47 ミュゼ・ステラマリス

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「自分の出産のときのことなんか覚えてないのよ、何年前だと思っているの」  飲料のペットボトルを両手に抱えて母親が姿を見せたとき、横たわったままの心愛は自分でも信じられないくらいにほっとした。けれど、痛みのせいでうまく言葉にならない。 「痛くて、喉がかわいた……」  涙ぐんでそれだけ言うと、母の信子(のぶこ)は水のペットボトルを開けて、口元に近づけてくれる。 「ストローがあると良いんだけど、ごめんなさいね、何もないわ」 「ううん……大丈夫。飲み物があれば」  痛みに悶えながら、心愛は懸命に飲む。ひりつく喉に、冷たい水がしみこんでいった。  ひといきついてから、陣痛を表しているらしいモニターを見ている信子に、なんとか声をかける。 「死ぬかと思った」 「死んでる場合じゃないでしょ、これから子育てよ。あんたが選んだんだから」  大変さと辛さを訴えようにも、流される。こんなときくらい労ってほしいという気持ちもあるが、同時に、労ってもらえない道を自分が選んでいるのもひしひしと感じた。 (来てくれる母親がいるだけマシで、住ませてもらえる家があるだけありがたくて。復帰できる職場があるのは大きくて、実際すごく恵まれている……)  妊娠や出産を経て、働いている女性はたくさんいるのだ。自分もその中のひとりになれば良い。今まできちんと働いてきた。数ヶ月の休みで、能力が極端に落ちることは無い、と信じている。  その反面、不安は尽きない。技術職なのだ。  もうどれだけ、仕事道具に触れていないだろう。産休に入っても、最初のうちは感覚を忘れてはいけないと、新作スイーツの記事をチェックしたり、資料を読んだりしていた。そのうちに、集中力が続かなくなり、何も手につかなくなった。努力をする気力がどうしても、湧かなかった。このところ、ずっと中途半端に生きている焦りだけがあった。  この状態の自分が復帰しても、迷惑でしかないのではないか。給料に見合った働きができるのか。いや、自分が何よりも恐れているのは「役に立たない」と冷たい目で見られることかもしれない。ブランクのせいで「できない奴」になるのが恐ろしい。  この後はさらに、泣き言など許されない。何を言っても「自分で選んだんでしょ」と突き放される。  選べなかったから産むだけだという言い訳は、決して誰にも言えないのだ。特に、子どもには。なんと言われても、あなたに会いたくて産んだのだ、生まれて来てくれてありがとうと言い続けていなければ。親なのだから。 「痛い、なぁ……」  産みたくないとか、親になりたくないという言葉の代わりに、単純な泣き言を口にした。ぴしゃりと言い返されるかと思ったのに、信子は腰に手を当ててさすり始めた。 「そりゃ痛いわよ。痛いけど、忘れられる痛みだから大丈夫。じゃなきゃ二人目、三人目は産めないでしょう」 「忘れるから産めるの……? 執念深く覚えていたら、一人っ子ってこと?」 「ひとによるんじゃないの。私に似ていたら、忘れられるわよ」 「似てるかなあ……ッ……あ~……いたたたた」  ずんずんと痛みが迫ってくる。なんでこんなに痛いのだろうと、体の仕組みを作った相手に文句を言いたい。この後ものすごく苦労するのが目に見えているのに、出産のたびに確実に辛くて痛くて命に関わるような目に遭うと思えば、誰だって嫌なはず。  その経験に見合う喜びは、この先に本当にあるのだろうか。 「私、きっと子育て挫折する……。お母さんと違うもの、似てない……あ~痛い」 「あら、あんた私が挫折していないとでも思っていたの? するわよたくさん。子育てなんてそんなものよ」 「……挫折させた子って私……? お母さんが挫折した結果がいまの私? 痛い……」  心愛の腰をさすりつつ信子は「母親が挫折していても子どもは育つ」と言った。あまり嬉しくはない。 「子どもなんて、ひとの言う事きかないし、東京に行っちゃうし無茶するし失敗するし、いきなり帰って来るし。お腹に赤ちゃんがいて父親はいないって。親の思う通りになんか育たないわ。だけどまぁ、あなたは短い間でも自立して暮らして、立派に仕事をしていたでしょう。意地を張っていただけあるじゃない」 「仕事……」 「お母さんは、結婚まで実家暮らしで、その後はお父さんと暮らして、一人暮らしなんかしたことない。経済的にも自立したことないの。心愛は私と違って、頑張っていたでしょ。きっと、子育て落ち着いたらまたきちんと働けるわよ。パティシエさんなんだもの」  あまりにも陣痛が痛くて、痛すぎて、心愛はもはや呻き声しか出なかった。涙も出てきたが、信子は痛みのせいだと思っているだろう。それでいい。 (パティシエさんかぁ……。私、お母さんに、お菓子作ったことない……。高校生くらいまでは家でもいっぱい作っていたのに、職業になってからは、家でまでって……。作ったら、食べてくれたのかな。もしかして、作るの、待ってたりして。食べたかったのかな。