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最近ずっと、なんとなく、調子が悪い。
仕事では些細なミスが続くし、付き合って半年の彼氏は、デートをドタキャンされて大喧嘩して以来連絡がないし、休日は出かける気にもならなくて寝てばかり。
こんなに寝ているのに疲れは取れないのが不思議で、化粧ノリが悪いからと奮発して買った化粧水は今朝洗面所で瓶を落として半分をこぼしてしまった。
そんなわけで、今度の連休はパワースポット巡りでもしてみようと思ってる、という話をしたのが、ランチ中の雑談、つい五分前。
社員食堂で一番好きなとんかつ定食なのに、肝心のカツがほとんど脂身だったせいで胃が重い。
胃の衰えもパワースポットでなんとかなるだろうか。
そんなことを考えつつ祐美がひたすらキーボードを叩いていると、背後から声をかけられた。
「斎藤さん」
「はい」
振り返ると、田村先輩が書類を差し出している。
「すいません、私また何かミスしましたか」
「違うわよ。さっきの話だけど、パワースポットよりまずはお祓い課行ってきたら。部長には話つけてあるから」
「お、お祓い課?」
「四階フロアにね、ものすごく由緒ある寺だか神社だかの娘がいるの。はいこれ申請書ね」
渡されたのはお祓い課宛の申請書類。
「こんなのあるんですか」
「そりゃあ知る人ぞ知るよ。誰が好き好んでお世話になりたいと思う?」
「まあ、そうですね」
お祓いなんて言葉が頭をよぎるのは生活が上手くいってない時だし、まさに今がそう。
「あなたの場合、たしかに最近凡ミスが多いもの。あ、怒ってるわけじゃなくてね、お祓い課で解決するならしたほうがいいじゃない。残業もしなくて済むし」
「…お世話かけます」
そう、何を隠そう、数々の凡ミスを一緒に対処してくれているのが田村先輩だ。
うさんくさい、などと断ることなどできるはずもない。
名前と所属の部署名、部長の印鑑をもらって、言われたとおり四階フロアへ向かう。
一番奥の手前のドア。
お祓い課、と手作りのシールラベルが貼ってあるドアを叩いた。
「どうぞ」
女性の声。
恐る恐るドアを開けると、お祓い課というからには神社仏閣のようなのだろうという予想とは違った。
デスク一台、テーブルを挟むようにソファーが二つ。
部屋の隅にキャビネット、その上にコーヒーメーカーが置いてある。
窓がないせいか、ドアを閉めると少し息苦しい気がした。
「失礼します、経理アシスタントの斎藤祐美です」
「はい」
安っぽい音を立てて椅子から立ち上がり、こちらに向かってくる。
若い。
お祓いという言葉でイメージしていたのはお年寄りの巫女さんだったけど、二十代半ばくらいで、水色のブラウスにフレアスカートというオフィスカジュアルな服を着ている。
「あの、お祓い課と聞いてきたのですが」
「その通りです。ちょっと立て込んでいるので、この場で失礼」
突然、祐美の肩を掴んだ。
「…肩が」
「え、ああすごく凝るんです。一日中エクセルみてるので…」
「違いますよ、ここ」
ぐっ、と鎖骨の下あたりを押される。
爪が食い込んだと思うほど痛くて、思わず悲鳴をあげた。
「い、痛い」
「はいオッケー」
「えっ」
ぱっ、と手が離れる。
その手は、爪が短くカットされて、鮮やかなオレンジのネイルが施されていた。
食い込むほど長い爪ではない。
あの痛みは一体、とぽかんとしていると、女性は渡した書類にさらさらと署名している。
「斎藤さん、最近彼氏と何かありました?」
まだ塞ぎ切っていない傷跡を撫でられて、祐美はヒッと身を固くした。
デートのドタキャンからの大喧嘩、それからというもの、メッセージの一つもないこと。
これは振られたも同然だと思っていただけに。
「な、なんでわかったんですか?」
「その男、すぐ別れたほうがいいですよ。女性が憑いてたので」
「えっ、憑いて…」
「二股じゃないですかね?じゃあこれで、はい書類」
ハンコを押した書類を返されて、唖然としながら受け取った。
緑、と一文字が、まだインクの乾かないふちの中ではっきりと目に焼き付いた。
お祓い課から自分のフロアに戻るまでのわずかな時間で、祐美は彼氏に別れのメッセージを送った。
既読になったら即ブロック。
履歴も全部消した。
妙にすっきりしたのは、肩だけではない。
その日はミスもなく残業にもならず、残りが半分になった化粧水をふんだんに肌に塗り込んで、久しぶりによく眠れた。
翌日、田村先輩とランチを食べながら、お祓い課での報告をする。
今日のとんかつは当たりだ。
揚げたて、しかも脂身が少ない。
「今日の午前も調子良かったし、今日も定時ダッシュ決めれそうね」
「頑張ります。ところで、なんなんですか?お祓い課って」
田村先輩はチキン南蛮の最後の一切れを大事そうに最後に残して、味噌汁を飲み干す。
「さあ?色んな噂はあるけど…先代社長が、入社面接に来たみどりさんに面接中に除霊してもらって即採用したとか」
「先代社長何に憑かれてたんですか」
「他にも、このビルが曰く付きだから一番やばい部屋の番人してるって噂もあるし」
「このビル自体が!?」
「去年定年した人が新人の頃から見た目変わってないとかなんとか」
「大ベテランじゃないですか」
「どこまで本当かわからないけどね、何聞いてもはぐらかされるんだって。うっかりしたこと聞いたら呪われたりしそうだし、本当に知る人ぞ知る、なのよ」
「そんな人のこと、よく知ってましたね」
田村先輩は曖昧に笑うと、ご飯も味噌汁も小鉢も食べ終わったトレイの上で燦然と出番を待つチキン南蛮の最後の一切れを口に入れた。
好き好んでお世話になりたくない、という田村先輩の言葉を思い出して、それ以上聞いてはいけないと、祐美もとんかつの最後の一切れを口に入れた。
当たりのはずのとんかつも、最後の端だけは脂身から逃れられなかった。
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