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椿邸無人、誰の気配もなし。
遅くに帰宅したエレナはそのことに気付いたが、別段騒いだりはしなかった。
香織が帰った形跡がないのは気になったが、食事を外で済ませて、朝が早いのですでに寝ているだけかもしれない。聖はミュゼ初日なので、帰りが遅いに違いない。
だからきっと、朝になったらいつも通りのはずだ。
最初に香織が起き出して、工場に出ていく。次に聖が起きて、朝食を用意する。聖と、学校に行く前のエレナと、ひと仕事を終えてきた香織が、時間が合えば一緒に食事をする。ここ半年、三人で築いてきた生活だ。
前の晩深酒をしたり、誰かが休みであれば多少変化はあるが、概ね変わらない。
それはここが三人の生活を送る場で、何があっても最後に帰ってくる「家」だからだ。
* * *
早朝。いつもなら自分以外のひとが起き出す気配があるのに、広い日本家屋は静まり返っている。
(香織さん、やっぱり帰ってない? 仕事はどうしたんだろう。西條くんもいない気がする)
胸騒ぎを覚えながらも、朝の支度をしていれば二人ともひょこっと姿を見せるような気がして、エレナは着替えて顔を洗う。もうだいぶ気温が夏めいて暑いので、フレンチ袖のトップスにクロップド丈のパンツをあわせた通学スタイルだ。
台所に向かおうとしたところで、外で話し声がすることに気づく。待つより行った方が早いと、サンダルをつっかけて玄関から出ると、作務衣姿の水沢湛と、朝帰りらしい聖が立ち話をしていた。
「おはようございます。何かありました? 西條くん、初日から朝帰りだなんて、ミュゼそんなに忙しいの?」
何気なく話しかけたのに、二人の表情が冴えない。本当に何かあったのかと、エレナが重ねて聞こうとしたところで、湛が答えた。
「香織が帰っていないんだ。今朝は仕事も休み」
「えっ、それって大丈夫なんですか!? 事故ですか!? 警察には」
驚いて聞き返すと、湛はスマホを取り出して「連絡は取れてる」と歯切れの悪い調子で言った。
「昨日、車を走らせたら走らせ過ぎて日本海まで行ったとかなんとか。そういう羽目の外し方って今までなかったから、一回くらいは大目に見てもいいかなとは思うんだけど……。なんていうかな、ひとりじゃないみたいで」
「柳さん?」
考える間もなく聞き返してしまい、湛にため息をつかせてしまった。
「俺もそれを危ぶんで、聞いたら違うとは言っていた。ただ、伊久磨は昨日結婚だから違うだろうし、西條もいま帰ってきたところだから違うとして、藤崎さんもここにいるとなると……。香織の人間関係を全部把握しているわけではないけど、少し気になる。仕事にまで影響が出るなんて、何か面倒事抱えてなければ良いんだが」
ちらっとエレナが視線を向けると、聖は「俺も本当にいま帰ってきたところで、全然知らない」と答える。服装は、おそらく前日家を出たままだ。だが、髪や顔は洗いたてのように見えて、妙に引っかかる。それではまるで、本当に「朝帰り」ではないかと。
聖は口元にほんの少し皮肉っぽい笑みを浮かべて、呟いた。
「心当たりが、まったく全然ないわけじゃない。案外、紘一郎だったりして」
「穂高先生が、なんで? あっ、西條くんのお店のオープンに合わせて来てたの? それなら、そのまま椿邸に帰ってくればいいのに」
この家に、住人以外の来客があることに、エレナも慣れてしまった。女性一人であることを気にされているのはひしひしと感じていたが、少なくとも自分は気にしていないふりをしてきたので、このときも気遣われる前にきっぱりと自分から言ったのだ。
エレナに促された聖は、逡巡を見せてからぼそりと答えた。
「紘一郎は、異常に察しが良いんだよ。昨日、ミュゼには来たけどそのまま椿邸には寄らないで帰るって言ってたから、俺も真に受けたんだ。もしそれを聞いてなかったら、俺も朝帰りはしなかったと思う。身内の紘一郎を椿だけに任せて、俺が外泊するわけにもいかないから」
それほど五感が繊細な自覚のないエレナは、このときも聖からシャンプーの匂いなど感じたりはしなかった。だが、働き詰めで職場から一時帰宅したのとは違う空気を、たしかに感じていた。
その違和感が「外泊」の言葉で確定されて、胸の中がどろりと嫌な溶け方をした。
「西條くん、ミュゼは昨日初日で今日も営業なのに、何やってるの? 相手、館長でしょ? 二人とも大人で責任もあるのに、こんなときにそんな」
「それは藤崎に口出しされることじゃない」
苛立ちを見せたエレナを軽くいなして、聖は「何かあったら連絡します。水沢も朝は忙しいだろうし」と湛に向かって言った。