なんで作らなかったんだろ。親だから?)  相手が他人なら、当たり前に考えるのに。借りを作りすぎないように。  仕事ならもっと考える。どうしたらお客様に喜んでもらえるか。  それなのに、何が親孝行になるかなんて、ほとんど考えたこともなかった。子どもなんて、そんなものだ。お腹の中の子も、きっとどんなに頑張って育てても、親である自分へはそんなものだろう。喜ばせようとか労ろうなんて思わず、なんで産んだんだとか、親ガチャ失敗しただとか。 (パティシエさんになれたら、仕事の面だけでも認められる親に、なるかな……?)    何十年先になるかわからないけれど、「他はだいたい全部だめな母親だったけど、お菓子作りだけは真剣だった」と、そこだけでも子どもに納得してもらいたい。完璧は無理でも、そういう生き方なら、自分にもできるかもしれない。 「あっ、あ、もう痛ぁい……」 「大丈夫? ナースコールする?」 「わかんない、あ~~痛い~~」  モニターの波形が跳ね上がって乱れ、心愛が悲鳴を上げて、信子がナースコールを押す。看護師が駆けつけるまでの間に、間をもたせるように信子が言った。 「あんたの友達は優しいわよね。明菜ちゃんも椿さんも、待っててくれたし飲み物まで差し入れしてくれて」 「……え~……飲み物、お母さんじゃないの、あ~~~~痛い」 「私は全然焦って何も思いつかなかった。あ、そっか、飲み物いるんだ、て」 「いたたたた」  もはや意味のある会話は続けられない心愛は、脂汗を流しながら体を捻る。 (明菜も香織さんもまだいるの? 帰っても良いのに。まだいるの? いつまでいるの? 私、早く産んだ方が良いかな?)  そんなことできるかどうかわからないが、二人が待っているなら、待たせちゃ悪いな、という考えが頭を過ぎった。  その後はもう、痛みのせいで記憶が途切れ途切れだ。  * * *  分娩室から、新生児の泣き声が響く。  香織も明菜も、そわそわとしたまま耳を澄ませていた。 「心愛かな……意外と、聞こえますね」 「他にも、生まれそうなひといたよね? 心愛ちゃんなら、お母さんが出てくるんじゃ……」  上の空で話している間に、心愛の母が姿を見せた。二人に気づくと、その場で会釈をしてからふらふらとした足取りで近寄って来る。香織が立ち上がり、明菜も遅れて立った。 「生まれました、生まれました。ありがとうございました」  心愛の母は、目の前まで来てそれだけ言うと、感極まったようにぶわっと涙を溢れさせた。口元をおさえて、俯く。明菜が言葉をかけそびれている間に、香織が口を開いた。 「おめでとうございます。お母さんも、ほっとしましたね」  その声はあまりにも優しく。  心愛の母はひたすら頷いてから、嗚咽をもらして泣き続ける。 「どうしようもない子で……、ひとりでどうやって育てるつもりなんでしょう。でも生まれた以上は、もう親なので。なんとか、やっていくんじゃないかと」 「大丈夫ですよ、俺も生まれたときから片親でしたけど、ここまで大きくなりました。心愛さんの周りには岩清水や『海の星』のスタッフもいますから、ひとりで育てるわけじゃないです」  少しもためらわずに話す香織の横で、明菜は息を止めていた。こんな状況で「大丈夫です」と言ってしまえば、いざというときにあてにされるかも、しれないのに。香織の性格では、そのときが来たら受け止める。その覚悟を抱いて、いまはこんなに穏やかに話している。 「ああ、でも……ご迷惑では」  ためらうように、心愛の母が言葉を飲み込んだ。その気持ちが、明菜にもよくわかった。 (本当は「よろしくお願いします」って言いたいのに、言えない。ひとを一人育てるのは大変で、他人にお願いなんてできない……)  明菜も、迷う。自分がすでに出産も子育てもしていれば、どういうものか想像がつくか、何もわからない。なんと声をかけて良いか、言葉に詰まる。  けれど、香織はやはり落ち着いて答えていた。 「遠慮してだめになるくらいなら、後先考えずに迷惑かけてもらった方が良いです。あとでゆっくり回収させてもらうので。幸い、心愛さんは手に職がありますから、絶対に借りは返せるでしょう」 「本当に、良いひとばかりで……」  明菜がハンカチを差し出すより先に、香織が差し出していた。黒っぽいチェック柄のブランドもの。きちんとアイロンがかかっている。  香織らしいと思いながら、明菜はふと気配を感じて視線をさまよわせた。  廊下の先。オレンジ色の髪の青年がケーキの箱を持って近づいてくる。 「真田さん……?」  明菜が気づいたことに、相手も気づく。真っ白なケーキの箱を掲げて、にやりと笑った。 「お祝いごといっぱいっスね。佐々木先輩の分も作ってきましたけど、まだ頑張ってる? それとも、もう生まれた? 新幹線の時間あるから、オレのんびりしてられないんスよ」  幸尚に目を向けて、ふふ、と香織が笑いをこぼして、告げた。 「生まれたよ。ありがと」
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