Just trust yourself, then you will know how to live.

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 エレナは、窓際のテーブル席へと向かった。  カウンターの向こうで湯を沸かす樒は、別段声をかけてくることもない。  小さな作業音だけが、カチャカチャと聞こえてくる。 「暑いので、窓開けても良いですか」 「エアコン入れるよ」 「お客さん他にいないので……、あ、樒さんのそこ、暑いですよね。すみません。つけてください」  広いお店に二人なのにもったいない、と断りかけたエレナであったが、すぐに思い違いに気づく。カウンターの中で火を扱って作業している樒の方が、暑いはずだなのだと。  樒は手を止めぬまま、エレナへ笑みを向けた。 「自分が我慢すれば良いって、真っ先に考える性格なんだろうね。それなのに、他人を巻き込んだことにすぐ気づくのは感心する。そういうひとって、『自分だけが我慢している』って視野狭くなりがちで、他人の犠牲も軽く見るものだと思っていたから」  どうでしょう、私はそこまで考えてません、と反射的に言い返しそうになったエレナであったが、言う寸前でからくも飲み込んだ。 (樒さんの言葉に悪意はないのに、否定ばかりしていたらただの嫌味だ。私、感じ悪い)  返事に悩みながら、「樒さんはそうやって、人の言動をすぐに自分なりに解釈して、わかりやすく言語化できるのがすごいですね」と正直な思いを告げた。  手近なテーブル席の椅子を引き、ぐったりと腰掛ける。  そう? と問うような相槌を打たれて、エレナは顔を上げた。リモコンを手にした樒の動きを、目で追う。  長身の男性は伊久磨でだいぶ見慣れたつもりであったが、樒はやはり背が高い。距離があるのに、大きく見える。  横顔はとても整っていた。繊細な顔立ちの香織や、造形の美しい聖とはまた違った意味で、呆れるほど男前だ。  もし彼と付き合ったら、あの顔とキスをして、あの腕の中に収まるのか、と想像してみる。  エレナは両手で、顔を覆った。 「……今度はどうした?」  気遣いに満ちた声で尋ねられて、エレナはいたたまれない思いで力なく首を振った。 「いけない妄想をしました。思春期みたいな」 「へえ。興味あるな。どういうの?」 「樒さんと付き合ったら、どういう感じなのかなって……あっ」  一瞬、信じられないほど頭が素直になっていて、思ったままのことを口にしてしまった。  リモコンを置いた樒が、あはは、と笑い声を上げる。 「すみません、決してそんな変なことでは」  つっこまれまいとして、やぶ蛇をした。ほとんど自白したようなものだ。  まさにその考えを見抜いたように、樒はにこにこと目を細める。 「変でもエロくても俺は別に全然構わないし大歓迎なんだけど、いま? とは思った。知り合ってから結構時間経ってるのに、俺を意識した瞬間がいまなんだ?」 「意識ですか……!?」  さほど恋愛沙汰に敏感ではない自覚のあるエレナであったが、これはさすがに間違いようがない。「意識した」と言葉にされることにより、意識させられる。エレナに対して、恋慕を隠さない樒と、鍵のかけられた密室で二人きりであることに。 「えっと、あの……。こんな朝っぱらから、変なことにはなりませんよね!?」  変なことってなんだろう!? と焦りながら口走ると、樒がものの見事につぼに入ってしまったようで、爆笑した。  大声で笑うイメージがない相手だっただけに、エレナは呆然とその様子を見守ってしまう。 (笑うんだ……。なんだか新鮮。そういえば西條くんがコーヒー習ってるって言ってたけど、男同士だとこんな感じでふざけてるのかな……。楽しそう)  自分も男だったら混ざるのに、と思ってまた落ち込みそうになる。  引け目だ。  椿邸で二人と暮らしている以上、誰にどんな目で見られて、何を言われても仕方ないと覚悟をしていたはずなのに、いざとなると「わきまえた女」でいようとしてしまう。男同士で楽しくしている場に、ずかずかと我が物顔で乗り込んだりしません、と。  恋人ができたと聞けば、「物わかりの良い友人」の立ち位置から応援してみせる。  この短期間で、伊久磨と由春、そして聖を見送ったのだ。  それは、女性でありながら彼らの間に位置を占めてしまった自分ができる、けじめだと思っていた。  物欲しそうな顔なんかしない、と。  実際に、これまではそれでなんとかやってこれたのだ。  自分でもよくわかっている。伊久磨にしても由春にしても、昔なじみで運命的に再会した聖でさえも、赤い糸で繋がれた相手ではないと、受け入れてきたのだから。  恋愛に対して「今はそのときではない」という気持ちも強く、好意を抱いても簡単に諦めることができた。  それが、今になって「諦める必要がない、問題のない相手」が目の前にあらわれて、途方に暮れているのだ。自分はいったいどうしたいのか? と。  楽しげに笑い続けていた樒は、笑いすぎて息を乱しながら、エレナを見た。 「いつもの習慣でお湯を沸かしていたけど、アイスコーヒーの方がいいね。藤崎さん、顔赤いよ?」  重ねてからかわれて、エレナは言い返せずに、樒を睨み返す。  鏡が目の前にないのでわからないが、たしかに赤い顔をしているのだろうと思った。頬が熱い。 (樒さんのペースになってる……っ。追い詰められているような気がするけど、変なことはしないですよね!? 今はまだ、朝だし!!)  いつになく思考が妙な方に流れるのは、朝帰りをした聖にばったり会い、色事めいた空気にあてられたせいかもしれない。  元同級生とはいえ、今となっては家族のような間柄で、彼がどこで何をしていたかなんて想像もしたくないのだが、「そういうことが世の中には実際にある」と思い出してしまったのだ。つまり、恋人関係になればすることはするんだ、という。  でも大丈夫、樒さんと自分に限ってそんなことはない、大丈夫、とエレナはしきりと心の中で自分に言い聞かせる。そう信じたいがゆえに。  カウンターの奥に立った樒は、エレナからそっと視線を外して、瞑目すると深い溜め息をついた。 (やばい。顔赤くして睨みつけてくるの、可愛すぎる。普段とのギャップがえぐい。自分で気づいてないんだろうなぁ……魔性……)  椿邸の同居人男子二人、エレナとはまったく恋愛関係には無いとはいっても、意識しているのは端々から感じるのだ。美人が目の前をうろうろしていれば、どうしたって気にはなるだろう、と樒もその気持はよくわかる。  だからこそ、あの無防備なエレナをいつまでもそこには置いておけない。  そこで、かねてから彼女に言おうと思っていたことを、この機会に切り出すことに決めた。
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