47 ミュゼ・ステラマリス

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 六月十六日、無事に結婚――  朝から二人ともバタバタと仕事で忙しくて、婚姻届は三ヶ月前に出しそびれてしまいこんでいたのを「どこに置いたんだっけ」と慌ただしく引っ張り出してきた。  夕方、ギリギリに役所に飛び込んで窓口に提出。書類に不備が無いことを確認される。  待つ間、伊久磨から尋ねられた。「静香の名字も良いと思うんだけど、蜷川で本当に良かった?」と。いつものように、何気ない調子で。  静香は隣に立つ伊久磨を見上げた。  この後「海の星」で食事ということもあり、伊久磨は黒っぽい色のスーツを身に着け、仕事のときとは少し違う雰囲気で髪をセットしている。  目立つ長身に、洗練された雰囲気、穏やかな表情。見慣れているはずなのに、外で見ると家で見るのとはまた違った感動がある。 (……ふ、ふつーにカッコイイ……! 夫になるひとがカッコイイ!!)  欲目を抜きにして見れば、伊久磨は決して芸能人のような美青年ではないはず。それこそ西條聖や香織のような知人がいる静香は、「振り返られる美形」がどのレベルかは知っているつもりなのだ。その意味で伊久磨は、「絶世」ではなく「ふつー」なのである。  それでも、こうして伊久磨を間近で見るたびに(どこの爽やか少女漫画ですか……!!)と思わずにはいられない。目が合うといまだにドキッとするし、微笑まれるとまぶしい。静香にとっては、何ものにも代え難い、永遠に推しだ。 「静香?」  軽く首を傾げて不思議そうな顔をされ、静香は見惚れている場合ではないと、慌てて答えた。 「名前が変わる機会って、人生で何度もないよね。私は変わってみたいと思っていたから、これからは蜷川で。蜷川が良いです」 「そう。ありがとう」  話している間に「おめでとうございます」と声をかけられて、書類は無事に受理された。  二人で「ありがとうございます」と頭を下げてから、窓口に背を向ける。歩き出したところで、伊久磨が静香の手を取った。 (手……!? うん。べつにつないでもおかしくないけど。手、つなぐんだ? つなぐのかー……!!)  人前で……外で……、高校生でもないのに、おとななのに。ぐるぐると考えるも、家は手をつないで歩き回る広さはない。それに、静香は高校生のときは男女交際経験はなく、高校生ならアリかどうかはわからない。  そうして考えてみると、夫婦は手をつないでも悪い理由はなく、したがっていまは手をつないでも良い。むしろいまつながなければ、いつなら良いのかと。  面倒すぎる結論を出したところで、静香はふーっと重い溜息をついた。 「疲れた? ごめんなさい、忙しかったですよね。今日くらい、もっとゆっくりできれば良かったかな」  気遣うように尋ねられて、静香は早口に答える。 「ううん、元気元気。いまのは、ほっとしただけ」 「わかる。俺もいまほっとしてる。これからもよろしくお願いします、奥さん」  まばらな利用者とすれ違い、玄関扉をくぐりながら、伊久磨はさりげなくそんなことを口にする。  心臓に強いダメージを受けて、静香は空いている方の手で胸をおさえた。 「すごい……いまようやく、結婚したって実感が。奥さんに……なった」 「あれ、いま? 俺はさっき『おめでとうございます』って言われたときからもう、結婚してるつもりだった」 「わあ……、伊久磨くん、切り替えはやい」  私は慣れるまで時間がかかりそう、と静香はぎこちない空気を笑い飛ばそうとした。だが、視線を感じて顔を上げたとき、伊久磨に微笑まれていて、言いかけた浅はかな照れ隠しの言葉をすべて呑み込んだ。 「楽しみにしていたから。はやく結婚したかった。できて良かった。嬉しい」  立ち止まってしまったせいで、すれすれにすれ違った相手がいて、手を少しだけ強く引かれる。その流れで、肩を抱き寄せられた。  道を歩いていて、危ないからと彼氏にかばわれる。そんな経験がろくにない静香は、とにかく照れてしまう。 (夫が激甘すぎて、心臓がいちいち辛いんですが……! 世間の旦那さんってこういう感じ? 本当に? えっ、伊久磨くん出来過ぎじゃない? こんなに素敵なのに、五年くらいしたら、奥さんのことを「おい」って顎で使う感じになっちゃうの? 目も合わせなかったり、ろくに会話がなくなったり? 悲しい……。そういう旦那さんになったらどうしよう……。結婚しなきゃ良かったのかな)  考えているうちに考えすぎて、すん、と落ち込む。肩を抱く腕に少し、力が加わった。 