Just trust yourself, then you will know how to live.

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 スマホで予約サイトから近隣の温泉宿を見つけたのは樒で「日帰りもあるけど、宿泊?」と聞かれて、エレナが何も考えずに「ゆっくりしたい」とだけ答えたら、そういう話になった。  一度解散して、旅支度を整えて四十分後に集合。「考える時間があると、迷うだろうから」というのが樒の言い分で、樒が家に帰って車で戻るのに要する時間がそれでギリギリとのこと。  待ち合わせ場所に乗り付けてきた車はエンブレムに星のマークがついた普通車で、色は白。  助手席をすすめられて乗り込んでから、あっという間の出発。 「宿に入る時間、遅めにしたから日中行きたいところがあればどこでも。小岩井農場でも龍泉洞でも中尊寺でも。朝早いから、県またいでも結構遠くまで行ける。戻ってこれなければ温泉はキャンセルして、別のところに泊まれば良いだけだ」  エレナは運転席の樒の言葉に耳を傾けつつ、スマホを片手にぼんやりとフロントガラスを見ていた。  まだ朝だ。学校をサボって、遠くへ行こうとしている。少し、現実感がない。 「行こうと思って、行けるものなんですね。温泉」 「大人だからね。飛行機乗って日帰りで、北海道でも沖縄でも行けるかな。俺は行くなら四国が良い。うどん食いたい」 「私も、うどん好きです。讃岐うどんってどのくらい美味しいのか、興味あります。ところで、この車はいまどこへ向かってます?」 「龍泉洞。日本三大鍾乳洞だよ。もう行った? というか、藤崎さんは観光してる?」 「……してないです。特にどこにも行ってません」  本当に休日を「無」にしてきた事実に、このときようやく気づいた。  年明けにこの街へ引っ越してきてすぐに「海の星」で働き始め、春からは専門学校生になった。シェアハウスのような暮らしで、家からわざわざ出かけなくても、話し相手にも食事相手にも困らない。気づいたらその調子で、用事以外は椿邸にひきこもり状態で半年近く過ぎていた。 「外の空気、吸ってませんでした」 「そうだろうね。いつもいつも、あいつらの吐いた二酸化炭素の中で生活していたんだろうな」 「その言い方は、どうなんですかね……」  抵抗はあるものの、否定しがたい。  たしかに、同居人たちと同じ空気を吸って、同じごはんを食べていた。線引はしていたつもりだが、家族のように馴染んでいて、居心地の良さにずるずると引きずられていた。 「それでさ、藤崎さんはなんだかんだあの二人に甘やかされてきたと思うよ。あいつら、他人に求めるものが無いから、見返りを要求しない割に、親切だろ」 「心情的には認めにくいですけど、そうだと思います。西條くんは古い知り合いというのもありますけど、香織さんは……本当に、心がない……。あの、いまのは『下心』がない、の意味ですよ!? ひとでなしという意味ではなくて、他人に何も期待していない感じがするって意味です!」  エレナが慌てて言うと、正面を見たまま、樒が声を立てて笑った。 「まあ、そうだな。香織も欲しいものが無いわけじゃないんだろうけど、他人に寄りかからないし、ひとりで完結してるから、こっちから世話を焼いたり手を出しにくいってのはあるよな」  言葉足らずなエレナの表現を、樒が的確に埋めていく。  香織はいつだってあまり他人を必要としておらず、ギブアンドテイクが成立しにくいため、踏み込みにくい。本人のせいではないが、あまりにも自分をなげうつことに関して無防備なので、搾取するだけの関係にならないようにしようと思うと、距離ができる。  おそらくそれは不必要な気遣いなのだが、自分と一緒にいることが、彼にとっては「得」ではなく「損」になっているのではないかと、ひやりとするのだ。  そして「損」をさせたくないと思えばこそ、近づくのを自制してしまう。 「やっぱり、樒さんから見ても、香織さんってそうなんですね」 「ちなみに俺は下心です。客室露天風呂付きの部屋を予約しました」  信号で停まったところで、とても良い笑顔を向けてきた。  その顔をじっ……と見返して、エレナは「裸、ひとに見られても平気なんですか?」と聞き返した。 「俺はべつに、見られても平気」  すかさず、エレナはそこから畳み掛けた。 「裸族なんですか? 家の中でも裸でうろついてしまうんですか? あの二人はそういうこと一切しないので、今まで考えたこともなかったです。裸の付き合いのつもりですか?」 「あれ? なんだろうこの会話。裸の付き合いのつもりですって言えば、付き合ってくれるってこと?」 「私は裸族ではありませんし、普段からお風呂はひとりで入っていますので、当然ひとりで入りたいです。まさか一緒に入ったりしませんよね? 私が入っている間は女湯ですが?」  了解……。と低い声で返事があった。そこから、少しの間車内は静けさに包まれた。  