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「ご連絡ありがとうございます。キャンセル料は頂戴しておりません。……いえ、そう言って頂けるだけで。はい、また次回、お会いできるのを楽しみにお待ち申し上げております。ありがとうございました。失礼いたします」
ディナーの当日キャンセルの電話をエントランスのカウンターで受けて、明菜はほっと胸をなでおろした。
受話器を置き、カタカタとパソコンの予約表にキャンセルを入力。
空席の表示を眺める。
予約サイトでの受付は、当日分はもう締め切っているが、仕込みは済んでいる。この後直接飛び込みの客が来たら、受け入れることになるだろう。その意味では、予約で埋まっている方が本来はありがたい。
しかし、人手が薄い上に落ち着かない出来事の連続でスタッフが浮足立っている今日は、何か粗相をしないかと大変心配でもあった。キャンセルで余裕が生まれるなら、それでも良いという考えがかすめる。
(いけないなぁ。零細企業なんだから、少しでも楽をしたいと思ってしまったら、そのままずるずる堕落しそう。こういうときこそ、きちんと稼がなきゃってアグレッシブな気持ちにならないといけないのでは)
助かった、と思っている場合ではない。
そう自分を戒めつつ、キャンセルと、飛び込みがあった場合は新規を受けるかの相談のためにキッチンに向かおうとしたところで。
「野上さま、キャンセルか」
「わぁぁっ」
振り返ったすぐそばに由春がいた。軽く身を屈め、肩越しに画面をのぞきこんでくる。ほとんど、体のどこかがぶつかったり触れたりしそうな距離で、驚きすぎて悲鳴を上げてしまった。
「ん?」
「ん? じゃないですよ、全然気づかなかった。気配を消さないでください。格闘漫画で言うところの『気が……感じられない!』ですよ!」
「格闘漫画で言い直す必要があるのか? あ、いや、反論してるわけじゃない。驚かせて悪いな。電話、キッチンでも鳴るだろ。明菜がこっちで取ったのはわかったけど、何かあったのかと気になって」
騒がしい明菜に対して、由春は実に落ち着いた口ぶりでそう言ってきた。
その穏やかに凪いだ表情を見ながら、明菜はくっ、と奥歯をかみしめる。
(かっこいい……。プライベートでもすごくかっこいいけど、やっぱりコックコートがすごく似合う)
夫である。結婚している。職場まで同じ。朝から晩まで、休日も顔を合わせていて一蓮托生どころではない。この状態が、生涯に渡って続くことがほぼ確定している。
明菜は結婚前、その濃密さに対してある覚悟を固めていた。
つまり、一緒にいすぎて、相手の嫌な部分も目について、結婚前のように好きではいられなくなるということについて。
好きではなくなり、恋も愛もさめても、偉大なシェフとして尊敬の気持ちだけは忘れないでいよう。
そう決めていた。
仕事で出会い、彼からはそれが絶対に切り離せないものである限り、最後に残るのは仕事の上での敬意に違いないと、信じていたのである。
見通しが、甘かった。
明菜は、由春から目をそらしてカウンター上のパソコンに視線を向け、事務的に告げる。
「野上さまのキャンセル、奥様が体調不良ということで。直前まで悩まれていて、最初は食事を軽くできるかというご相談の電話だったんですけど、私の方から無理なさらないようにおすすめしたんです。途中までしか食べられないとか、落ち着いて席についていられないとか、集中できないまま食事なさるくらいなら、日を改めませんかと。仕込みや食材はロスになるかもしれませんが……」
独断で、キャンセルをすすめた。間違えたことをしたとは思っていないが、結果的に店に損害が出るのはわかった上でのことで、由春に対して申し訳ない気持ちはある。
しかし、明菜がそうと信じていた通り、由春は決してそれを責めるようなオーナーではないのだ。
「それは良い判断だな。無理をしても良いことはない。店で吐いてしまったりしたら、トラウマで外食そのものが嫌になったりもするだろう。具合が悪いなら家で休むべきだ。店として、そこを進言したのは正しいと思う。明菜がいて良かった」
さらりと褒められて、仕事を認められて、存在に感謝される。
明菜の夫であり、この店のオーナーシェフである由春は、そういう人間なのだ。
なるべく平然とした、仕事向きの顔をして聞いていた明菜だが、そこでたまらずふらつきかけた。
(カッ……コイイのよ!! 結婚したら絶対、恋も愛もさめると思っていたのに。どうしよう全然嫌なところが目につかない。好きしかない。私、大丈夫……!?)
