして言葉を付け足した。
「なあ、由香子。お前はたった一人の娘なんだよ。そして私はあなたのたった一人の母親だよ。一体何が気にくわないって言うんだ?自殺だなんて---」
「へー、そんなこと言うんだ。私の左手にはいっぱいリスカの痕があるの知ってるでしょう?これはあんたに暴力を振るわれるたびに切ったんだよ。物差しで殴ったり包丁を向けたりしてくれたよねえ。思い出したかい?
それからどうして私がお母さんと『あの男』の食事の世話なんかしなくちゃいけないの?みんなお母さんがやるべき仕事でしょう?私をお手伝いさんか何かと思っているの?それから『あの男』の下着なんか洗わせないでよ。臭くってたまらないわよ」
母親は何も言えなくなってしまった。そこへ少年課の刑事が口を挟んだ。
「荻内さん、この子は未成年ですし、事件との関連も薄いようです。まあ、事情を聞いて帰ってもらうことになると思いますが、よろしいでしょうか?」
するとリスカちゃんは激しくかぶりを振って言った。
「嫌です!私は鬱先生や拒食ちゃんと一緒にいます。こんな家なんか帰りたくありません!」
「困ったなあ。それじゃ児童相談所に行くことになるけどいいのか?児童相談所は十七歳までだから君はギリギリの年齢ということになるが---」
「児相なら私、何回も行きました。母さんが暴力を振るうたびに行きました。あそこの方が家にいるよりはましです。そりゃあ爪のない子や火傷の痕が膿んでる子なんかもいたけどお母さんのところよりはましです」
そんな風にリスカちゃんの取り調べは延々と続いた。
拒食症はどうなったのであろうか?
鬱と拒食症、リスカちゃんの話でヒッキーと幻覚と借金と女の死については拒食症は関係ないということになっていた。しかし警察は追求の手を緩めなかった。
「もう一度お尋ねします。あなたが風呂に入った時に佐山信吾の死体を発見したのですね?自殺にしては少し不自然な点があるんですけど」
拒食症の頬がヒクリと動いた。警察は何を掴んだのだろうかと思い、心臓が高鳴るのを覚えた。
「あのー、不自然な点って何ですか?」
警察官は躊躇せずに答えた。
「司法解剖でわかることなんですが、頸動脈の傷が深すぎるということです。あなたは誰かをかばっているのではないですか?佐山は本当に自殺だったのですか?」
どうも自分は疑われていないようである。誰かを庇っていると思われているようだ。拒食症は鬱に言われたように嘘をついた。
「それはわかりません。私が風呂へ行ったら彼が首から血を流して倒れていたのです」
「ふーん。それから村沢と小野と甲村なんだが、君は三人が言い争う声を聞いた。それはどんな声だったのですか?」
これも嘘をつかざるを得ない。
「はい、村沢さんの声で『お前、宇宙人だろ』と言って、その後小野さんの声で『何しやがる』と聞こえてきました。女の呻き声も聞こえました。その後、ドスンドスンという音がしたので鬱先生、あ、そうじゃない。安田さんが部屋へ入っていったら三人とも死んでいたらしいです」
「ふーん、安田と証言は一致している。しかし自衛隊員というのはそんなに簡単に一般人に殺されるものなのかねえ?」その警察官の口からは「疑問はまだまだあるぞ」という疑念めいたものが感じ取られた。
「わかりません」
拒食症はそう言わざるを得なかった。
「そうだなあ、女性の君には分からないか---。とりあえず未成年の荻内由香子は親御さんに引き取ってもらって、君と安田は司法解剖が終わるまで留置場で泊まっていってもらう。いいね?」
「はい」
*
司法解剖が行われた。また、三人の証言の整合性も調べられた。
結局、警察は一応鬱やリスカちゃんや拒食症の言うことを信じて、三人とも家へ帰された。
じっちゃんは自殺、ヒッキーも自殺、幻覚と借金は口論の末に刺しあいになって死に、その前に小野が甲村を絞殺したということで決着がついた。しかし刑事の正木には納得のいかない点があった。勿論、全員の遺書も見つかっているし、これで何の問題もないはずだ。しかし正木は考えていた。
「自衛隊員の小野がそんなに簡単に殺されるだろうか?自衛隊員という連中は訓練をかなりしているはずだ」
「佐山の切り口が深すぎるのはどうしてか?自殺なら首を突いたりせずに切るはずだ」
「甲村は自殺とは何の関係もないのだろうか?関係ないのなら、なぜのこのことあんな所へ出かけたのだろうか?」
「佐山が持っていたナイフだが、なぜサバイバルナイフなんか持っていたんだろうか?それも台所に置いておくようなナイフではない。小野と村沢の文化包丁も不自然だ」
考えれば考えるほど謎が深まっていくのだ。そこで正木は先ず安田幸作、すなわち鬱に疑いの目を向けた。その理由は、ホームセンターの店員の証言で、男がサバイバルナイフと文化包丁を買っていったと話したからだ。しかし店員は鬱の顔までは覚えていなかった。しかし、どう考えても包丁を買ったのは鬱だ。
だから、正木は鬱の一人暮らしのアパートへ部下の金村を連れて行ったのだ。
鬱はアパートで一人暮らしであった。殺人や自殺教唆などの嫌疑がかけられなかったので、職探しをした。そして彼の実家近くの楽器屋で学校などを回る営業の仕事とともに、夜はその楽器屋でピアノを教えて食いつないでいた。事件があってから一ヶ月が過ぎていた。そこへ突然刑事の正木がやってきた。
「警察の者です。奥村楽器店ですね。そちらに安田幸作さんという方が働いていると思うのですが、○○市の集団自殺事件のことで伺いたいことがあって来ました」
楽器店の店主は怪訝な顔をした。一体安田が例の集団自殺事件と何の関係があるのだろうか?と訝しく思ったのである。勿論、鬱は集団自殺のことは店主には伝えていなかった。ハローワークで職探しをしていた時も全くの秘密にしていたのだ。もしもこんなことが明るみに出たらせっかくの新しい仕事もクビになってしまう。だからそのことは極力避けていたのだった。
「はい、安田は今学校を回っているところですが、彼と集団自殺事件と何か関係があるのですか?」
店主は正木に尋ねた。当然のことである。正木は恨まれてはいけないと考え、集団自殺に鬱が関与していることは話さなかった。
「いや、彼はそこで亡くなった方の担任をしていたらしいので事情を聞きに来ただけです」
店主は安堵した表情で答えた。
「そうですか。安田先生はうちでも重宝しております。元教師ですから楽器の注文も学校関係から沢山舞い込むし、ピアノの教え方も上手いので生徒の親御さんも感心しております。もう少しで帰ると思いますからしばらくお待ち下さい」
「そうですか。それでは少し待たせて頂いてよろしいでしょうか?」
「はいはい、今お茶を入れます」
そうして三十分後に鬱が戻ってきた。
二人の刑事は待ってましたとばかりに、営業車から降りてきた鬱に警察手帳を見せて言った。
「神奈川県警の者です。少しばかりお話をよろしいでしょうか?」
鬱の顔が曇った。あの秘密(すなわち鬱が集団自殺の時に自分もあの仲間達と一緒にいたということ)を警察は店主に話したのだろうか?と思ったからだ。
「何ですか?例の集団自殺の件ですか?こんな所に来られては迷惑です。あのことは誰にも秘密にしてあることなんですから---」
「そうでしょう、そうでしょう。そのことはよく分かっています。店主には何も話していません。ところで集団自殺の件について、まだ不明な点がありますのでそこの喫茶店ででもお話しませんか?」
鬱は警察に腹を立てて言った。しかし「不明な点」って一体何なんだ?
