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「……うん、そっか。声かけてくれたら良かったのに。一瞬も話せないわけじゃないし、席だってどうにかなったんだから、何か食べていけば……。うん、それじゃあ、また次の機会に」
夕方十七時。
十八時の「海の星」の予約に向け、帰り支度を始める伊久磨をよそに、什器の影で聖がスマホで誰かに電話をしていた。
聞くつもりもなかったが聞こえてきた内容に、伊久磨は電話の相手を察する。通話を終えたのを見計らって、帰りの挨拶がてら声をかけた。
「穂高先生ですか。泊まりじゃなくて?」
「もう、駅だって。そのまま帰るからまた今度って。なんなんだよ、来たなら声くらいかけて行けっつーの。開店祝いを持ってきたんじゃねえのか」
聖が悪態をついているのは、祝いが欲しかったからではなく、ひとめ会いたかったからと、さすがに伊久磨も察する。
(穂高先生、せっかく来たのに。駅ってことはまだ新幹線には乗ってない? 乗った? そんなに過密スケジュールの合間を縫って来たのか?)
腑に落ちないものを感じつつ、聖が落ち込んでいると感じて伊久磨はつとめて明るく声をかけた。
「すごく忙しい中、わざわざ来てくださったってことですか。案外、穂高先生も会うのは照れていたりして。西條さんがお店を持つのって、初めてですよね?」
「そうだけど、雇われだし。いまさら、あいつが恥ずかしがる意味わかんねえ。昔は一緒に暮らして毎日顔を合わせてたのに。俺だぞ? 何が恥ずかしい?」
ぶつぶつと言っている顔が、いかにも納得していない。憎まれ口にも覇気がなく、伊久磨としても段々同情めいた気持ちが湧いてきた。
「俺で良ければこの後一緒に打ち上げでもしましょうか」
即座にぎろっと睨みつけられて、伊久磨は口をつぐむ。聖は、剣呑な表情で矢継ぎ早に言った。
「良くねえよ。なんでそれでいけると思ったんだお前。アホか。この後海の星だろ、早く行け。フローリストがハラハラしてるだろ」
「三十分前までに家に帰れば、着替えも間に合いますから。あ、もしかして、迎えに来てるかな」
当然の反応をされて、伊久磨は笑いながら「打ち上げは館長とどうぞ」とすかさず言ってから、しばらく見ていなかったスマホをポケットから取り出す。表示されたメッセージを目にして「うわ」と、思わず声を上げた。
客もまばらなホールに向かいかけていた聖が、振り返る。
「今度はなんだ。何かあったなら、こっちはもういいから帰れ」
その仏頂面に向かって、伊久磨は満面の笑みを向けた。
「岩清水さんからです。生まれたそうです。うわ~、そっか。生まれるのか。そうだよなぁ」
聖は、妙な感心の仕方をしている伊久磨をぼさっと見つめて、首を傾げた。
「由春姉はまだ早くないか? 大丈夫なのか?」
「違います、和嘉那さんじゃなくて、うちの従業員の佐々木さんの方です。お祝いしないと」
「へぇ。今日ってことは、お前と同じ誕生日だな。毎年店で祝うのも良さそうだな」
「あっ、ほんとだ。同じだ。ミュゼとも同じですね。良いなぁ、十年後、二十年後に『ここが君の生まれた日にオープンしたお店だよ』って会話をしたいです」
伊久磨が前のめりになれば、聖は腕を組み、破顔して「気が長ぇなぁ」と呟いて横を向いた。
「蜷川はもう、この街で骨埋めるまで生きていくんだな」
オープンした店を、この街に住むひとと共に何十年先も見守っていたいとはつまり、そういう意味なのではないかと。聖の指摘に、伊久磨はあらためてそのことに思い至る。
(そっか、俺はここにとどまり、この先もう、他の場所には行かないのか)
大学に入るときに実家を出て一人暮らしをしたときは、そこまで考えていなかった。就職でどこかべつの場所へ行くかもしれないと、漠然と思っていた。自由で、どこへでも行けると。
骨を埋めるというのは、なかなかに重い表現だ。まるで「お前の旅はもうここで終わったんだな」と言われたようにも感じた。
さほど遠くまで来た覚えもないのに、ここで終わりなのか、という思い。
本当はまだどこかへ行けるのではないかという気持ち、終わりを決めるのは早かったのではないかという胸騒ぎ。
同時に、この街に生まれたときから縛られている香織は、いつもずっとこの「終わり」を抱えていたのか、と。
そういったものを全部押さえ込んで、伊久磨は何気ない調子で答えた。
「いまは、他の生き方が思いつかないので。海の星と静香が俺の生きる道だと思ってますから」
口にしてから、伊久磨は内心でかすかに戸惑う。消去法のような表現になってしまった、と。聖はそのことに触れずに、にこにことして伊久磨の胸元に軽く拳をあてる。
「俺に言ってどうする。フローリストに言えよ、それは。あとさ、あいつには聞かせなくてもいいぞ。あれで結構寂しがりだから」
「あいつ?」
「椿。椿にとってお前は結構大きい存在だから、自分がこの街にとどまる理由になっていないのは、やっぱり少し寂しいだろうさ。……そういや、今日ミュゼに来なかったな。あいつの性格上、開店祝いに金一封包んで駆けつけると思っていたのに。着服しそこねた」