見通しが甘かったとは、まさにそのこと。
いつ見ても好きで、職場なのに好きが隠せないくらい溢れそうで、結婚からそろそろ二ヶ月たつのに全然慣れないのだ。
たった二ヶ月だからかな、一年二年したら違うかなと思いつつ、いまはまだそんな未来が全然見えない。
「明菜? なんか足が震えてないか? 疲れているなら休んでいても良いんだぞ。藤崎も夜はシフト入っているし、今日は疲れているだろうから、無理をしないで」
力強い腕に、腰を支えられる。
たとえいまエントランスにひとがきても、カウンターに遮られて見えない位置で。それでも寄りかかっている場合ではないのに、包み込まれるような安堵に力が抜けて、明菜はその腕に体重を預けてしまった。
「春さん。ごめんなさい、平気です。大丈夫。あっ、春さんじゃなくて、シェフ」
「べつになんでもいいよ。いまは他に誰もいない」
くすっと笑いながら、由春が明菜を自分の方へと引き寄せた。
「本当に、うちの奥さんは無理ばかりしようとする。俺が休めというときくらい、休めばいいのに」
「そういうわけには……!」
空気がどんどん甘くなり、このままではまずいと思ったそのとき、「んんっ」と咳払いが耳に届いた。
「失礼いたします。あの、女子トイレの備品の確認なので、ここを通過します。私は空気みたいなもので、お気になさらず」
藤崎エレナが、言い訳を積み重ねながらエントランスを通り過ぎて行った。
(や、やってしまった……。職場で、居心地悪い思いを周りにさせてはいけないとあれほど……!)
見られたことに明菜はショックを受けていたが、由春はさほど来にした様子もない。「おう、頼む」とエレナに笑顔で応じてから、明菜を解放した。
「ああ~、呆れてしまいましたかね……」
明菜が思わず本音をもらすも、由春は「大丈夫じゃないか?」と飄々と答えた。
「藤崎もいま難しい時期だが、周りの景色が刺激になって、自分の生活に変化を起こそうと思えば判断も変わるかもしれない」
「なんの話ですか?」
「樒」
さらっとその名を口にしてから、由春は踵を返す。
数歩進んでから肩越しに振り返って言った。
「今日はもう、無理して新規は取らなくていい。飛び込みでどうしてもと言われた場合は声かけてくれ。ミュゼのオープンもあって店全体そこまで余裕ないし、無理すれば疲れがたまるから。事故がないのが一番だ。帰り際に、今日は良くなかったというお客様が一組でもいれば、その日の営業は失敗だからな」
「はいっ」
まるで、明菜の心をも読んだかのように、無理をするなと言われて明菜は勢いよく返事をした。
そのとき、涼やかなドアベルが鳴り響く。
ディナー一組めの客が早めに来店したようだった。
すぐに気持ちを切り替え、明菜はドアまで駆け寄る。
「いらっしゃいませ」
結婚記念日の夫婦。
いまこのタイミングで来るのをわかっていて待ち構えていたかのように、由春も少し離れた位置から「いらっしゃいませ」と言う。
エントランスに姿を見せた夫婦は、背の高い男女。
女性側が元気に「今日はよろしくお願いします!」と言い、その横顔を愛しげに見つめていたスーツ姿の男性が明菜と由春に目を向ける。小さく会釈して「よろしくお願いします」と低い声で言うと、由春と目だけで笑い合った。
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