47 ミュゼ・ステラマリス

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 ――椿の紹介か。  まだ雪深い二月。  その時点で、大学を卒業した後の進路が何一つ決まっていなかった伊久磨は、なし崩し的に身を寄せた椿邸で暮らしながら、椿屋でアルバイトらしきことをしていた。  生活も仕事も、いつまでもこのままではいられない。  ようやく現実的な悩みに向き合う程度に精神が持ち直してきたところで、香織に勧められたのだ。俺の知り合いがレストランを始めるみたいだけど、悪い奴じゃないよ。行ってみれば? と。  渡された住所を頼りに訪れたのは、閉ざされた西洋館。  そのとき由春は、表門から玄関に至る前庭で、もくもくと雪かきをしていた。  吐いた息で眼鏡をくもらせ、スコップを雪に突き立てて、伊久磨を見て言った。  ――とりあえず雪かき終わらせるぞ。その後、中の掃除な。やること多すぎ。  面接、履歴書、採用可否。そういうものを全部すっ飛ばして、他に誰もいない中、二人だけで「海の星」は始まった。 (いつまで続くか、どこまで行けるのか。岩清水さんと)  歩き出した頃は、少し先の道も見えなかった。いつも目の前が暗くて、次の一歩を踏み出したところで闇に呑まれて終わるのかもしれない、その寄る辺なさと共にあった。  唯一見えていた光は、何があっても絶対に(たお)れることないと自分に知らしめてくれた背中。真っ白のコックコートを身に着けたその背を、ずっと追いかけてきた。 「伊久磨、結婚おめでとう」  役所に婚姻届を出してから、今日は「海の星」へは客として来店。  明菜が静香を案内して、席へと向かった。エントランスに残って二人の背を見送っていたら、由春に声をかけられた。 「ありがとうございます。岩清水さんに先を譲っているうちに、少し出遅れました」 「うるせぇな。そのへんは自分のミスだろうが」  バシッと背を叩かれて、伊久磨は口元に笑みを浮かべた。身長差で少しだけ上から由春を見下ろしながら、軽い調子で話し出す。 「ときどき、自分はもう死んでいるんじゃないかと思うんです。家族の事故の連絡を受けた日から何日か記憶がないので、その間に自分も川を渡ったかもしれないと。だけど、雪の降る夜に手を差し出してきた香織のイメージから、いまの人生がもう一度始まりました。そこからしばらくは、生まれたばかりの乳幼児みたいに、身の回りの多くのことが、色も形も不明瞭で、時間経過も曖昧で……。その次の物心ついたタイミング、今日までの連続した記憶の始まりは、この店で雪かきをしている岩清水さんです」  命を繋ぎ止めたのが香織なら、暗闇を光で照らし出してここまで歩かせてくれたのが由春なのだと。生まれついての家族ではなく、一緒に長い時間を過ごしても家族になれるわけでもなかった香織と由春の二人が、紛れもなくいまの自分を生かして形作っている。  あくまで軽く言おうとしたのに、湿っぽくなったことに気づいて、伊久磨は視線をホールの方へと逃がす。早口で、言い終えた。 「自分の人生に、香織と岩清水さんがいなかったら、どうなっていたのかと思います。この店で俺に居場所をくれてありがとうございます。結婚したからといって、いきなり大きく変わるわけじゃないと思いますけど、この先もどうぞよろしくお願いします」  照れ隠しをしたり、茶化したりせず真面目に礼を言う。  それはけじめ。  「海の星」に就職が決まり、椿邸を出たことで香織の手を離れた。  それからは自分なりに仕事に向き合い、悩み、失敗しながら出会いと時間を積み重ねてきた。初期メンバーの幸尚を見送ったり、由春の結婚を祝ったりといくつもの変化があった。  そして二号店であるミュゼのオープンに参加してきたこの日、自分はまたひとつ年齢を重ね、結婚で人生に区切りをつける。  生かし、支え、引きずってでもここまで連れてきてくれたその相手が、由春だった。 「伊久磨はなぁ」  背中に手を置いたままだった由春が、ぼそりと言った。  聞き慣れた声なのに、名前を呼ばれるとこみあげるものがあって、迂闊に返事ができないまま伊久磨は奥歯を噛みしめる。  伊久磨の無言を気にした様子もなく、由春がのんびりと告げた。 「伊久磨はいつも、自分をなんでもないもののように言う。取るに足りない、いてもいなくても他人にとってはどうでもいい、誰かに生かされているだけの存在みたいに。そんなわけないだろ。お前が生きてそこにいることで、関わった人間が全部影響を受けているよ。何年か前の冬、お前を拾った椿もそのときはお前を生かす親鳥だったかもしれない。