引き際をはかっていたらしい湛は、難しい顔をして聖を見て、吐息する。
「香織の件は、協力してもらえると助かる。こっちも何かわかったら言うようにする。朝帰りに関しては、西條にも事情があるだろうからノーコメント。仕事頑張れよ、大切な時期だ」
「どうも」
踏み込まないが、見放さないぎりぎりの距離感から言うだけ言うと、湛は工場へと戻っていく。
その背が見えなくなってから、不快さを抑えきれなかったエレナは再び聖へと食ってかかった。
「私は西條くんとは他人だけど、常緑の親友よ。親友の夫が、仕事相手と一晩過ごして帰ったって聞いたら良い気分なわけないじゃない。そんなにあっさり白状しないでよ!」
口にしたそばから、八つ当たりをしている、と自覚していた。
(申し訳無さそうにしてほしいとか、悟らせないようにしてほしいとか。そんなことを願う間柄じゃないのに)
自分なりに大切にしてきた彼との友情が、ここで壊れる。エレナの文句は越権行為であり、しかも死んだ親友をたてにとった最低のものだ。聖とて見過ごせることではないだろう。
聖は薄く笑って、エレナの肩越しに遠くを見る仕草をした。
「もしかしてそこに、常緑がいるのか? 藤崎の背後で俺の行動見張ってる? だったら『ごめん』って伝えておいて。俺はまだもう少し地上で生きているから、すぐにそっちには行けない。生きている間に、自分がやりたいと思ったことをする」
常緑がそこにいるだなんて、思っていない。
エレナに言い聞かせている。微妙に、その存在を無視する形で。
「生きている西條くんの行動を、私が縛ることはできない。常緑の名前を出したのも、ごめんなさい。カッとなりました」
怒らせた覚えのあるエレナは、それ以上の言葉を呑み込んで頭を下げた。
普段ならそこで、互いに干渉を避けて適切な距離を保つ。だが、このときは聖もまたいつもとは違ってさらに話を続ける。
「俺は常緑と他の誰かを比べようとは思わないけど、死んでいても気にするんだな。館長もなんだか一生懸命で、そんなに気にされても俺にはどうにもできないのにって。誰も悪くないのにへこむ」
その言葉通り、聖はへこんでいたのだ。落ち込んで、やるせない気分を抱えていたのだろう。だが、エレナはエレナで「それを受け止めるのは自分の役目ではない」という思いから、優しい態度を取りそびれた。
「知らない。自分で解決しなよ」
肩をすくめてそっけなく返すと、聖は声もなく笑い、エレナの肩に軽く手を置いてすれ違いざまに耳元で囁いた。
「常緑が体弱かったって知ってるから、やりたくてもできないことがあったんじゃないかって、館長が。常緑にできなかったこと、全部自分にはしてくれていいよって。いじましくて泣けた」
毒を流し込むように言い捨てて、椿邸の玄関へと向かう。
二人で恋人として過ごした時間に交わした、二人だけの会話を暴露されたのだと気づき、エレナは気分を害しながら言い返す。
「そんなこと、私に聞かせる話じゃないでしょ!?」
振り返ったそこに、聖の姿はすでになかった。
最低な言い逃げをされた後だった。
椿邸に引き返して、すぐにまた顔を合わせるのは嫌すぎると、エレナは小道を走って木戸をくぐり、表通りに出る。
まだ人影もない朝の道を急いで、数軒先のセロ弾きのゴーシュまで行った。
(朝来て良いって言ってたし! モーニング食べよう。美味しいコーヒーを飲んで、頭を冷やそう)
引き戸の前に立ち、開くと信じてぐいっと引く。
ガチッとした手応え。戸はしっかりと閉まっていた。
「うそぉ……。来て良いって言ってたのに……!」
君のために開けておくよ、くらいのことを言っていたはずなのに。
気持ちが萎えすぎて、ずるずるとその場にしゃがみこんでしまう。
香織は誰かと、日本海まで行ってしまった。
聖は仕事相手との逢引報告をしてくる。
彼らは大人であり、エレナと拘束し合う関係ではないので、どこで何をしようと自由ではあるのだが、二人揃って同じ日に勝手なことをされてしまうと、羽目を外さないでまっすぐ家に帰っている自分がいかにもつまらない人生を歩んでいるようで、滅入るのだ。
「樒さんのばか。樒さんのばか。開いてなぁい!」
つい、愚痴っぽく叫んでしまったところで。
背後から、影が落ちてきた。人が立ったのだ、と気付く。
「おはよう。店の前に美人が落ちてる。どうしたの?」
のんびりとした声で話しながら、チャリチャリと鍵束を鳴らして、樒が引き戸の鍵穴に鍵を差し入れた。
しゃがみこんでいたエレナがぼさっと見上げると、にっこりと微笑みながら見下ろしてきて、爽やかな口調で言った。
「開けたよ。どうぞ」
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