47 ミュゼ・ステラマリス

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 外に出たら、ぬるく吹き付ける風に、ほんのりと夕暮れ時の気配が混ざり込んでいた。  香織は、蜜色の日差しが注ぐ空を眩しく仰ぐ。背後で「時間……ッ」と明菜が短く悲鳴を上げた。その声があまりに切羽詰まっていたので、香織は振り返って「送るから、大丈夫」と告げる。  幸尚を加えて三人で車に乗り込んでから、ようやくひといきついたらしく、明菜が打ち解けた様子で話し始めた。 「ひと仕事終えた気になってましたけど、考えてみると私、何もしていないですね……!」  助手席に座った幸尚が、前を向いたまま明るい声で応じた。 「産んだのは、佐々木さんですからね。ここで新婚さんに『ご予定は?』なんて聞くとコンプラ的にまずい感じなんですよね、聞かないでおきます」 「真田さんの場合『妊娠したら、店の体制はどうなります?』の意味合いで普通の会話の範囲かと思いますけど、話題として難しいのはたしかですね。子どもの話は、ひとによってはプレッシャーだったり、関係性によってはセクハラになったり……」  社内結婚で、店の客との間で話題にのぼることもあるのだろう、明菜は言葉を選んで答える。 (そういえば、年寄連中も含めて、ここ最近その手の話題がぐっと減ったかも)  口うるさいほどの「結婚の予定は」「後継ぎはどうする」という発言を、香織も以前ほど耳にしなくなった実感がある。自分の態度が取り付く島無しだったせいかと思っていたが、案外タブーの話題として浸透してきた結果なのかもしれない。  香織は、前を見ながら会話に口を挟んだ。 「聞いている側も、本当に興味があるというより、挨拶代わりだったのかもね。『聞いておくのが礼儀』とか。結婚したって知っているのに、何も話題にしなかったら、相手に関心ないみたいで冷たいよなーってのは、年寄りは特にあるかも。そもそも顔見知り同士でも、話題の取っ掛かりって結構難しかったりするし」 「私もお店でたびたび話を振られますけど、それはあると思います。結婚も出産もお祝いごとなので、話題として悪くはないはずなんですよ。その意味では、私も別に嫌だと感じているわけではないので、ありがとうございますって話しますけど。子どもの予定はわからないですね、春さんはいつでも良いって言ってますが」  明菜がそこまで言ったところで、車内が一瞬静まり返った。  香織はとっさに前方を確認する素振りをしつつ、隣に座った幸尚に「何か言え」と念を送る。察しの良い幸尚が、空気を読んだ。 「こういう空気になるから、難しいんすよ! 相槌打つにしても『へ~、そうなんすね』としか言えないじゃないですか! べつにこれ、いまの話がつまんないとか、全然興味関心がないってわけじゃなくて、普通に『こんなときどういう顔をすればいいか、わからない』案件ですからね……!」  横で聞いていた香織は、思わずふふっ、と笑いをもらす。ルームミラー越しに後部座席の明菜をうかがうと、見事に顔を赤くしていた。 「すみませんでした! この話題って、言う方も意識したら負け、みたいなところもあって。私の反応次第でセクハラかどうかの際どい空気になっちゃうっていう、だからお客様と話しているときは顔色変えないですよ。べつにふつーの話題のひとつですから、って対応してるんですが、身内の方が、なんと言いますか」 「明菜ちゃん立派。明菜ちゃんが嫌じゃない範囲で、そういう対応できるならそれで良いよね。お客さんが下世話に感じたら辛いけど、たぶん相手もそこまで興味があって聞いてないから、ギクシャクするとみんなで後味が悪くなるだけだし……」  話しているうちに、あっという間に「海の星」に到着。 「夜の営業がんばってくださいね!」  下りていく明菜に幸尚が声をかけ、明菜は「真田さんもまた来てください」と答えつつ、香織に向かって「どうもありがとうございました。また何か、近い内に」と頭を下げた。  ドアが閉まってから香織と幸尚で「次、駅行く」「お世話になります!」と言葉を交わし車を走らせる。信号で止まったタイミングで、香織がようやく思い出して呟いた。 「平日だから満席でもないだろうけど、そっか、そういえば伊久磨の予約があるのか」  すぐに幸尚が答えた。 「そうなんスよね。表も裏も全部知っている従業員が、祝いの席に来るって店として良いことではあるんですけど、だからこそいつものクォリティで接客したいって思いは強いですよ。従業員割引する分、手を抜かせてくれって甘えを見せるような店、大切な席で使いたくないのは、当たり前なんで」   「わかる。大切な席の場合、値引きやお得感と引き換えに身内として雑に扱われるくらいなら、正規料金で良いから最高の思い出になる店が良い、って考えるからな」  相槌を打ちながら、この会話が成立するのが幸尚なんだよな、と香織は思う。  見た目は派手でチャラい若者だとしても、サービスに対する考え方は厳しい。 (専門学校卒業して就職して、最初から()()ではなかったから、岩清水の教育の賜物だ。