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「珈琲飲んでく? 店開けるよ」
樒は愛想の良い声で言いながら、ベルトに無造作に通した鍵束を軽く手で叩く。
チャリ、と涼しい音が耳に届いて、エレナは自分がひどく喉が渇いていることに気付いた。
朝から出勤の明菜が閉店まで残っていたので、早く帰れるようにと大急ぎで閉店業務を終わらせ、雑談しがてら一服することもなく急いで飛び出してきたのだ。
誰かにそうしろと言われたわけではないのに、「その方が世の中がうまくまわる」と思って自分の居場所を自分から切り捨てるのは、エレナの人生において実によくあることだった。
(珈琲飲みたい。アイスコーヒー作ってくれるかな。バニラアイスを浮かべてコーヒーフロート。甘苦いアフォガードもいいな。あれ? どうだろう、樒さんそういうデザートっぽいアレンジするのかな)
想像だけでますます渇きを覚えるものの、ここで素直に「飲みたい」と言えないのが、エレナのこれまで歩んできた生き方だ。
半年ほど前に、椿邸に住むと決めて会社をやめたときは、ずいぶんと思い切ったことができたものだが、今はまた脇役に甘んじようとしている。
自分が主人公になるなんて無理なのだ、と諦めを覚えたせいかもしれない。
「もう遅いですから、ご迷惑かと」
愛想笑いで、一歩ひく。
「それは俺が迷惑じゃないって言えばOKってこと? 迷惑じゃない。大歓迎」
ひいた分、樒から一歩進んで詰めてくることはなかったが、きっぱりとした意思表示をされた。
電灯の明かりの下で見る樒は、一日過ごした後の疲労をその笑顔に滲ませている。セロ弾きのゴーシュは普段、こんなに遅くまで開けている店ではないので、閉店後に何かの作業をしていたのかもしれない。
少し気怠げな様子が、いつも以上に彼を退廃的に見せていて、目に毒だった。
色気にあてられる。
「……喉が渇いていて。冷たい珈琲が飲みたいなって思うんですけど、面倒かけてはいけないと」
素直じゃないなと思いながら、エレナはようやくそれだけ、絞り出すように言った。
樒が、くす、と小さく笑った。
「藤崎さんに面倒かけられるのは、全然構わない」
その返答を聞いて、頭を抱えたい気分になる。
「それって、釣ってない魚だからですよね……? 釣り上げるまでは優しいんですよね、なんとでも言えるんですよ男の人は。迷惑じゃないとか面倒じゃないとか。これがもし、私が樒さんの彼女でしかも樒さんのことが好きで好きでどう冷たくあしらわれても尽くしちゃう女だったら、絶対こんな扱いしてもらえないと思うんです。つまり私は、そういう甘いこと言われて喜んでいる場合ではないんです」
ごめんなさい。
面倒な女なんです。
その自覚はあったが、あまりにも樒の誘惑が寂しく疲れた独り身にきつすぎて、屈してなるものかと突き放してしまった。
(珈琲店の店主が営業時間外にお店を開けて珈琲いれてくれるなんて。そんなの、どう考えても口説き文句だし……っ。しかも樒さんですよ、どこからどう見てもイケメンの樒さんですよ。これは私の欲目じゃないと思う。樒さんは、かっこいい)
本気で口説かれたらまずいことになる、という予感がある。雰囲気で押されただけなら逃げようもあるのだが、こうもはっきりと言葉にされると、拒むのに骨が折れるのだ。
意思を強く持って、エレナは断固として断ったつもりであった。これで樒が機嫌を損ねて関係性が崩れるならそれも仕方ない、との覚悟の上で。
樒は、「えぇと」と苦笑しながら言った。
「言わんとするところはわかる。藤崎さんが俺を警戒するのも理解できるつもり。たださ、ひとつ言わせてもらっていいかな。いま、誘ったのが香織だったらどう思った?」
「香織さんですか……。香織さんは同居人なので『じゃあ帰って一杯飲みましょうか』ですね。警戒も何も。香織さんですし」
頑張って想像してみたが、それ以上の光景が思い浮かばない。香織は香織である。エレナを釣り上げるつもりもないだろうし、もし万が一何かがどうなって結婚という運びになっても、いまの生活がさほど変わるようには思えない。
彼のすべてを知っているわけではないし、知らない部分も多いだろうが、それも含めて「人となり」には信頼感がある。
(ときめきはどうかな……意外とあるかも。香織さんもパッと見はハッとするイケメンだし、もし恋愛の意味でのお誘いがあったら、ドキッとしそう。一緒に暮らしているとはいえ、家族でもなく他人の男なわけだし。それを言ったら、西條くんもだけど。性格きついのは知っているけど、見た目はイイ。いまさら私に興味を持つことはありえないから、私も相手として考えたことはないけど)
う~ん、う~んと悩んでいたら、樒に「それなんだよね」とため息混じりに言われた。
「藤崎さん、あんまり、俺のこと知らないんだと思う。知らなくても好きにはなれるけど、大人は好きだけじゃ前に進めないから、結局その位置からこっちには来ないんだ。男の俺が焦っても、怖がらせるだけだよな。長期戦覚悟しておこ。俺に興味を持ってもらうところから」
それだけさくさくと言うと、ひらっと大きな手のひらを振って「今日はまたね、おやすみ」と爽やかに告げられた。
「あっ、はい。おやすみなさい……」
「すぐそこだけど、気をつけてね。家に帰るまで見てようか? って言いたいところだけど、この通り他に誰も歩いてないから大丈夫かな。かえって俺が怖いかもしれないし。気が向いたら明日の朝、モーニングにどうぞ。適当な時間に開けておくから」
じゃあね、と言うなり背を向けて去ってしまう。
言葉もなくその後姿を見送ってから、エレナもまた椿邸へ向けてとぼとぼと歩き出した。
(「その位置」から踏み出さなかった私は、こうして安全な生活へと帰っていくのです)
望んだ結果だ。何も間違えていない。
じんわりと心が後悔に満たされているが、それだってこの晩「よく知らない男」について行って、なし崩し的に何かがあったときに負う傷に比べれば、本当に些細なものだ。
取り返しのつく人生、踏み外さない生き方。賭けはしない。
納得しているのに、喉の渇きがひりりとして痛い。
「アイスコーヒー、飲みたかったな……」
コンビニでも行こうかなと思っても、家が目の前なんだから帰って飲もうと考えてしまう。
変化が絶対に起きない人生。出会いなし。出会ってもものにはできない。そこに労力を割かないから。
辟易としたエレナは、翌朝ひとまず樒の店に行こう、と心に決めた。
変化は自分で起こさなければいけないのだ。
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