29 星の王子様(前編)

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 鬱蒼と生い茂り、氷雪を纏った大木に抱かれるように建っていた「グスコーブドリ」。  切妻屋根のログハウス風で、こぢんまりとして見えたが、外から見た印象より中は広々としていた。  明菜が先頭に立って館内案内がてら客室に通してくれたので、ひとまず男性陣の荷物は一部屋にまとめて置いて施錠した。  女性一人のエレナはともかく、男性側は二、三人ずつに分かれることになるが、部屋割りを特に決めていなかった為だ。 (樒さんも増えているし。なぜか)  灰色の髪を適当に結んでいるのも、耳にいくつもピアスをつけているのも、初めて見た。  「セロ弾きのゴーシュ」で会うときよりも若く見える。ざっくりしたベージュのセーターがよく似合っていて、肩幅の広さが知れた。彫りの深い綺麗な顔には、不釣り合いな無骨な眼鏡。わざと間の抜けた印象にしているようにも感じた。  飴色の光沢を放つ板張りの廊下を抜けて、ラウンジへ向かう。  ダイニングテーブルがいくつか置かれていて、食事はここでということ。その奥には談話室のようなスペースがあり、そこだけ天井が吹き抜けになっていて、柵に囲われた黒いストーブから長い煙突が伸びていた。  周りにはいくつかゆったりとした一人掛けソファやローテーブルが置かれている。  壁は半円状でカーブを描き、全面が窓で、雪の照り返しもあるせいかほの明るかった。 「蜷川、リス」  奥に向かって歩き出したところで、樒に肩を掴まれた。ストーブの向こう、窓の外に顔を向けている。 「どこに?」  全然わからない、と目を凝らしてみるも見つけられない。 「いたよ」  肩の横、至近距離でにこりと微笑むと、樒は笑みの残像を残して、窓際のベンチ状になっているところに歩いて行った。大きな体を持て余すように乗り上げると、足の一本はだらりと垂らし、片方の膝を抱えて窓に額を寄せる。  リスを探しているのだろうか。  寒そうだが、座布団が置いてあったので、一応席ではあるらしい。  由春や聖、オリオン、エレナと三々五々あとに続いて適当に居場所を定めていた。  一番後ろを歩いていた香織と明菜は、のんびりと話している。   「オーナーが私の叔母夫婦なんです。今少し出かけていますが、すぐに戻るはず。私はここで住み込みで働いています。ウィンタースポーツのシーズンだから、普段は結構忙しくて。春になったら違うこともしようかと考えていましたが」  久しぶりの再会ということで、近況報告のようだ。 「そうだね。ここ、周り何もないでしょ。市内に戻ってきたら。探せば仕事あると思うよ」  香織が穏やかな声で応じている。昔馴染みの気安さ。心愛に対する態度と、変わりないように見える。  コートと帽子を脱いできた明菜は、不揃いのボタンがアクセントの黒のセーターに、厚手で灰色のラップスカートを身に着けていた。足元は館内用の布製のスリッパ。香織と並ぶと、小柄に見える。 「仕事……。一度身体を壊しているせいか、親が嫌がっちゃって。働かないわけにはいかないでしょって言っても、事務職でも探しなさいの一点張り。パンを焼いて自分一人だけで出来るようなお店をするとか、ネット通販も考えたんだけど、たぶんまた働きすぎてしまいそうで。難しいですね」  さらさらとした、水の流れのような声だ。尖ったところもなく、自嘲や謙遜といった癖もなく、聞きやすい。  香織は真剣な表情で耳を傾けていたが、その顔を見上げた明菜が、ふっと笑みをこぼした。 「香織さん、ちょっと変わりましたね。なんだろう、大人になった感じ」 「ん? 何言ってんの。俺はあのときもう成人していたけど? ずーっと大人だよ」  微笑み返した香織に、明菜は声を立てずに噴き出した。 「うん、知ってます。だけど、ずいぶん落ち着いたように見えます。そうだ、椿屋を継いで当主になっているんですよね。おじい様のことは……」 「年も年だったから、いつ死んでも不思議はなかったし、そういうもんだと思ってる。おかげさまで、なんとか潰さないでやってるよ」  その座を譲り受けたというより、急死に近い状況で、なんとか引き継ぎを済ませた形だ。事情を多少なりとも知っていれば、社長就任おめでとうございますとも気軽には言えない。  会話に混ざらないなりに聞いている伊久磨に気付いたように、明菜が視線を向けてきた。 「蜷川さん、ですよね。はじめまして。心愛から話は聞いているので、すぐにわかりました。春さんのお店の、背の高いひと」  ぺこりと頭を下げられて、伊久磨もそれにならう。 「ご丁寧にありがとうございます。蜷川です。今日はお世話になります」  連絡を取り合っているのなら、「海の星」のメンツについては把握していそうだ。 「心愛は東京で苦労して、一時期性格もすごくきつくて。今は落ち着いてきたかなとは思っているんですけど、仕事だとやっぱりきついと思うから……えっと」 (気にしてる)  短い言葉の中に「きつい」が二回もあって、伊久磨は目元を緩ませた。 