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ドンペリニヨンというお酒の名を耳にしたことはある。
目にしたのは、初めてだ。
「オープン記念にって、西條さんが開けてくれたんですよ。館長もどうぞ」
美術館閉館後、スタッフが「ミュゼ・ステラマリス」の戸口に集まっているなと思っていたら、細かく泡立つシャンパンのグラスを手渡しされて、まどかは唖然としながら受け取った。本物? と。
これがドンペリなのね、美味しいね、と古参のスタッフたちは喜色満面に話し合いながら、聖の用意したオードブルを立食形式でつまんでいる。
(今日は朝からあんなに働いて、明日の仕込みもあるのに、スタッフのためにこんな準備まで?)
こなしている仕事量が超人過ぎる。
聖自身もグラスを傾けて、初老の男性スタッフと笑顔で会話をしていたが、まどかの姿を見つけると口元をほころぼせた。
「館長、お疲れ様。今日は一日ありがとうございました!」
硬質に澄んだ聖の声が、玄関ホールに響き渡る。
十人に満たないスタッフの視線がまどかに集中した。
胸の中に、直接降ってくるような言葉。「ありがとうございました」で締めるのが、いかにも彼らしいと思ったら、目頭がつんと熱くなった。
「こちらこそ、どうもありがとうございました。ミュゼの華々しい門出に立ち会えたこと、非常に光栄に思います」
とっさのことで、満足な口上も思い浮かばないまま、まどかはそう言って聖を見つめ返す。
片目を瞑るなんて、彼にしか許されない気障な仕草で応えてから、聖は乾杯をするようにグラスを持ち上げた。
距離があったが、まどかもその動作をなぞる。
すると、聖が思い直したように大股に近づいてきて、まどかの正面に立つと、グラスにグラスをぶつけてきた。
「明日もよろしく。平日がこれなら、土日はきつそうだな。まずは月曜日の休館日まで、全力で」
「はい。こんなにこの美術館が賑わったのを見たのは、初めてかもしれません。私も精一杯お手伝いできればと思います」
胸がいっぱいになりながら、なんとか返すと、スタッフから拍手されてしまった。
それから「いやあいいねえ。西條さんが来てくれて良かった」「『海の星』は本店もいいのよ」「これで美術館も盛り上がるねえ」と浮かれたように言うスタッフたちと話しているうちに時間が過ぎ、全員を見送って最後は聖と二人になる。
サーモンや生ハムといったオードブルは綺麗になくなっていて、食べ損ねたなとまどかが思っていたら、聖が気取らない口調で「俺らもなんか食べるか」と聞いてきた。
「お疲れですよね。私のことは気にしないでください」
「実は俺もほとんど食ってないんだ。パスタ茹でるくらいだけど。好き嫌いはないんだよな。座って待ってて。ずっと立ってただろ」
聖こそ、今日一度も座っているところを見ていない。それなのにさっさと調理場に行ってしまう。まどかは戸口のところに並べられたスタッフ用の料理の皿を手にして、「私はこっち洗っておきます」と声をかけた。
「助かる、サンキュ。仕事増やして悪いな」
「いえいえ、こちらがお礼を言うところです。みんなすごく喜んでいました。高いお酒まで開けてもらって……ものすごく高いんですよね、ドンペリって」
「どうだろう。ワインの中ではそこまで高いわけでもないんじゃないか。五大シャトーとかの方が値段的には上だ。あとは、オーパスワンとか」
打てば響くような返答が、耳に心地よい。
鍋に湯を沸かす聖の隣に立ち、皿を洗っていると、置いたそばから聖が拭き上げて片付けていく。その動作には無駄がなく、感心してしまった。
「西條さんってよく働きますよね。大きなお店に勤めたら、料理だけに集中できる環境だって望めるでしょうに」
「そうでもないよ。偉くてふんぞり返ってるシェフなんて世界中探しても本当に少ない。だいたい、店で一番働いているのがシェフだ。掃除にしても洗い物にしても。体はしんどいけど、そういうときに新しいアイディアが降ってきたり、初心を思い出したりするから、自分と向き合うためにも必要な時間なのかもしれない」
沸騰した湯に乾麺を入れて、「材料何もないんだよな。ナポリタン好き?」と聞いてきたので、「好きです」と答えてから、すでに昼間の喧騒は遠く、あらかた片付いた店内を見回した。
明るいのは調理場だけで、店内は灯りを絞っており、天井から吊るしたドライフラワーと衝立代わりにテーブルの間に配置した観葉植物が影となって浮かび上がる。
(このスペースがミュゼとして出来上がったのは最近なのに、ここに立っていると妙に気持ちが安らぐ……)
職場でも家でもなく、自分のために欲しかった居場所。
「帰りたくないなぁ……」
自然と口から呟きがもれてしまい、「ん?」と聖に聞き返されて、まどかはのんびりと答えた。
