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Just trust yourself, then you will know how to live.
結婚か、いいな。
縁が無いうちはどうにもこうにもなりません。
(熟考したけど、無いと思う。未来に繋がっていきそうな縁が、私には無い)
職場の先輩である蜷川伊久磨の入籍祝いディナーを遠巻きに見ながら、藤崎エレナひとりそう結論づけて、溜め息をついていた。
仄かなランプシェードの光に照らされて、伊久磨はケーキを前に顔を手でおさえて号泣。「伊久磨くん……」と、新妻である静香も涙を浮かべて言葉を詰まらせ、光樹は感極まったように「ピアノ弾いてきます」と顔を伏せてその場を後にし、同じく新婚である岩清水夫妻が温かい目でテーブルの二人を見ていた。
心が浄化されるほどに、美しい光景だった。
同時に、ディスプレイの向こう側みたいに遠い。
せめてこの場に、旧知の仲である西條聖がいてくれたらと思わないでもなかったが、彼はすでに「海の星」を離れており、その傍らには最近出会った素敵なひとがいる。エレナの出る幕など、どこにもない。
はぁ、と続けてもれた溜め息には切なさとやるなさと敗北感が滲んでいた。
心の底から祝ってはいるのだ。幸せになってほしいと願っている。
ただ少し、自分がここにいることが場違いな気がしているというだけで。
新天地に来たつもりだったが、潮時なのだろうか。ひとの幸せが骨身にこたえる人間に、いまの仕事はふさわしくない気がする。
* * *
大学時代の先輩が言っていた(これは嫌な前フリ)。
――出会いがないと言うひとは甘えすぎている。朝家を出てから学校に来るまでどれだけの人間とすれ違っていると思う? あれ、全部出会いだからな。出会っていないわけじゃない、ものにできていないだけだ。
強引すぎる。
コンビニで一度すれ違った相手まで出会いにカウントしているひとがいたら、身の危険を感じるほどに怖い。もちろん、自分が怖い側に回るなどもってのほか。脳のリソースもっと違うとことに使えばいのにと、もったいなくなってくる。
その思いが、口をついて出た。
――そこに割く労力はないですね。
結論のみだったが、先輩には「それも良いだろう、世の中にはもっと労力を割くべきことがあると言えばその通りだ。価値観なんてひとそれぞれ。ただ、労力を割いていない、つまり種をまいていないなら収穫もない。出会いに力を入れていない以上、そこに実りはない。それだけのことだ」と言われた。
(出会いが必要ないわけじゃない。あれば良いなとは思っている。だけど、積極的に種をまく気にはならない……)
農耕ができなくても、せめて狩猟民族であればあるいはと思わなくもないが、何が「あるいは」だ、と自分につっこんでしまう。なおさら無理だ。狩りなんてしたことがない。罠を張ったこともない。
ほんの少しだけ勇気を出して踏み出した相手はいるが、いまとなっては良いお友達だ。お互いに「自分には恋愛は無理だったんだな」と深く納得してしまっている。きっとこのまま永遠にお友達だ。
椿香織。
元彼と呼ぼうにも、首を傾げたくなるような交際しかしていない。一緒に暮らしていてさえ、何もない。危うい空気にすらなっていない。それでも、けじめのために、このままずるずると一緒に暮らしている場合ではないと思い始めている。
いかに彼の作る食事が美味しくても、半年暮らした椿邸が居心地が良くても、出ていくべきときなのだ。あとは、決断するだけ。
仕事帰りに、煌々と光を放つ電灯の下で立ち止まり、スマホで引越し業者を検索する。見積もり依頼をタップしようとして、思いとどまった。
そこまで荷物は増えていない。
同居男性のどちらかに「車を」とお願いすれば、事足りる話だ。だが、どうも特定の相手とお付き合いを始めたばかりの気配がある聖に頼むのは、気が引ける。だとすればやはり、ここは香織の出番である。
「……本当に、都合の良いときの香織さん過ぎて、申し訳ない」
何かしようとしたときに、いざとなれば香織がいると頭に浮かんでしまうのがいけない。彼の人生を思えば「どうしてもあなたでなければ」と言われる経験をもっと積み重ねるべきなのだ。と、エレナは信じている。
それを言うのは自分では無いにしても。
誰か、きっとどこかにいる。
彼は素敵な男性なのだから。
(よし、今日のところはまっすぐ帰ろう。引っ越しに関しては、また香織さんに相談をするとして。まずは、部屋を見つけなければいけないし)
早足で歩き出す。
角を曲がり、椿屋の並ぶ通りへと踏み入れる。
深夜というほど遅い時間ではないのに、すでに人影ひとつない。地方都市ならではの光景であるが、エレナも慣れたものだ。むしろここまでひとがいないときに、誰かひとりいる方が怖い。
そのとき、前方から近づいてくる人影に気付いた。
背が高い。見知ったフォルム。街頭に顔が照らし出されるのを待つでもなく、相手が誰かすぐにわかる。
(樒さん……!)
足が止まった。逃げ出したいような思いにとらわれるも、この世に他に誰もいないような場所でそれはいかにも不自然過ぎる反応と、踏みとどまる。
迷う間に、距離が近づいた。
目が合う少し前には、樒もまたエレナの存在に気づいていたらしく、眼鏡をのせた顔が笑っている。あと少し、というところで樒から声をかけられた。
「こんばんは。いま帰り?」
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