「社歴は俺の方が長いですけど、良い先輩だと思っています。ひとより気が付くひとだから、周りが気付かないとイライラしちゃうことはあるみたいですけど。体調のせいもあるかなって。今日は出先で何かあると困るからって一緒には来ていませんが、普段は仲良くしていますよ」 「はい。蜷川さんのことは頼りにしているって言ってました」  光を湛えた黒目で見上げられて、伊久磨はまっすぐ見つめられずに、視線を少し逃がした。 (岩清水さんが振り回せなかったのがわかる気がする。大切過ぎて手元に置けないんじゃないだろうか)  今までの「海の星」であれば、どうしても無理させてしまっただろう。それだけでなく、仕事を一緒にするというのは良い面も悪い面も互いにさらけ出さざるを得ない。 「今度、お店にどうぞ」  言葉少なく告げると、明菜はおっとりと笑った。 「春さん、料理ずいぶん変わったみたいですね。行ってみたいです。そうだ、皆さんにお茶を用意しますね。今日は他のお客様もいないので、寛いでください。大浴場と貸し切り露天風呂があるんですけど、好きに使ってくれて大丈夫です。女性がいらっしゃるので、露天風呂を使うときだけお互い気を付けてくだされば」  用件を告げて、カウンターの向こうにぱたぱたと歩き去ってしまう。  黒髪が流れる。背中は小さかった。  見送っていると、香織が肩を寄せてきた。 「あの子、綺麗になったよ。顔かたちじゃなくて、透明感があるというか。やっぱり一度身体を壊したせいか、すごく元気って感じには見えないけど。顔色とか」  香織に視線を向けないまま、伊久磨は極めて抑えた声で尋ねた。 「岩清水さんと何かあった?」 「……無くはなかったんじゃないと思う。はっきり知らない。だけど接点だった岩清水の最初の店『ボナペティ』は終わりを迎えて、岩清水は海外に行った。明菜ちゃんは地元で一年調理師学校行ってから東京だったんじゃないかな。二人のあの様子だと、たぶん、ずっと会っていない」  「海の星」で客として見た覚えはない。プライベートでも会ってなければ、十年近く顔を合わせていない可能性もある。 (いや、十年は大げさか? だけど……)  もし「何かあった」り、今でも何かあるとしたら、二人の自制心に気が遠くなる。  ずっと離れていて、どこにいるかも知っているのに、会わないでいられるものなのだろうか。  人間なんて、いつ何時死ぬかもわからないのに。 「座ろうか」  香織から促されて、歩き出す。  由春はストーブ前の床、絨毯の上に胡坐をかいて座っていた。休日はぼんやりしているところもあるひとだが、今日はその傾向が強い。引退した猫のような後ろ姿だ。猫が何を引退するのかという話ではあるが。 「岩清水さん。明菜さん、お茶をいれてくるって。オーナー夫妻は留守だとか。この人数分ひとりで持ってくるの大変そう。俺、手伝おうかな」  お前が行けよ、と喉元まで出かかっていたが、ぐっと堪えてわざとらしく言ってみる。 「あ、じゃあ私行きます!」  全然違うところで被弾したエレナが、ロッキングチェアから颯爽と立ち上がった。 (いやそれはなんか違う) 「藤崎さんはそのままで。慰労にならないので。座っててください」  両手で軽く制するように断りを入れてから、立ち上がる気配もない由春を見下ろす。 「『それにしても遅いなぁ。様子見てこようかなぁ』」  聞こえるように言ってみた。  一人掛けソファに座っていた聖が、口の動きだけで「棒読み」とケチをつけてきていたが、(役者ではないので)と伊久磨は胸の裡で返して由春のそばに片膝をついた。 「いいですか。行ってきても。俺が」  ストーブのガラス窓にちらちらと見え隠れする炎に視線を向けていた由春は、無言でうっそりと立ち上がった。 「見て来る」 (行った)  ここまでお膳立てしないと動かない由春というのも珍しい。初めて見た。  適当な空きがなかったか、或いは誘われたのか、香織はオリオンと二人掛けに隣り合って座っていた。  伊久磨と目が合うと「放っておけばいいのに」とでも言わんばかりに目を細められる。 (俺お節介かなぁ。だけどあれは放っておけないと思う。こう……むずがゆい)  むずがゆ過ぎる。  気を取り直してどこかに座ろうと視線をめぐらすと、窓に張り付いている樒が目に入った。 「リスいます?」  立ち上がって歩み寄り、窓の外を見てみる。 「うん。いたよ。可愛(かー)いいの」  長い指でどこかを指し示している。その通りに目を向けると、雪の中を走り去る大きな尻尾だけが見えた。 「ほんとだ。見えました。可愛い」 「小さいのに一生懸命で、可愛い」  目を向けてきた樒に微笑みかけられる。 「俺と樒さんからしたら、大体小さい生き物ですけどね。みんな可愛い」  話しながら、樒の横に座り、視線はカウンターの方へと向けた。  あの様子だと、由春はこの後も動かないだろう。  次は何をけしかけようかな、と思案した。  その機会は、伊久磨が作るまでもなく、すぐに発生した。
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