高級レストランに求められるものを、きちんと理解している……)  技術的なことにしても、仕事にまつわる考え方にしても、最初は誰だってわからない。教えてもらわなければ、知らないまま終わることも世の中にはたくさんある。何がわかっていないかわからない限り、そこは本人の努力だけではどうにもならない部分だ。  もうすぐ駅に着いてしまう、と思いながら香織は考え考え、話しを続けた。   「俺の知り合いの店で、勘違いしている店主がいてさ……。店が混んで来ると、常連は後回しにするんだ。『いつも来ているんだから、わかるだろう。大目に見て欲しい』って空気で、背中向けて。わかるけど、いつもお金落としてくれる相手を蔑ろにして良い道理は無いなって思う」 「最低っスね。俺だったら、たとえ友達の店でも行かないです」 「商店街の付き合いでよく使う居酒屋だな。個人的に行ったことはないけど、良くない店だと思っている。だけどこの辺では、それでも店としてやっていけているんだ。そういう中で『海の星』はあのスタイルで営業して、業績伸ばしているのがすごい。岩清水の存在って、この街では大きいんだよ」  幸尚が、にやっと笑って助手席から顔をのぞきこんでくる。 「大丈夫ですよ、香織さんだって俺から見たら大きいです。俺も早いとこ、社長さんになろう」  車は駅前に差し掛かり、香織は車寄せまで進めて一時停止した。幸尚はさっとドアに手をかけ「ありがとうございました」と出て行く。 「じゃあまた、何かあったら連絡して」  香織は幸尚の背に、軽く声をかける。振り返った幸尚は、愛想の良い笑顔で答えた。 「何かなくても連絡したりして。椿邸、居心地良いっすね。また行きたいです」  ドアが閉まる、そのぎりぎりのタイミングで、香織は急いで一言だけ告げた。 「待ってる」  はーい、という声はすでにドア越しでよく聞こえない。ひらっと手を振って、幸尚は背を向けて立ち去った。サイドミラー越しに遠ざかる後ろ姿を見てから、香織は車を発進させる。ハンドルを握る手に力を込めて、息を吐き出す。 (「何かなくても」か。言うなぁ、あいつ。罪作り。きっと、どこでも同じように言っているんだ)  男だらけの職場で、反骨精神強く仕事をしていて、愛想は良いもののプライベートはろくに見せず年長者に靡かない。それでいて、対人関係が絶妙にうまい。  香織から見た幸尚は概ねそんなところだったが、この半年程度で磨きがかかったようだった。  仕事が出来て、世渡りがうまくて、気遣いもできる。  産院にケーキを持って現れ、車椅子に乗せられた心愛が姿を見せたときにさらっと渡していたが、心愛はその場で号泣した。  出産を終えた後のテンションで、安堵と不安でめちゃくちゃになっていたところに、急成長中の年下のライバルからの差し入れ。  開けてみた箱の中には、青系やピンク系に染め抜いたクリームで飾った、紫陽花デコレーションのカップケーキが四つ。切り分けの手間がないようにホールではないのだとわかったが、箱の中に本当に紫陽花の花束が詰め込まれているかのようだった。  ――すごいなそれ、即興で作ってくるのが。  ケーキを目にした香織がそう言うと、幸尚はごく軽い調子で答えた。  ――産院って、簡単には入れない仕組みだって聞いて。ハルさんから、和嘉那さんに連絡してもらって、中に入れてもらったんスよ。紫陽花は、和嘉那さんも好きな季節の花なので、あっちにも差し入れしてきました。  話すときのまなざしはひどく優しくて、正しく前向きに生きている人間の強さと余裕が感じられた。  心愛はわあわあと泣きじゃくりながら、「ありがとう、ありがとう」と繰り返し「体に障るから、そろそろ」と看護師に声をかけられて、連れられて行った。  その背に向かって、幸尚が「しっかり育ててくださいね!」と気負った様子もなく声をかけていた。 (俺が悩みに悩んでようやく言えるようなこと、ああもあっさり言えるのは、あいつの性格かな)  心愛のライバルであった幸尚の一言が、いつか心愛の支えになれば良いのに、と希望を抱いてしまう。  この先の長い道のり、苦難の連続で、何度も迷い、決断を後悔することがあるとしても。  あの瞬間、たくさんの人間が心愛の周りにいて、ありったけの想いをこめて祝っていたこと。それが彼女の道を照らせば良いのにと、願わずにはいられない。  流すように車を運転していた香織は、駅から遠ざかり、椿屋へ帰る道に差し掛かっていることに気づく。 「あ、ミュゼ」  今から行くのか? と、ようやく思い出して呟いたそのとき、思いがけない人物が歩道を行く姿が見えた。とっさに、後続車がいないことをミラーで確認し、路肩に寄せながらハザードをつけて、窓を全開に開ける。 「穂高先生! あの、ここ停まれないんで乗ってください!」  気づいた紘一郎は、ぐずぐずと会話することなく、即座にドアを開いて助手席に乗り込んできた。
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