206人が本棚に入れています
本棚に追加
/392ページ
朝っぱらから聖と喧嘩したと思ったら、樒に対して馬鹿と叫んで八つ当たりしているのを、本人に聞かれた。
「どうぞ」
セロ弾きのゴーシュの店内に誘われて、立ち上がったものの、エレナは顔を両手で覆ってもう一度しゃがみこんでしまう。
「おいおい。大丈夫? 腰が抜けた?」
「死にたい。消えたい。もう自分が嫌……」
「じゃあ今日はお客さんここで締め切りで、本日は貸し切り。臨時休業かな」
樒にのんびりと言われて、エレナはハッと息を呑んだ。
(ものすごく「構ってちゃん」してしまった……! 樒さんに、都合よく甘えようとしている!)
いけない、と思いながら立ち上がり、背の高い樒を見上げて「帰ります」と一言。
にこ、と樒は笑った。
次の瞬間、エレナの手首を掴み、有無を言わせず薄暗い店内へと引きずり込んでぴしゃりと戸を締める。
しん、と静まり返った店内に、ガチャガチャと鍵を締める音が響いた。
「……え?」
何が起きたか、まったく把握できないままエレナは樒を見る。
目が合った樒は、声を立てて楽しげに笑いながら言った。
「藤崎さんの貸し切りだ。さて、何しようか?」
笑顔である。
(貸し切り!? どこのCEO……! あっ、樒さんも店長とか社長とかそういう強キャラだったんだ)
唐突な気づきを得た。
藤崎エレナ、前職は東京の大企業の社長秘書である。
仕事柄、経営者や収入の高い男性と会話したり知り合ったり、そういう相手と付き合いのある友人知人も周囲にそれなりにいた。自分自身「誕生日もうすぐなの? じゃあ、お店貸し切りにしようか?」なんて誘われたこともある。
その見返りが何かを考えれば、素直に喜べるものでもなく。
とっさに「その日はすでに予定がありまして」と断るようにしていた。
セレブとの出会いやその世界に、まったく興味がなかったわけではない。
単純に、自分には合わないと信じていた。
自己評価が極端に低いとは思わないが、そういった生活はおそらく背伸びをしなければ無理だろうと確信していたのである。
「品定めした結果、合格」という意味合いで誘われても「不合格」になった時点でその関係は終わると思うと、初めから近づかないに越したことはない。
頑張ってその生活にしがみつくよりも、身の丈に合った相手と恋愛をして家庭を築く。
エレナは、それ以上のことを望んでいなかったのだ。
そして知り合ったのが椿香織(※社長)。
彼と男女交際の意味で別れた後、いま微妙な関係にあるのが樒(※店長。社長?)。
エレナは奇妙な脱力感に薄ら笑いを浮かべながら「そうなるんですね……」と力なく呟いた。
「そうなるって、どういう意味?」
「樒さんはお店を貸し切れる権力者……」
「権力者? 自分の店だから融通はきくかな?」
「私は権力者が好きな女……」
「どうした? ほんとどうした?」
心配そうに眉をひそめて聞き返されても、苦み走った表情にさえ彼の顔立ちの良さをまざまざと実感してしまい、エレナはさらにいたたまれない気分になる。
その行き場のない思いのまま、切々と言い募った。
「私は高望みをしているつもりはなくて、純粋に『自分と同程度の身の丈に合った相手と恋愛して結婚して夫婦仲良く暮らしていく、子どもは一人か二人産めたら良いな』としか考えてないんです。今も昔も! そのつもりで、過去にどう考えてもセレブな相手からアプローチを受けても、気づかないふりをしてかわしてきました。それが、今になって気づいてしまったんです!」
「何に?」
「私の周りの男性はレベルが高い! 意味不明に高い! 香織さんは社長だし、西條くんは星付きレストランのスーシェフ経験のある料理人。二人とも文句なくイケメン。それで、樒さんは? 簡単に店を貸し切るなんて言い出すCEOで、チェロが弾けて、しかもイケメン! どこを向いてもこんな感じで、私にとっては完全に八方塞がりなんです!」
言っている最中に気づいていた。
(こんなこと、他のひとには言わない。言う手前で、こらえる。こんなの、私だって初めての経験なんです)
行き場のない思いなんて、普段なら自分の中で解決しようとする。
だが、その自制心も限界だったのだ。
路上で誰に見られるかわからない場所で会話を続けていれば、エレナとてここまで自分をさらけださなかっただろう。
それが、誰もいない店内に連れ込まれて、好きにして良いと言われたので、好きにした。
「八方塞がり……CEO? なんの話? この後タワマンに連れ込めばいいの? そのくらいしか思いつかない。わかってないおじさんでごめん」
なぜかしゅんとされて、エレナは「そうじゃないです」とさらに力説をした。
「おじさんじゃないです。樒さんイケメンですよ。背が高くて顔立ちが整ってて声が良くて珈琲が美味しい。も~~それで私にまで優しいなんてなにかのバグですよ! 私が樒さん相手に踏ん切りつかないのは、結局なんだか無理めの相手だなって感じがひしひしするからです。どこに私と同レベルの、私に釣り合う相手がいるんですか? その考えが傲慢なんでしょうか。は~」
卑屈なつもりはなく、高望みをしたくないだけなのに、周りにハイレベルな相手しかいない。
(これは惨めなことなのよ。身の程を知っているはずなのに、周りのレベルがおかしいから、結果的に私が身の程知らずな女になっているじゃない!)
結論が出たところで、エレナは両手で頭を抱えた。
超ウルトラスーパー他責思考に陥っている自覚があり、自己嫌悪がとどまるところを知らない。
押し問答に見切りをつけた樒は、さっと身を翻してカウンターへと向かった。
「とりあえず、珈琲淹れるよ。珈琲にはそれなりの自信のあるCEOだよ?」
ふざけた調子で言われて、エレナは「お願いします」と答えて後に続いた。
朝起きてからずっと感情の揺れがおかしい。
珈琲を飲んで落ち着こう、と思った。
最初のコメントを投稿しよう!