「お話することはありません。全て警察で話した通りです。一体今頃になって何ですか?」
「いや、少し捜査上引っかかる点がありましてねえ」
まさか嘘がばれたのでは?それともリスカちゃんか拒食症が何か喋ったのでは?という不安が鬱の心に表れた。
「いいでしょう。そこの喫茶店へ行きましょう」
こうして二人の刑事と鬱は徒歩で喫茶点まで歩いた。その時間は二分ほどであったが、鬱にとっては一時間にも二時間にも思えた。
「(警察が何か事件の真相を掴んだのだろうか?もしもそうならば拒食症が捕まってしまう。何としてでもしらを切り通さねばいけない。それからもし本当のことが分かったなら俺が一人で罪を被ろう)」と思っていた。
先ずは正木が切り出した。
「二~三引っかかる点があるんですよ、安田さん。先ずはナイフのことなんですがね、なぜ佐山があんなナイフを持っていたのだそうかということなんですよ。あのナイフはどこにあったものかご存じないですか?」
「わかりません。しかし台所には同じナイフがありましたよ」
「そうですか。でもあれは台所なんかに置くナイフじゃないですよ。サバイバルナイフです。どうしてこんなものがあるのですかねえ?」
「いや、あったのですから仕方ないじゃないですか」
「誰かが用意して使い、誰かを殺した。そしてそれから殺人ではなくて自殺に見せかけるように誰かが買ってきたのではないですか?事実、近くのホームセンターでナイフや包丁を男が買っていたというホームセンターの店員の証言もあるんだ」
鬱は必死になって抗弁した。
「元々死のうと集まった連中ですよ。殺してどうなるんですか?」
「しかし村沢と小野は殺し合ったではないですか?」
「その辺の事情は私には全くわかりません」
「それから甲村は首を絞められていた。そんな怪力を持った奴がいたんでしょうかねえ?」
拒食症が怪力を持っていたわけではない。しかし彼女は確実に女を絞め殺せるように何かの技を使ったのであった。ここは借金を犯人にするのが得策だ。そう考えて言った。
「わかりません。でも小野さんは自衛隊員だったのですよ。女を絞殺することくらいできるでしょう」
「そうですか。今は𠮷山留美には静岡県警が張り付いているはずだ。荻内由香子には埼玉県警がついている。いくら嘘をついてもそのうちにボロがでるからな。口裏を合わせたつもりだと思うが警察はそんなに甘くないぞ」
完全に疑われている。そこで上ずった声で鬱は抗議をした。
「何を言うのですか?僕達のことはもう放っておいて下さい。荻内さんなんかは未成年なんですよ。事件は終わったんじゃなかったのですか?」
鬱は思った。
「(二人を守らねばならない。もしも拒食症が殺人を自供したとしても俺が罪を被ろう。彼女らは俺の生徒ではないが、教師を辞めてしまった俺にとっては生徒以上に大切な存在なんだ。それに俺にはもう失うものなんか何にもない。刑務所へ入るのは俺でいいんだ)」
そう考えていると正木は次の質問を繰り出した。
「自衛官の小野は村沢に殺されたという話だが、自衛官ってそんなに弱いのですかねえ。武道の大会では警察よりも強いのですよ。それから甲村は自殺とは関係のないことが分かっている。彼女はデリヘルのホステスだ。誰かが呼んだのではないのか?私達は小野が自殺の前に呼んだと見ているがねえ。あの家の電話は使える状態だったし、誰かが呼んだことは確かだ。それから携帯はみんなまとめて置いてあるのが見つかっている」
「そんなこと言われても知りませんよ。彼らはもみ合いになって殺し合ったんだ。それ以上のことは見てません」
「じゃあ三人のことは分からないということだな」
「はい」
「それから佐山信吾の傷なんだが、あれは切り傷ではなかったよ。刺し傷だ。自殺じゃなくて誰かが殺したのじゃないのか?」
「それで私を疑っているわけですね」
「まあ、そんなところだ。ところで、ネットに自殺のスレを立てたのは誰か分かるか?」
「知りません。それは誰にも分かりません。もう削除されてしまってますから---」
「それも調べることができるんだぞ」
これは明らかに正木の脳裏に浮かんだ嘘であった。しかし鬱はこの言葉で大変な事態が切迫していることを悟った。
「(これはまずい。あのスレを立てたのは拒食症だ。しかし殺人とは関係ないと言い張ろう)」
聞き取りが終わって刑事の正木は部下の金村に尋ねた。
「どう思う?何かおかしいとは思わないか?」
「いや、もう調べる必要もないと思いますけど---」
「いや、俺にはひっかかるんだ。奴は何か隠していやがる。奴の顔は嘘をついている顔だ」
「そうですかねえ」
「とにかく奴から聞きだそう。何かあるはずだ」
「そうですかねえ」
金村は怪訝そうに同じ言葉を繰り返した。
*
そうこうしている間に日は過ぎていった。時間というものはあの凄惨な事件までかき消してくれる。しかし鬱はまだリスカちゃんと拒食症のことを考えない日はなかった。
冬になった。突然正木が鬱のアパートまでやってきた。
コートを着た正木はいかにも刑事だという出で立ちだ。体格もがっしりとしていて背も高い。若い金村の方が背が高かったが、二人が並んで歩いていると、誰もが道をよけた。それなりの風格があったのだ。
「安田さん、すみません、いらっしゃいますか?任意で事情を聞きたいのです」
正木がドアを叩いて何度か呼びかける。休日で休んでいた安田は慌てて着替える。
「少々お待ち下さい。今着替えている所ですから」
しばらくして鬱が出てきた。着替えてはいるが髪の毛がボサボサだ。さっきまで寝ていたことが一目瞭然であった。
安田が出てくると正木は彼を見下ろし、用件を伝えた。
「佐山信吾は自殺ではないことがはっきりしている。誰が殺したかわからないか?あんたじゃないのか?」
「僕が殺したと言うのなら動機は何ですか?それから彼が殺されたというのはどう『はっきりしている』のですか?」
「彼は首がえぐられていた。自殺ならナイフで切る。しかし動機が分からないから困っているんだ」