軽い調子で物騒なことを言った聖に対し、伊久磨は「横領はいけませんよ」と言ってから首を傾げた。
「そうですね、来なかったですね。忙しいからと遠慮したのか……、もしかしたら穂高先生みたいに遠巻きに見て帰っていたりして」
「なんだよそれ」
実のない会話になってきたところで、どちらからともなく話を切り上げる空気になる。軽く別れの言葉を交わして、伊久磨は正面から「ミュゼ・ステラマリス」を出て、美術館を後にした。
外に出たところで静香に電話をかけると「近くまで迎えにきてるよ」と弾んだ声がスマホから響く。伊久磨は、スマホを耳に押し当てたまま、口元をほころばせた。
――海の星と静香が俺の生きる道だと思います
本人に言えと聖から受けた忠告に従い、今日はどこかのタイミングで伝えようと思う。自分と人生を歩むと決めてくれた彼女に。
「ありがとう。一度帰って着替えたい。あと、『海の星』への手土産も忘れず積まないと。いらないって岩清水さんは言っていたけど、そういうわけにはいかないから……。そうそう、婚姻届も出さないと」
話しながら、通りにハザードランプを灯らせて停車している静香の車を見つけて通話を切り、歩き出した。
それにしても、香織は何かあったのかなとほんの少し胸にひっかかりを覚えつつ、伊久磨は静香に、ついにその話を切り出すことはなかった。
* * *
行き先が定まらず、けれど「椿屋」に帰る気にもなれずに、香織はさりげなく角を曲がり、適当に広い道に出て車を走らせていた。
狭い街なので、郊外に出ないとすぐに見知った場所をぐるぐるすることになると思いつつ、いざとなったらショッピングモールにでも向かおうと決める。
助手席の紘一郎はほとんど荷物らしい荷物もなく、どこかに宿でも取っているのかな、と思いながら香織は声をかけた。
「ご存知だと思いますけど、西條は今日、帰りが遅いかもしれません」
「ああ、オープン初日ということは、何かとやることもあるでしょう」
さらっと返答があって、香織も前を見ながら返す。
「やっぱり、先生が来ていた用事はミュゼですよね? 行ってきたんですね。西條、喜んでそう」
「聖には会ってないんだ」
「えっ?」
運転をミスることこそなかったが、思わず聞き返してしまった。そのとき「失礼」と言って紘一郎はスマホを取り出す。
「電話。ごめん、ここで出る」
「はい、あの、しばらく止められないんで。気にしないでどうぞ」
車内に二人きりとあらば、どうしても会話は聞こえてしまう。香織は気にしていないふりをしながら、運転に集中することにした。
紘一郎は開口一番「聖、どうしたの?」で、相手が知れた。それから少し会話をしていたが「もう駅。新幹線に乗るから、また今度」と言って話を終えていた。
本当に、そこで通話を切ったので、香織はびっくりして「穂高先生?」と口をはさんでしまった。
「ごめんなさい、俺早合点してました。西條の店のオープンに合わせて来たんだと思っていました。荷物無いから、てっきりどっかにチェックインしているのかと。新幹線の時間そんなに差し迫ってました? いま駅からちょっと離れてますけど大丈夫ですか?」
「そこは気にしなくて大丈夫。俺がうろうろしていると聖が気にするから、お店忙しそうだったし今回は会わなくても良いかと思っただけで。新幹線の時間は今から調べるけど、どうかな。札幌までまっすぐ帰るのはギリギリかな」
そう言うわりに、電車アプリなどを開く素振りもなく、香織は紘一郎の身のふりが心配になってくる。
(西條にはああ言った手前、椿邸には来ないだろう。今日中に札幌に帰れなくなったとしたら、駅前で拾ってわざわざ駅から遠ざけた以上、責任の一端は間違いなく俺にもあるんだけど……)
相手が相手なだけに、どういうフォローが適切なのかとっさに思いつかない。交通費や宿泊費を持つとすればお金を渡すことになるが、そういう対応を紘一郎は望むだろうか。
「あの、どうしますか? 今から駅に向かいますけど、間に合わない場合は途中下車でどこかに宿取るんですか。それなら、ここで一泊して朝に、と言いたいんですが。西條に会うつもりはないんですよね」
会ったら会ったで喜ぶはずと思いつつ、このひとの決意を崩すのは並大抵ではないだろう、と香織は控えめに尋ねた。
紘一郎は、前を見て少し考えるような素振りをしてから、答えた。
「香織くんの都合がつくようなら、どこかへ行きます?」
「どこか?」
「北上すると青森。横移動なら秋田。南下することもできるかな。行きたいところは?」
「今からですか?」
真面目に考えたが、どこにも用事がない。そう告げようとしたところで、不意に視線を感じて紘一郎を見た。まっすぐに見てきていた紘一郎は、笑顔で言った。
「たまには良いんじゃないですか。ここではないどこかへ行くのも」
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