そんなあいつも、伊久磨がいるからいま生きている。ああ見えて、全然余裕ねえからな。絶対何回も死にかけてるって。そういうときに『まだここでは死ねない』と思った理由のひとつに伊久磨がいるよ、間違いねえ」  言い返そうとして、何を言えば良いかわからずに伊久磨は言葉を飲み込んだ。ひとつながりに聞くと「そんなことはない」と否定したくなるセリフなのだが、細かく検証すると決して間違いではないのだ。香織に余裕がないとか、何度も死にかけていそうだとか。香織だけに。 (俺は誰かにとって、必要とされる人間になりたいと強く願ったことはあまりない、と思う。それは望み過ぎのような気がするし、それ以前に自分がいつ死んでいなくなるかもわからないからだ。自分なしに成り立っている世界に安心してしまう……だけど)  由春は、いつもそうやって閉じこもりそうになる自分を、明るいところに引きずり出してくれる。 「ありがとうございます。自分も誰かの役に立っていると思えたら嬉しいです」  孤独と戯れて闇落ちしているひますら与えてくれない、地上を照らし出す導きの星(ステラマリス)。  まぶしく感じて、目を細めながら返せば、しれっとした表情で眼鏡の奥からさめたような乾いた視線をくれる。 「役に立つし必要だしできれば俺のそばでずっと働いていて欲しいからまっとうな給料払ってる。これでいいか?」 「給料はもっと上げて頂いて構いませんよ。所帯を持ったわけなので。あ、ほら、シェフもっと払いたそうな顔してる。大丈夫、正面からきちんと受け止めます」  俺はそのへんはできる男です、とのつもりで打てば響く早さで答えたというのに、由春には面倒くさそうなため息をつかれてしまった。 「椿に、間違いのない人材を寄越せって言ってあったはずなのに、来たのがお前だったからな。こんなに長い付き合いになるとは、あの時は俺だってわかってなかった」  どことなく、香織と伊久磨をまとめて否定するかのような響きがあった。反論しようとした伊久磨であったが、できずにふきだしてしまう。 「それはもう、香織の作戦勝ちですね。俺をうまく巣立たせるまでが自分の責任と考えていたでしょうし、その役目はできたわけなので。押し付けただけとも言いますが」 「いや、謙遜しなくて良い。良いもらいものだったよ。結局、俺にはお前が必要だった。伊久磨がいたから、俺も『海の星』もここまで来れた。違う相手だったらなんて、俺だって考えられない。これから長い人生の方はフローリスト……、静香さんと二人で歩んでいくのだとして。結婚、本当におめでとう」  由春は、伊久磨が自分自身を軽く扱うのを許さない。習い性となっている反応を返すたびに、そうじゃないと訂正して価値を認めてくれる。  その態度に触れるたびに、伊久磨もこれではいけないと思い直し、由春が認めてくれた自分を、自分も認めなければと思う。  何度も間違え、失敗を繰り返しながら、変わり続けて少しずつ前へ進む。これからも。  どちらともなく歩き出しながら、伊久磨は目の前に広がる「海の星」の店内を視界に収めて呟いた。 「今日ここに、幸尚がいれば良かったのにと思ってしまうのは、感傷的ですね。あいつはあいつで自分の人生を歩んでいるんだ」  最初の二人がすぐに三人になり、「海の星」を作ってきた日々。  いなくなった奴のことはいいよと笑い飛ばされるかと思ったのに、由春はどこか意味深に微笑んで目を伏せた。 「案外、来てるかもよ。あいつ『ベタベタした付き合いは苦手ッス』って言いながら、誕生日にはケーキを作ってるような奴だったから」 「そういえば去年作ってもらいましたね。マカロンと飴細工がいっぱい乗ったの。本人は飲み会に参加しないくせに、先に居酒屋に預けて行って」  ちょうど一年前の誕生日を思い出して伊久磨が笑うと、由春は「そうそう」と頷いて顔を上げ、店内を見回した。 「素直じゃないけど、祝いたい気持ちは人一倍あるからな。今日だってどこかに来てるよ」 「やめてください岩清水さん、幸尚を生霊みたいに」  並んで歩きながら、伊久磨が笑い、由春も笑う。  初めからこの店にいた二人。そこに加わった幸尚。出会った多くのひと。そして今日、この店で出会った伊久磨と静香は無事に結婚をした。この先は二人で歩むと気持ちを新たにした日。  光樹のピアノ演奏もあり、和やかに進んだディナーの最後に。  幸尚が作って置いて行ったケーキをテーブルに出されて伊久磨が両手で顔を覆って泣いてしまうのは、この夜の最後の話。
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