「そうです。動機がない。大方宇宙人にでも殺されたのじゃないですか?」
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかいません。村沢君がいつも『宇宙人がいる』とか言ってましたから」
「そうか?すると村沢が殺したのかも知れないな。そんな兆候はあったのか?」
「あいつ、死ぬのを怖がってました。『宇宙人があのスレを立ててみんなのこと殺そうとしているんだ』なんて言ってましたから。何か自分は宇宙人の命令で自殺することになって、他の連中もみんな宇宙人だと言ってましたから。もし殺したというのなら先ず彼を疑うべきですよ」
「それだけじゃない。吉山留美があんたと佐山がしょっちゅう口論していたと言っていたんだが」
「確かに何度か口論になりました。彼は東大に行っていたのに、なぜか教師が嫌いで俺のこともよく思ってなかったようです」
「そこで風呂場で彼を殺したのか?」
「そんなことで殺すわけないじゃないですか。元々自殺志願者なんですよ。いずれは死ぬのですよ」
*
正木は「安田が嘘をついている」と確信していた。勿論安田だけではない。荻内も吉山も証言が一致している限り嘘をついていることになる。しかし奴らはなかなか尻尾を出さない。このままではこの事件は有耶無耶に終わってしまう。そう思って焦っていた。荻内も吉山も真実を語らない。安田を庇っているのであろう。何か安田から真実を聞き出す方法はないものだろうか?
そしてハタと思いついた。荻内か吉山が真実を喋ったと嘘を言ったら彼も焦って本当のことを言うだろう。そんな考えが正木の脳裏に去来したのだ。
実はリスカちゃんも拒食症も家に帰されていた。リスカちゃんはその後東京で一人暮らしをしているらしい。そして正木は二人にも張り付いた。
リスカちゃんは東京で美容師の学校へ行っていた。そこで美容師になるべく勉強するとともに美容院でアルバイトもして腕を磨いていた。
そこへ正木と金村が現れた。二人はリスカちゃんのアパートを探しだし、美容院の休みの日にそこへ来たのだった。
アパートは二階建ての安アパートであったが、東京だからかなりの家賃が必要だろう。そこの木造のアパートの二階にリスカちゃんが住んでいた。
金村がドアを思いっきり叩いた。そして何度もフォーンを鳴らした。
「荻内さん、いらっしゃいますか?神奈川県警の者です」
リスカちゃんは眠い目をこすりながらパジャマのままで出てきた。
「わかりますね。神奈川県での集団自殺の件で伺いたいことがあるのでやってきました」
「何?一体。あの事件はもう終わったことでしょう?」
警察からも両親からも解放されたと思っていたリスカちゃんにとっては正木達の訪問は全くの青天の霹靂であった。
「それが終わってないんだなあ。捜査本部は解散したが、我々には少し気になることがあって調べているんだ」
「警察って暇なんですね」
リスカちゃんは嫌みを言ったつもりだ。
「何だ、その言い方は?俺達も別の事件を追いながら暇を見て捜査してるんだ」
「それはご苦労様。でもみんな自殺で、女と借金と幻覚は殺し合ったんでしょう?」
「それがひっかかるんだなあ。問題は佐山と村沢と甲村だ。佐山は明らかに首を切られて殺されている。自殺ということになっているが、それはおかしい。それから村沢の首を切った奴がいる。彼はもみ合って殺されたんじゃない。それから甲村は絞殺だ。絞殺だと声は出ないはずだ。女の声が聞こえたというのはどう考えてもおかしい。また、その状態で三人がもみ合って死んだというのもおかしい」
「どうしてそんなことがわかるの?それに小野さんはその女の人を呼んだのでしょう?人間だもの、声ぐらい出すわよ」
リスカちゃんは不満げに尋ねた。それは無視して正木は言葉を続けた。
「君は誰かを庇っているんじゃないのか?例えば安田なんかを---。いいか?警察は甘くないぞ。例えば佐山の傷が自分で切ったものか刺されたものかくらいは分かるんだ。どうだ?安田を庇っているのだろう?それから安田が合気道をやっていたことも分かっている。その技を使えば人なんか殺せる」
「鬱先生は関係ありません」
「君は甲村と小野と村沢がやり合う声を聞いたと言ったな」
「はい、声だけですけど」
「もう一度聞く。彼らは殺し合う時に何て言っていた?」
「私はそんなにはっきりとは聞いておりません。ただ、村沢さんが『宇宙人め』と言ったのは聞こえました。また小野さんは『何しやがる』なんて言ってました。その声は鬱、いや安田先生ならはっきりと聞いています」
「彼には何度も尋ねた。同じことばかり言うので嫌になったよ。彼と君と吉山は本当に関係ないんだな?」
「関係ありません。元々死ぬつもりで集まった人達ですよ。殺人なんか調べて何しようと言うのですか?」
「自殺と殺人では違うんだ。そのくらいのことは君だって分かるだろう?」
「じゃあ、誰が殺されたって言うんですか?井上さんは自殺だし、佐山さんも自殺だし、小野さんと村沢さんと女は自分達で殺し合いました。それ以上の何もありません」
「私達は井上は自殺だと確信している。おかしいのは佐山だ。彼の傷はどう見ても自殺者のものじゃない。それから小野は自衛隊員だったにしてはいとも簡単に殺されている。女を殺したのは小野だ。状況からそう判断した。だから佐山と村沢と小野は安田が殺したんじゃないのか?」
「鬱先生を疑っているのですね。でも彼には動機がないわ。元々死ぬ人達よ。なぜ殺さなくちゃいけないの?」
そう。動機がないのだ。それが捜査線上で最も引っかかっているところだった。
しばらくして正木は言った。
「わかった。また来るからな」
「何度来られてもいっしょです」
*
正木と金村は帰りに話し合った。
「おかしいだろう?あの子の態度。確かに誰かを庇っている。恐らく安田を庇っているのだろう。あの子の目も嘘をついている目だ」
「そうですか?嘘を言うようなお嬢さんには見えないのですが---」
「まあ、いい。次は吉山だ。彼女も誰かを庇っているはずだ。もしも証言に矛盾が出てきたらすぐに分かる」
