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最低の一日
その知らせを受けた時、彩人はいつものように第三スタジオで自主練に励んでいた。そう、大きな変化はいつもさりげなく、日常に切れ目を入れる。
「ほら言っただろ、ここにいるって」
何事か言い合いながら、二人の青年がスタジオに入ってくる。その一人、ハオランが勝ち誇ってウィンクした。
「何だよ、スターバックスでラテすすってると思ったのに」
後から入ってきたリックが、唇を尖らせる。どうやら、賭けの対象にされていたらしい。彼が何ドルか巻き上げられているのが見えて、彩人はやれやれと苦笑した。
この場所、この時間は彩人のお気に入りだ。森のような静けさ。モップをかけた後の清潔な匂い。青と黄色の混じったポプラの木漏れ日。アパートの自分の部屋よりも、しっくりくる。当然だ。人生の大半をバレエスタジオで過ごし、自転車の乗り方よりも先に、五つのポジションを覚えたのだから。
アヤトはバーにかけていたタオルで顔を拭い、二人に向かって微笑みかけた。
「おはよう。ふたりとも、早いね」
「おはよう。先に来ているお前に言われると、嫌味だな」
「え? そんなつもりは」と慌てて否定すると、ハオランはくすりと笑みを漏らした。彼は彩人と同じアジア系だが、すらっとして背が高い。あまり身長が伸びなかった彩人からすれば、羨ましい限りだ。
「もう自主練してたのか?」
「うん、まあ」
「ああ、嫌だ嫌だ! 自分だけ抜け駆けする気だこいつ!」
言うなり、リックがヘッドロックをかけてきた。短く刈った金髪、両耳に並んだピアス。彼がストリートではなく、バレエスタジオにいるのがいまだもって不思議だ。
三人はクイーンズで同居するルームメイトであり、同時に役を取り合うライバルだ。彩人とリックは同期、ハオランは数年先輩。ダンサーたちはみんな日々研鑽を積み、虎視眈々と主役、あるいはそれに準ずる役を狙って競い合っている。それでも、二人が気の置けない友人であることに、変わりはなかった。
「どうせロミオのヴァリエーションでも練習してたんだろ?」
疑わしそうに目を眇めるリックに、彩人は「まさか」と答えて彼の腕を外した。
この秋シーズンでは『ロミオとジュリエット』の公演が予定されている。まだ配役発表はされておらず、みんな自分がどんな役を割り当てられるのかと、悶々とした日々を過ごしていた。我こそはと、こっそりお目あての役を練習している者も、少なくないだろう。
だが彩人がさきほどまで踊っていたのは、『白鳥の湖』第一幕、王子のヴァリエーションだ。ジークフリートは彩人の十八番で、今でも朝のウォーミングアップ代わりに踊っている。十八歳の時にはローザンヌ国際バレエコンクールの課題に選び、それこそ曲が夢の中でも流れるほど練習し――
ああ、よせよせ――懐かしい思い出と同時に蘇る苦々しい感情に、彩人は小さく頭を振った。
「ロミオのヴァリエーションなんか練習したって、意味ないよ。僕が選ばれることは、ないだろうからさ」
口元に、ふっと自虐的な笑みがともる。
十九歳でニューヨークへ渡ってきて四年。ファースト・ソリストにまで昇格したが、まだまだ与えられる役は名前もない端役ばかりだ。理由は分かっている。身体が小さいうえに、花のある顔立ちでもなく、技術もまだまだ未熟なせいだ。
壁一面に貼られた鏡に映る、細身の青年の姿。乱れた黒髪に、丸みを帯びた頬、背中から腰にかけてのすんなりとしたラインは、どことなく心もとない。東京で暮らす母は「優しくてきれいな王子様」と褒めちぎるが、童顔の王子様では王女は守れない。