「夜間の部が欲しいところです。仕事が終わった後にここに寄って、ご飯食べて一杯飲んで帰れたらすごくリフレッシュできそうなのにと思いまして……え?」
聖が笑っていることに気付いて、まどかは何かおかしかったかな? と首をかしげる。
ふっと、聖は目を細めて視線を流してきた。
「今晩のお誘いかと。俺は全然大丈夫いける」
「お誘い?」
「帰りたくないって、そういう意味じゃないのか?」
大変遅まきながら、聖が言わんとしていることに気付いて、まどかは顔から火が吹くかと思った。
「い、言ってません、そういう意味ではないです。全然違います。西條さんは明日もあるんですから、ぜひ家に帰ってゆっくり休んでください……!」
にこにこにこと微笑まれて、まどかは聖を真正面に見たまま、一歩後退する。
「今日はそれでも良いけど、この先せっかく休みが合うわけだから、考えておいて。日曜日の夜、どうするか。俺はまどかのために空けておく」
動揺したまどかはさらに後退しようとする。踵が何かを踏みつけ、バランスを崩した。
「危ない」
聖が一歩進んできて腕を伸ばし、まどかを抱き寄せる。ごめんなさいとか、ありがとうと言って離れようとしたが、そのまま聖にそっと抱きしめられて固まってしまった。
「あ~、やっぱり疲れてるな。ちょうど誰かに寄りたかったんだ。まどかの体気持ちいい……」
ぞくぞくするほど甘い声で囁かれたが、本当に疲れている気配を感じて、まどかはもう突き放すこともできずに聖の背にそっと腕を回した。
「お疲れ様でした。私でよければ寄りかかってください」
「ありがと。キスは?」
「キスは違うんじゃないですかね」
「どう違う? 何がだめなんだ?」
真剣なのか、からかっているのか。
笑いながら言った聖は、まどかを放して鍋の方へと戻っていった。
(何がだめって……だめではないんですが……、心の準備が)
自分がとんでもない美形だと自覚してください、とまどかは心の中で言いがかりめいた文句を思い浮かべる。
「今頃蜷川とフローリストは『海の星』だな。今日こそ結婚できたのかな。あいつら一回失敗してるから」
聖がいつもの調子で話し始めたのに安心して、まどかも「きっと楽しく食事をしていますよ」と答えた。
そのまま、聖がナポリタンを仕上げるのを見ていると「ドンペリもう一本開けようか?」と聞かれる。あまり飲めていなくて惜しく思っていたまどかは、贅沢だなぁと笑って言った。
「じゃあ少しだけ。ドンペリとナポリタンなんて良いのかな? って感じですけど、ナポリタン作ってくれるシェフが超一流ですからありですね」
「うん。美味しいよ。座って」
まどかがカウンター席に座ると、てきぱきと聖が準備をして、シャンパンのボトルを開けた。
二人で乾杯をして、のんびりと食事をしながら今日の反省と明日以降の話をする。
お酒が入っていたこともあり、時間は瞬く間に過ぎて、ずいぶん夜も更けてきた。
帰り支度をしながら、まどかは内心で少しだけ迷っていた。
(あと五歳、十歳若かったら、ここで終わりにしないで「朝まで一緒に」って言うのかな)
翌日に疲れが残ることを考えると、踏み切れない。もう若くないし責任ある立場なので、と自分に言い訳をしつつ話題を探して「そういえば」と切り出した。
「椿社長、今日は姿が見えませんでしたね。明日でしょうか」
「そうなんだよな。来ると思っていたのに。あいつも意外と忙しいのかも。今頃、家で藤崎と飲んでいるかもしれないけど。藤崎、あれで結構落ち込むから。今日なんて、蜷川に先に結婚されたってわかりきったことで管巻いて飲んでそう」
何気なく出てきた藤崎、という名前にどきりととする。
そうだこのひとは、美しい女性と暮らしているのだった、という事実が今更ながらに思い出されて、胸がずきりと痛んだ。
普段なら、気づかないふりをしてやり過ごす痛み。
だがこの日は、シャンパンの泡に酔っていたせいかもしれない。
「まどか?」
コックコートを脱いだ聖のシャツを掴んでしまい、不思議そうに聞かれたところでまどかは自分の行動がおかしいことに気付いた。
だめだ、こんなことをしている場合ではない。明日も仕事なのだから、帰らないと。
その思いとは裏腹に、聖の体に腕をまわして自分から抱きついてしまう。
「藤崎さんと、なんでもないとわかっているつもりなんですけど、名前が出てくるとドキッとするんです」
「ごめん。気をつける」
「謝らせたいわけではなくて」
絡んでいる自分が悪い。その謝罪を素直に口にすることができないまま、まどかは聖の体をぎゅうぎゅうと抱きしめた。
酒に惑わされている。
聖は抵抗することなく、されるがままだったが、やがてまどかの背に腕を回して深く息を吐きだした。
まどかの頭髪に軽く口付けながら、低い声で囁きかけてくる。
「このまま二人でどこかに行こうか?」
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