こうして二人は今度は拒食症の家へ行った。
拒食症の家は静岡市の外れにあり、大邸宅であった。何千人もの弟子をもつ華道の家元だから当然であろう。
日曜日、正木と金村は新幹線で静岡まで飛び、拒食症の大邸宅のインターフォンを押した。
「吉山さん、警察の者です。吉山留美さんにうかがいたいことがあって来ました」
「どうぞお入り下さい」
丁寧な対応であった。恐らく彼女の母親であろう。
鉄扉の鍵が自動的に開いた。二人はゆっくりと豪邸の庭へはいる。そして玄関まで行くとリスカちゃんの母親が出迎えてくれた。
「どうぞお上がり下さい。洋間へお通しします。今、娘の留美は少し外出してまして、もう少し経ったら戻ってくると思います」
「どこか遠い所へ出かけたのですか?」
「いえ、犬の散歩です。娘には結婚話が来ておりまして、もうすぐ結婚をするのです。開業医です」
「そうですか。その開業医さんは事件のことを知っているのですか?」
「はい、既に知っています。でも留美を選んで下さったのです。最初は留美に嫌なお見合いを無理強いして、娘はあんなことをやらかしたのですが、今はその開業医さんと実にうまくやっているのよ」
「で、近々ご結婚になるのですね?」
「はい、そうなると思います。娘も相手の方を気に入っているようですから」
「そうですか。だったら私達のような者が来たら迷惑でしょうね」
そう言って正木は金村の方をチラリと見て言った。
「出直そうか?」
すると拒食症の母親は、それを聞いて言った。
「いや、そんなことはありません。相手の方もあの事件のことは知っていますから」
その時、玄関で音がした。拒食症が帰ってきたようであった。
「お母さん、誰か来ているの?」
「刑事さんよ。あのことでまだ聞きたいことがあるらしいの」
吉山留美が洋間へ入ってきた。取り調べの時はジーンズを穿いていたが、今はきちんと洋服を着てスカートを穿き、確かに「お嬢さん」といった出で立ちであった。
「吉山留美さんですね。神奈川県警の正木です」
「金村です」
「あのことでいらっしゃったのですか?知っていることはみんなお話ししたはずなんですが、まだ何かあるのですか?」
拒食症は自分の犯行が表に出たのかと思って全身から血の引く思いであった。そこに畳みかけるように正木が言った。
「あります。あなたは誰かを庇っているような気がして、こうしてやって来たのです」
「(そうか、鬱先生かリスカちゃんが疑われているのか)私が誰を庇うって言うのですか?馬鹿馬鹿しい」
「はっきり言いましょう。安田幸作です」
「鬱先生を?どうしてですか?私はもう病気も治ってこれから新しい生活が始まるの。そんな庇うだなんて。話すことはみんな話したわよ。一体私が鬱先生を庇ったとして、それが何になるって言うんですか?」
「あなたは風呂場で首を切った佐山の第一発見者だと言いましたね。それから小野と女と村沢の声も聞いている。しかし、佐山と村沢と小野に関してどうしても解せないことがあるのです。勿論デリヘル嬢の甲村の絞殺もおかしなところがあるんです」
「井上さんはおかしくないのですか?」
「井上は自殺だ。あんな男を縊死に見せかけることなんて誰もできない。それから小野が女を連れ込んだことは、間違いなく調べがついている。だから小野は女に殺された。女と殺し合いになったんだ。しかし佐山は違う。誰かに殺されたと私は思っている。その上女は絞殺、小野は文化包丁だ。全く殺され方も動機もわからなくてねえ」
「じゃあ、鬱、いや安田先生が三人を殺したっていうのですね」
「我々はそう見ている」
「どうしてそんなことを私に尋ねるの?私は知ってることは警察でみんな話したわよ。それから鬱先生が彼らを殺した動機は何?」
「それがわからないんだ。しかし誰かが先ず風呂場で佐山を殺して、それから村沢も殺された。これはかなりはっきりとしている事なんだ」
「だから安田先生が何のためにそんなことをしたの?」
「そこが謎なんだ。何か知らないですか?」
「いえ、全く何をおっしゃっているのか見当もつきません。それから私、もうすぐ結婚するの。こんな所へ来られたら迷惑です」
「わかりました。ではお幸せに」
帰りに正木と金村はまた話し合っていた。
「三人とも嘘をついている。なあ、そう思わないか?」
「いや、でも嘘をついてどうなるんですかねえ。甲村以外はみんな自殺じゃないですか?勿論小野と村沢は殺し合ったらしいですけど---」
「殺人か自殺かだが、これは両方の入り交じった事件だ」
「捜査本部も解散してしまったし、どうやって安田の口を割らせるのですか?」
「俺にいい考えがある」
「いい考えって?」
「そのうちわかるさ」
*
そしてある日、二人の刑事は鬱の家まで車で出かけた。
「おい、安田、出てきなさい」
「一体どうしたって言うのですか?」
玄関で鬱は訝しそうに正木と金村に尋ねた。
「実は荻内由香子が全てを自供したもので」
これは実は正木の考えた嘘であった。こう言うと鬱が真実を話すと思ったのだ。鬱は思った。
「(リスカちゃん、とうとう喋ってしまったのか。じゃあ拒食症はどうなる?死刑か、よくても無期懲役だ。いや、もしかしたら犯人を俺に仕立て上げたのかな?もしかしたら別の供述をしているかも知れない。とにかく罪は全て俺が被ろう)」
覚悟を決した鬱は拒食症の罪を全て被る決心をした。
そう。ヒッキーと幻覚と女を殺したのは拒食症じゃなくて自分なのだ。
鬱は止めてあった正木の車に乗り込んだ。普通ならパトカーでやって来るはずなのに自家用車であったことを訝しく思いながらも後部座席に腰を下ろした。助手席には金村が座っている。
車の中で鬱は正木に尋ねた。
「荻内さんはどこまで話したのですか?」
「真犯人のことを全て喋った」
「(そうか、拒食症のことを話したのか。いや、もしかしたら違う供述をしているかも知れない。それならば仕方がない。俺が罪を被るんだ)彼女は吉山留美さんのことを犯人と言ったのではないのですか?それとも私が全てやったとでも?」