スマホで、行き先である龍泉洞を調べようとしてから、エレナはちらっと樒に視線を向ける。とげのある自分の言葉が、まだ耳の奥で響いている。やってしまった、との自覚があった。 「ごめんなさい。言い過ぎました」 「謝らなくていいけど、ここで謝る藤崎さんは性格が良いなって思う。嫌な空気にならないように、いつも気を遣ってる」 「樒さんこそ。助ける必要のない相手まで、よく助けますよね。下心だなんだってごまかしてますけど、私が嫌だということは強要する気はないですよね? ボランティア精神がすごい」  横顔に語りかけると、樒は前を向いたまま苦笑した。 「藤崎さんは自分を過小評価していると思うけど……。俺は据え膳は食うよ、椿邸の二人とは違う。ただ、ボランティアで終わっても良いかなって気持ちも、ある。その意味では藤崎さんが未成年だとか人妻だとか、何か絶対誘えない理由のあるひとじゃない限り、どこかに連れ出したいと思えば声をかけただろうな」 「それは人が良すぎる……」  素直な感想が、口をついて出てしまった。 (私は自分を過小評価しているかもしれないけど、樒さんは自分を安く売りすぎだと思う)  損をしていないだろうか? と、心配になってくる。  それとも、長い人生のどこかで、取り返せるつもりなのだろうか。  エレナの心配を見透かしたように、樒は「俺はね」と切り出してきた。 「誰かを救いたいとか、救わなければという気持ちがもし少しであれば、隣りにいるひとを救えば良いのにって、考えるんだ」 「救う、ですか」 「そう」  カーナビを確認することもなく、迷いなく運転をしながら、樒は穏やかな声で続ける。 「どこか遠くの、言葉もわからず歴史に馴染みもない場所で、戦争が起きていて、いまこうしている間にもひとがたくさん死んでいる。そう考えると、焦るよな。なぜその土地では対立があり、この文明の時代に戦争が行われているのか。勉強して、自分なりの考えを持って、どちらに味方をするか表明して、SNSで正義を叫ばなければならない。行動を起こさない奴らを、平和ボケした不勉強な奴って目で見ながら――もしかしたらそれで何かを動かせるかもしれないし、地球の反対側でも『あなたの味方だよ』と自分の国の言葉で叫ぶひとがいれば、世界は変わる、そういう考えもあるかもしれない。俺は少し違う」  話す樒の邪魔にならないよう、エレナは呼吸までひそめながら「はい」と最小限の返事をした。  心のぐずぐずとした弱い部分に、直接ふれられたような感覚があった。このひとはいま真面目な話をしているのだ、とひしひしと感じた。 「その正義感、使命感。知らないことは罪で、無知は愚かだという罪悪感めいたものに対して、俺は答えを持っていない。ただ、そういう遠い場所の誰かじゃなくて、身近な声や手の届く範囲にも、日々の助けを必要としているひとはいるんじゃないかと、考えている。そういう相手に直接関わっていく方が、ハードル高いと思うし、リスクもあると思う、俺はね。その難しさに直面したときに『人を助ける』大変さを感じるんだけど、一回一回きちんと積み重ねていく中で、世界は少しずつ良くなるって信じているんだ」  樒さんの目標は、世界平和なんですね、と茶化せる雰囲気ではなかった。 (年上の、こんなきちんとした男のひとに、ものすごく大切な話を聞かせてもらってしまった……)  たとえ普段から考えていたとしても、それを他人に言おうと思うことは、なかなか無いのではないだろうか。  ともすれば、大局を見ることなく、卑近(ひきん)な物事だけを大切に生きている、取るに足りない人間のように思われても不思議はない考えだからだ。  身近なひとの救いだけを考えている、だなんて。 「それを自分の考えとして、言葉で他人に伝えることができる樒さんは、すごいなと、思います」  樒は「そう?」と軽い調子で聞き返してきた。 「単に、立派なこと言う大人が嫌いなだけなんだよ、ずーっと。地域の名士が家では暴君とか、ありがちだろ。本人は奉仕活動には熱心なのに、家族は暗い顔をしている、とかさ。もちろんバランスは大切だと思う。奉仕活動だって、誰かがしなければ成り立たない。でもさ、身近なひとから幸せにしろよって、俺はそういうこと考えちゃう小さい人間なわけ」  少しだけ早口で言い終えてから、ついでのように付け足した。  背はでかいけどね、蜷川には負けるけど、と。  それから「結構時間かかりそうだから、そのへんのコンビニで何か食べ物買おう、赤信号になったら口元まで運んで食べさせてくれたら嬉しいな」と笑い飛ばす。  エレナは、樒が茶化そうとしている空気に負けじと、真剣な顔を保ったまま「いいですよ」と答えた。   「それで樒さんが幸せを感じてくれるなら、今日は私も尽くします。遠慮せず、なんでもお願いしてください」    真面目に言ったのに、少し考えた樒が呟いたのは「じゃあ、夜は一緒に温泉入ろうか」だった。
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