「静香、どうしたの。どこかぶつけた?」 「ううん。いまはこんなに優しい伊久磨くんが、結婚したことによって人が変わって家族も奥さんも省みない夫になったらどうしようって思ったら悲しくなっただけ」  うっかり、妄想を素直に話してしまった。しかもかなり最悪な類の。  しかし伊久磨も慣れたもので、腕をはなして手を繋ぎなおしながら「それはないかなぁ」と唇に笑みを浮かべた。 「うち、両親すごく仲良かったんだ。子どもの頃、俺が母親に何か生意気なこと言うと、親父にすごく怒られた。こう……、たとえ息子でも彼女を傷つけるのは許さない、て感じ。そのとき、母親は子どものものじゃなくて、親父の大切なひとなんだって理解した。思えばあれが、俺の親離れの最初だった気がする。子どもだからといって、親に対して何もかも許されるわけじゃないとか。いまは家族単位だけど、いずれ自分も妹もこの家を出るときがきて、両親はまた夫婦って形に戻るんだろうなって……」  駐車場につき、車の横で伊久磨は話を止める。  伊久磨のイメージとは合わないと感じた赤の外国車だが、今はもうすっかり静香も見慣れた。手をはなした伊久磨が助手席のドアを開ける。  あ、う、と静香は言葉が出ないまま伊久磨を見つめた。情けない。家族の話に、反応が出来なかった。  伊久磨は、ふっと目を細める。 「普段あまり、話さなくてごめん。でも、ときどき思い出してはいて、それで……。蓋をしてしまうのではなくて、たまにはこうして話してみても良いかなと。無理なときは無理だけど、今日はせっかく結婚したので」  途中で伊久磨の声が掠れて、目が潤み出す。静香は、腕を伸ばして伊久磨のほどよく厚みのある体を抱きしめた。 「長生きしようね。これから二人で長生きして、色々話そう。子ども産んで家族が増えても、六十年くらいあったら子育ても仕事もなんとなく終わってるだろうし。いまみたいにまた二人になって、のんびり暮らしていたら良いね」 「長すぎ……?」 「そんなことないよ! ないからね! いまも楽しいけど、この先ずっと楽しいし、六十年くらいたってからも楽しい!」  ぎゅうぎゅうしがみついていると、伊久磨の冷静な声に遮られた。 「静香、苦しい苦しい。離して。『海の星』に遅刻してしまうので、そろそろ行こう」 「はいっ!」  決して無人ではない駐車場で、いくら感情が昂ぶったとはいえ、抱きついて騒いでしまったことにいまさらながらに気づいた。手をつなぐより、よほど過激なラブシーンだ。 (うわ〜、伊久磨くんの思い出話が超レアとはいえ、周り見えてなさ過ぎだよ〜〜〜〜! 私が恥ずかし過ぎる。新妻だからで許されるのかなこれ)  助手席に乗り込んで、無言でカチャカチャとシートベルトをしめる。 「静香」 「ん?」  呼ばれて隣を見ると、伊久磨が軽く身を乗り出してきていて、そのまま唇を重ねられた。触れるだけの、キス。受け止めて、心臓が今度こそ、止まりそうになる。 「えっ、えぇ〜……か、彼氏彼女みたい!」  動揺しておかしなことを口走ってしまった。滑らかな動作でエンジンをかけて車を発進させた伊久磨は、遠慮なくふきだす。 「結婚して夫婦だけど、交際期間短くてそれらしいこと全然してないんだから、まだまだこれからじゃないかな。俺は彼氏彼女らしいこともしたい。静香は?」 「い、いいと、思います……。あの、でも具体的には?」 「待ち合わせして外でデートしたり、泊まりがけで出かけたりとか。あっ、温泉で浴衣もいいよね、静香ならすごく可愛い。冬まで待たなくても次の休みにでも行く?や  あまりにも爽やかに畳み掛けられ、静香は「わあ」と言いながら伊久磨に背を向け、窓の外を見た。 (結婚したら、男の人は奥さんと遊ばないイメージがあったけど、伊久磨くんはめちゃくちゃ幸せにしてくれそう! 奥さんで彼女って良いところだらけ! 一生、伊久磨くんに可愛いって言われる奥さんでいたい……!)  さすがに口に出して言うことはなかったが、静香は心に誓った。可愛いを忘れない、と。  そして、「海の星」までの短い移動時間に「ミュゼ、営業してどうだった?」とさりげなくいつもの会話をふる。  恋人同士のような甘い空気にときめきはあるけれど、日常を感じる関係性にも「特別」を感じて好きなのだ。  伊久磨は「今日は本店からのお客様もたくさんお見えになったんですよ。前に言ったことあると思うけど、厄除け守の北川さまが」と、楽しげな様子で話し始めた。
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