「いや、それは署でゆっくりと聞く」
こうして車は警察署へたどり着いた。
ここは署内の取り調べ室。鬱はおもむろに話し始めた。
「彼女が何と言ったかは知りませんが、ヒッキー、いや佐山を殺したのは私です。彼とは最初からうまくいっておりませんでした。どうせ死ぬのなら殺してやれと思ったのです。村沢と小野も私がやりました。それから首つりをしたじっちゃん、すみません井上さんですが、彼は自殺です。私はこの集団自殺がばれないように小野が呼んだ女の首を絞めました。村沢と小野は包丁を刺して殺しました。」
「とうとう話したか?ではいきさつを詳しく話してもらおうか」
「はい、じっちゃんはみんなが集まった翌日の夜に首を吊りました。荻内さんが見つけて大騒ぎになったのです」
「佐山信吾はなぜ、どうやって殺した?」
「あいつ、俺と口論になり、どうせ死ぬのなら殺してやれと思いました。そしてあいつが風呂に入っている所へナイフを持っていって首を刺しました」
「彼には抵抗した跡がなかったのだが、抵抗しなかったのか?」
「私はナイフを背中に隠して行きました。彼は呑気に風呂で体を洗っていました。そこを後ろから首を刺したのです。即死だったと思います」
「後の三人は?」
「女を呼んだのは借金、いや小野さんです。女と取っ組み合いになっていました。そこへ村沢さんが来て殺し合いになったのです。それから小野と村沢を刺した包丁は私がホームセンターで買ってきたのです。
先ずは取っ組み合いになっていた小野の背中を刺しました。それから村沢の喉を切りました。
これが事実です。
リスカちゃん、いや荻内さんと拒食症、いや吉山さんには口止めしました。あいつら、『やっぱり死にたくない』なんて言って抜けようとしたので殺したのです」
「甲村は?」
「事件が発覚したらまずいと思った私が首を絞めて殺しました。拒食症、いや吉山さんは何もやってません。荻内さんも無実です」
「誰も吉山留美や荻内由香子のことなんか聴いてない。なぜ彼女らの名を出す?」
鬱は一瞬言葉に詰まった。リスカちゃんは拒食症のことを喋ったのではなかったのか?では一体なんて話したのか?鬱は正木に尋ねた。
「荻内さんは一体何を話したのですか?」
正木は不敵な笑みを浮かべて信じられないことを口にした。
「何も喋ってないよ」
「で、では、みんな嘘だったのですか?」
「そうだ。その嘘にあなたはまんまと乗せられたわけだ。ところで吉山留美と荻内由香子は何の関係があるんだ?」
「いや、すみません。荻内さんと『ばれたら吉山のせいにしよう』と話していたのです」
「あんた、とんでもない教師だったんだな」
「はい、すみません」
鬱は悔しさでいっぱいになった。まんまと正木にいっぱい食わされたのだ。しかしこれで拒食症は疑われなくなった。これでよかったんだ。そう何度も自分に言い聞かせた。
*
この集団自殺事件はまたもやマスコミで取り上げられた。じっちゃん以外の四人は鬱が殺したということで「自殺屋の殺人教師」として新聞の一面を飾った。
鬱は拘置所に入れられて裁判を待つことになった。四人も殺したのだ。死刑は免れないであろう。よくても無期懲役だ。まあ、実際は拒食症が殺したのだが---。
そんな頃、静岡の拒食症の家では盛大な結婚式が行われることになった。拒食症が嫌がっていた結婚相手ではない。一応は華道の生徒ではあったが、開業医であった。凜とした顔立ちで背も高く、筋骨もあった。拒食症の両親は拒食症に家元を継がせようと考えていたようであったが、例の自殺事件によってあきらめたようであった。そして拒食症はこの男の籍に入ることを望んだ。今までのことを清算しようとしていたのであった。だから、あの集団自殺事件のことは忘れようとしていた。
しかし、メールを通じてのリスカちゃんとの通信は途絶えていなかった。
結婚式は東京の教会つきの大ホールを借りて行われた。披露宴には百人近い参列者があった。しかしリスカちゃんや鬱は呼ばれなかった。拒食症は、例の事件のことは忘れてしまったかのようであった。
東京の富裕層の集まるタワーマンションの高層階で彼女の新しい生活が始まった。
そんな折、久々にリスカちゃんからメールがあった。
「拒食ちゃん元気ですか?私は母さんや『あの男』から離れて東京で一人暮らしをしています。渋谷の美容室で見習いとして働いています。生活は楽じゃないけど、楽しいです。ところで、鬱先生のことだけど、もうニュースで知ってると思いますが、警察に捕まったそうです。拒食ちゃんをかばって殺人はみんな自分がやったと言ってるようですよ。そのことでお話がしたいのです。今度どこかで会えませんか?」
返事がきた。
「いいですよ。会いましょう。でも会うのはこれで最後よ」
こうして二人は都内の喫茶店で待ち合わせた。
先ずはリスカちゃんがやってきた。自殺事件の頃は全く化粧っ気のなかったリスカちゃんであったが、髪の毛を茶髪に染め、派手なワンピースを着こなしていた。
リスカちゃんがコーヒーを注文してしばらく経つと拒食症が入ってきた。ジーンズにTシャツといった以前の格好とは違い、どう見ても富裕層の奥様という出で立ちであった。ロングスカートとジャケットを綺麗に着こなしていた。
「お待たせしてごめん。あ、私もコーヒーで」
そこには以前の拒食症の面影はなかった。
彼女が席に着くとリスカちゃんは早速話を切り出した。
「鬱先生があなたの身代わりになっちゃった。どうする?」
「ごめん。鬱先生には悪いんだけど、私もうあのことを思い出したくないの」
「そう。私、鬱先生に面会に行こうと思っているんだけど、一緒に行かない?」
拒食症は、リスカちゃんが鬱の身を案じて拒食症に自首を促しにきたと思っていたのだが、そうではなかったようなので一安心した。しかし、鬱が自分の罪を被ってくれたのなら反って好都合ではないかと思った。殺人者の女は結婚が決まって性格まで変わってしまっていたのだ。そして思いもよらない一言を発したのであった。
「私、もうあの事件とは関わり合いたくないの。もう結婚もしてるのよ。鬱先生には、そりゃ悪いとは思うけど、今は私は私の人生があるの。もう会わないでくれる?」
リスカちゃんはこの言葉に呆れるとともに沸々と怒りが湧いてきた。
「(鬱先生が死刑になってもそれはあなたのせいなのよ。それを自分だけ幸せになろうなんて許せない。拒食ちゃんってこんなに冷たい人だったかしら)」
そう思っていると拒食症はたたみかけるように言った。
「リスカちゃん、今私のことを冷たい女だと思ったでしょう。本当だったら真実を知ってるあなたを私は殺していたかも知れないのよ。でもそんなことしない。それから私とあなたが会っているところなんかをマスコミに見られたら困るの。分かるでしょう?お話はメールだけにして」
リスカちゃんは涙目になって何かを訴えたいようであったが、やめた。そして言った。
「拒食ちゃん、変わってしまったのね」
「そう。私は変わったの。でも恨まないでね。これが私の生き方なんだから」
「わかった。じゃあ、私一人で鬱先生に面会に行ってくる」
「私のことは警察に言うつもり?」
「いや、そんなことは絶対にしない。鬱先生もそのことは分かっていると思う」
こうしてリスカちゃんは鬱の入っている拘置所まで面会に出かけた。
*
リスカちゃんは先ず拘置所に電話を入れて鬱が入っていることを確認した。そしてお弁当と手紙を持って拘置所の重い扉を開いた。守衛の人に「面会です」と告げて中に入った。エレベーターで三階まで行って、面会所と書かれた部屋の前に立った。中に誰かいる。リスカちゃんは「安田幸作先生に面会に来ました」と用件を伝えると、中にいた制服姿の係官は「はい、面会時間は三十分ですよ」と事務的に伝えた。
制服姿の男が出ていくと、鬱と先程の制服姿の係官が入ってきた。鬱はガラス越しに言った。
「よく来てくれたね。リスカちゃん」
「はい。でも鬱先生、どうして自白したのですか?それから拒食ちゃんをかばったのですね」
「そんなことは君が知っている通りだ」
「あ、鬱先生、これお弁当と手紙です」
「ありがとう」
「鬱先生、拒食ちゃん結婚したのよ。それから性格も全くかわっちゃった。本当にいいの?」
「ああ、これでよかったんだ」
話の最中、先程の制服姿の男はしきりにメモを取っていた。ここで何かまずいことを言えばみんな記録されてしまう。そう思ったリスカちゃんは終始小声であった。
「鬱先生、私、あの時先生に犯されそうになったけど、本当は先生のこと好きだった。今でもよ」
「ありがとう。でもここで拒食症の話は絶対にしてはいけない」
「うん、わかった。とにかく手紙も入っているから読んでね」
「ああ」
「何か欲しいものはないですか?」
「特にない。本当はタバコが欲しいんだが、ここは全て禁煙だからね」
「私のお弁当を食べて下さい。それから手紙も読んで下さい」
「分かった。それからきついことを言うようだが、ここへは二度と来ないでほしい」
「え?どうして?」
「君はまだ未成年だ。こんな所へ来るものじゃない。それから拒食症のことが分かったら大変だ。彼女は幸せになったんだな?」
「ええ、でも拒食ちゃんってずるい。そうは思わない?」
「いや、これでいいんだ。全て終わったんだ」
こうして瞬く間に三十分が経過した。リスカちゃんは名残惜しげに面会室を後にした。
*
鬱は自分の部屋へ戻ると早速リスカちゃんの手紙を読み始めた。
「前略、鬱先生。
あれから一年が経ちましたね。結局じっちゃんもヒッキーも幻覚も借金も死んで、私達三人だけになりました。私はお母さんとお父さんの元を離れて東京で働いています。美容師の仕事を覚えているところです。お金はないけど、今、とても幸せです。あの時自殺しなくてよかったと思っています。お母さんや義理のお父さんとはほとんど連絡はありません。ただ、その後拒食ちゃんとだけはメールのやり取りをしていました。
拒食ちゃんは静岡の実家へ戻り、いい人と結婚しました。もう昔のことは忘れてしまったようです。病気も治ったって書いてました。彼女は全く別人になってしまいました。今ではお医者様の奥様です。だから鬱先生には彼女のことをかばったりして欲しくなかったです。でも、それが鬱先生の気持ちだったら仕方ないですね。
あの時集まった七人は何か日本の縮図のような気がします。
先ず、じっちゃんは銀行の貸し渋りによって資金繰りがつかずに首を吊りました。私にはよく分からないんだけど、バブルがはじけてからの失われた二十年の間に日本は変わってしまったようですね。昔はじっちゃんのような会社には銀行はいくらでも融資してくれたようです。それからヒッキーですが、今や引きこもりは百万人に達しているそうですね。鬱先生は学校の先生だったから分かると思うんですが、病んでいるのは彼らではなくて、派遣が全社員の四十%で、正社員になって鬱病になって自殺するか、派遣やアルバイトに甘んじるかしか選択のないこの日本なのではないでしょうか?日本では自殺者は毎年三万人もいるそうですね。また、幻覚は考えられないような残業で精神を病んでしまいました。会社で寝泊まりしていたそうですね。日本は先進国で最も生産性の低い国だと聞きました。一生懸命仕事をしても、それが業績にはつながらないそうですね。
それから私なんですが、明らかに虐待の被害者です。母親からの身体的・精神的虐待や義理の父親からの性的虐待を受けてきました。また、学校も病んでいます。私は不登校だったし、教師の鬱病も多いと聞きました。また、不正な闇金も横行しています。借金はその被害者ですよね。拒食ちゃんは文字通り拒食症でした。
この国ではみんながみんな競争しているのです。そして競争に負けた人間に待っているのは孤独です。もう誰からも相手にされないという孤独地獄です。
私は鬱先生のことが今でも忘れられません。かといって拒食ちゃんにも死刑にはなって欲しくありません。今の幸せを手放さないでいてほしく思っています。鬱先生も拒食ちゃんも助けられる方法はないのでしょうか?
鬱先生は死刑になるのですね。それまでお体をお大事にして下さい。先生のことは一生忘れません。
追伸
私、本当に鬱先生のことが好きでした。
荻内由香子」
(九)真実
やがて地裁で裁判が始まった。証人としてリスカちゃんも呼ばれた。また傍聴人の席には拒食症の姿があった。
裁判官・検事・弁護士・裁判員などが入廷する。いよいよ鬱に対する裁判が始まった。
最初に罪状が読み上げられ、検事が死刑を求刑すると言うと鬱は顔色一つ変えずにそれを聞いていた。
そして弁護士が証人審問を要請した。証人はリスカちゃん、荻内由香子であった。宣誓書を読み上げたリスカちゃんに裁判長は言った。
「先程の罪状に間違いはありませんか?」
「あります」
一同が動揺し、どよめきが起こった。
「では、何が違うのかおっしゃって下さい」と裁判官が言うとリスカちゃんは語り始めた。
「鬱先生、いや安田さんは何もしていません。三人はみんな自殺です。先ず最初に佐山信吾ですが、お風呂場で頸動脈を切って死にました。それを吉山留美さんが発見しました。それから村沢さんと小野さんは取っ組み合いの喧嘩になっていました。女の人は小野さんが首を絞めて殺したようです。この集団自殺のことが表沙汰にならないように殺したのです。そして最初に村沢さんが『宇宙人め』と言って小野さんを刺したようで、その後、村沢さんは頸動脈を切って死にました。鬱先生、いや安田先生は誰も殺してはいません。彼は死刑になりたくて嘘をついています」
「裁判長」検事が手を上げた。
「検察官」と裁判長が言ったので検事は話し始めた。
「それはおかしいです。先ずは佐山信吾ですが、首がえぐれるように切れていました。自殺ならばそんなことはできません。誰かがやったのです。そして、そのナイフは被告がホームセンターで購入したことも、ホームセンターの店員の証言がとれています。また、小野祐輔ですが、取っ組み合いになったのなら背中を刺されるというのは不自然です。さらに村沢孝太郎ですが、これも被告が殺したことを自供しております。勿論自供だけでは証拠になりませんが、同時に彼が殺されたのも台所の文化包丁によるものです」
その途端に傍聴席にいた拒食症が叫んだ。この一言で裁判は泥沼化するように思えた。そんな一言だった。
「私です。鬱先生は無実です。佐山も小野も村沢も女も私が殺しました!」
「傍聴人は静かに。退廷を命じますよ」
裁判長が言ったが、この一言で裁判は大混乱になった。
「鬱先生を犯人にすることはできません。あの人は私をかばっているのです!お願いです。私を、そう、私を捕まえて下さい。みんな私が殺しました!」
一同がざわついた。一体真実は何なのだろうか?
裁判は休廷になった。そして検察は改めて拒食症を取り調べることになった。
*
拒食症の幸福は、わずか数ヶ月で終わってしまった。彼女が全てを打ち明けたのである。鬱は釈放された。
その三年後、北海道の小さな町で暮らす夫婦がいた。夫はピアノ教室を開いていて、妻は近くの美容院で働いている。鬱とリスカちゃんである。二人には赤ん坊も生まれていた。その赤ん坊の世話は鬱がしていた。年の差婚であるが、仲のいい夫婦だった。
「あなた、あれからもう何年になるのかしら?」
「そうだなあ。何か遠い昔のような気がする」
「私も。でも拒食ちゃん、どうなったのかなあ?」
「多分死刑だな。可哀想に」
「でも、私死ななくてよかった」
「ああ、俺もだ」
「拒食ちゃん、本当に死刑になるのかしら?ねえ、一度会いに行かない?」
「俺も会いにいきたいけど、彼女の方が嫌がるんじゃないか?あのことは忘れよう」
「うん。でも拒食ちゃんにはどうしてももう一回会いたいわ。死刑になる前に」
「そうか。でも俺は何を話していいのか分からない。せっかく俺が彼女をかばってやったのにあんなこと言うなんて---」
「いや、これが彼女の本当の気持ちだったと思うよ。彼女、やっぱり変わってなかったんだ」
「変わってくれていた方がよかったのに---」
「あ、雄介が泣いている。あなた、おしめ取り替えて」
「ああ、わかった」
この二人にはこれからも長い日常が続くのであった。
(十)最後の面会
拒食症には死刑の判決が下りた。そして東京拘置所に勾留されることになり、法務大臣の死刑執行を待つ身となった。
そこへ突然、鬱とリスカちゃんが子供を連れて面会に来たのだ。
「吉山留美さんを呼んで下さい」
面会室でそう告げると、係官は「しばらく待って下さい」と言った。
拒食症が現れた。
「鬱先生、リスカちゃん、来てくれてありがとう。結婚したのですね。それから可愛い赤ちゃんも」
何か沈んだ声であったが、無理矢理快活さを見せようとしていることがわかり、鬱もリスカちゃんも言うべきことを失ってしまったようであった。鬱が言った。
「どうして裁判であんなことを言ったんだ?俺が犯人になることで全て丸くおさまっていたのに」
一呼吸置いて拒食症は語り始めた。
「いえ、そんなことはできません。鬱先生に罪を被せて私だけがのうのうと生きて幸せになることなんてできません」
そこへリスカちゃんがたたみかけるように言った。
「私、拒食ちゃんってずるいって思ってた。でもそうじゃなかったので安心した。でも本当にこれでよかったの?」
「私は人殺しよ。これは当然の報いよ」
鬱が言った。
「君はどうして今の幸せを捨ててしまったんだい?」
少し思案してから拒食症は言った。
「『幸せ?』幸せって何かしら?私はお金持ちの開業医と結婚することよりもお二人が幸せになることの方が幸せなの」
「君は死刑になるんだね。本当にそれでよかったのか?」
「はい。でも死刑は当分延期。なぜなら、ここで私は子供を産むの。開業医さんの子供よ。でも開業医さんはその子供の受け取りを拒否したままよ」
リスカちゃんと鬱はしばらく思案した。奇妙な間が空いた。そして唐突に鬱が切り出した。
「その子は男の子かい、女の子かい?」
「女の子よ」
「じゃあ、俺達が引き取る。いいね、リスカちゃん」
リスカちゃんは黙って頷いた。拒食症はしくしくと泣き出した。
「二人とも本当に優しいのね。いいの?今目の前にいる子も育てなくちゃいけないのでしょう?」
「一人も二人も一緒だよ。その子はこの子の妹にする」
「ありがとう、本当にありがとう」
その後、鬱とリスカちゃんは拒食症の子供を引き取った。拒食症の処刑については発表されなかった。
その十年後、拒食症の母親が北海道の二人が住むアパートへやってきたのだ。
(十一)新しい事実
「失礼します。安田さんのお宅ですか?」
老女が鬱とリスカちゃんのアパートを訪ねてきた。上品な老人で、白髪が交じっていたが、それがかえって上品さに上塗りをしていた。和服であった。
リスカちゃんが出た。
「はい、安田ですけど、どちら様ですか?」
「吉岡留美の母でございます」
「ああ」
リスカちゃんは驚きを隠し得なかった。そして鬱を呼んだ。
「あなたあ、大変、拒食ちゃんのお母さんがいらしているわよ」 奥の部屋から鬱が出てきた。
「これはこれは、遠い所をよくいらっしゃいました。まあ、中へ」 拒食症の母親は中へ通された。中には二人の子供がいた。子供達は無邪気にはしゃいでいる。
「まあ、狭い所ですがお座り下さい」そう言って鬱は座布団を差し出した。リスカちゃんがお茶を持って来た。そのお茶に一口だけ唇をつけると、リスカちゃんのお母さんはおもむろに語り始めた。 「実は娘の死刑が執行される前に病気で亡くなりました。これは最後に書いたあなた方への手紙です」
そう言ってお母さんは手紙を差し出した。
「読んでもいいですか?」
「勿論。あなた方への手紙ですから」
鬱は封筒を開き、読み始めた。
「あなた、声に出して読んで。お願い」
「ああ、わかった」
手紙にはこう書かれていた。
「前略
リスカちゃんと鬱先生へ。
私は死刑になります。でも、これでいいんです。実は私はどっちみち長くはない命だったのです。
私はリンパ腫にかかっていました。ステージ4で、転移も見られるということでした。警察病院でそのことを知りました。だからもう長くはありません。死刑の執行が早いか寿命が尽きるのが早いかだけのことです。
鬱先生は最後まで私を守ろうとしてくれました。本当に有り難うございます。リスカちゃんも友達でいてくれて有り難うございます。
実は、お嬢様育ちの私にはお二人が羨ましかったのです。あの『家』の中でもお二人はずっと一緒だったのですから---。
私は余命幾ばくもありません。死刑になって死んでも、病気で死んでも同じです。でも、今までのことを考えると死刑になって死ぬのが一番だと思っています。
日本は先進国なのに毎年三万人が自ら命を絶ちます。あの『家』に集まった皆さんはそんな三万人のうちの七人でした。
私も含めてなんですが、この国には若者の未来はありません。
じっちゃんの遺書に「みんなまだ早い。俺は十分に生きた」と書いてありましたが、私達は生きたところでどんな世界が待っているというのでしょうか?
教師の鬱病、虐待によるリストカット、闇金からの借金、ブラック企業に勤めたことによる精神疾患、引きこもり、拒食症や過食症、これらが私達の未来です。
私は人を殺した当然の報いとして死刑になりますが、病気も抱えることになりました。思えば、私が一番恵まれた家庭で育ってきたのですね。
でも、殺人者は殺人者です。このまま私がリンパ腫でのうのうと死ぬことは許されないことだと思います。私は死刑になります。きっとなります。
私の葬儀はいりません。すぐに焼いて灰にして下さい。
鬱先生、リスカちゃん、本当に有り難うございました。きっと幸せになって下さい。
それから子供のことをよろしくお願いします。
吉山留美」
拒食症のお母さんも鬱もリスカちゃんも泣いていた。
そこへ、拒食症の子供である女の子が近づいて来て言った。
「ねえ、このお婆さんだーれ?、ねえ、だーれ?」
拒食症の母親は孫を抱きしめた。すると、そこでも女の子は湧いてくる疑問をぶつけた。
「お婆さん、誰?一体誰?ねえ、誰なの?」
了
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