せめてもう少し背が高ければ、役の幅が広がるのに。それであともうちょっと顔の彫りが深くて、気品があって――足りないものを数え、ため息が出る。ようやくプロになれたのに、自信のなさは変わらないままだ。
「ハリスか、ベンヴォーリオでも踊れたらいいな……まあ、それも運が良ければだけど」
ぼんやりと他人事のように呟く彩人を前に、二人は顔を合わせた。
彼らの唇が、にやりと笑った。
彩人たちが所属するアーロンBCは、マンハッタンに本拠地を置くバレエ団だ。
ニューヨーク・シティ・バレエ団やアメリカン・バレエ・シアターと比べて規模も小さく、設立して十年あまりと歴史も浅い。だがその分、若くて個性の光る人材が多く集まり、挑戦的な演出や配役には定評があった。近年は古典作品からモダンまで、レパートリーを強化し、シーズンごとにチケットの売り上げを伸ばしていた。
この秋上演する『ロミオとジュリエット』は、誰もが知るシェイクスピア原作のドラマティック・バレエの名作だ。ケネス・マクミランやルドルフ・ヌレエフ、ジョン・クランコなど名だたるダンサーたちによって振り付けがされ、多くのバレエ団で上演されている。
この作品の主軸として描かれているのは、ジュリエットの成長である。だが今回、アーロンBCが手掛ける『ロミオとジュリエット』は、ロミオの内面に重点を置くと宣言されていた。振付も過去のものから刷新され、全く新しい作品に生まれ変わるのだ。
ロミオの内面、感情をより豊かに表現する初めての試みであるだけに、誰がその役を担うのか――カンパニーはその噂で持ちきりだった。
第三スタジオを出て廊下を曲がり、そのままロビーへ向かってまっすぐ進んでいる――はずだ。リックが背後から両目を塞いでいるせいで、感覚で位置を測るしかない。
「痛った! リック、いい加減離せよ!」
廊下の角に足をぶつけ、思わず抗議の声を上げる。にも関わらず、リックは「いいからいいから」と後ろからぐいぐい押してくる。さっきからすれ違う人やベンチにぶつかり、周囲に迷惑をかけまくっていた。
二人が言うには、先ほど配役表がロビーに貼り出されたとのことだった。
専属振付家であり、芸術監督でもあるジョルジュ・クプランは、現在身内に不幸があってフランスに一時帰国している。配役の発表は彼が戻ってきてからと思われていたが、つい先ほどメールで配役表が送られてきたそうだ。
掲示板の前にたどり着いたのか、周囲に人が密集していた。方々から自分にあてがわれた役に歓喜したり、嘆息したりする声が上がっている。配役の発表は、シーズンを迎えるたびに訪れる緊張の瞬間だ。
「いくぞ、彩人。オープン!」
とびきりのプレゼントを開くように、リックの手が離れた。頭上から注ぐライトの光にさらされ、一瞬目がくらむ。
乳母、パリス、ベンヴォーリオ、マキューシオ、ティボルト、ジュリエット――村娘や兵士などの端役の上部に、主要なキャストが並んでいる。その中の一つに、彩人の目は釘付けになった。
Romeo――SAIBARA AYATO
もう一度、配役表を上から下まで確認する。見間違いじゃないか? 嘘じゃないか?
「すげえよ、彩人! お前がロミオだ!」
呆然とする彩人の肩をリックが叩いた。彼の声が入ってこない。頭の回路が切れたみたいに。
「あーあ、とうとう追い越されたな。俺はマキューシオだよ」
ハオランは悔しそうにため息をつくが、マキューシオはロミオの友人で見せ場も多い役どころだ。彼が自分と近しい役に選ばれたことも、彩人の喜びに拍車をかけた。
「うわあ、ど、どうしよう!」
彩人は『ホームアローン』のように顔に手を当て、声を上げた。
「こんなの、夢みたいだ……どうしたらいい?」
「とりあえず、ハグでもする?」
その言葉に甘えて、リックに力いっぱいハグした。持つべきものは友達だ。
演技も未熟で体格的にも不利な自分が、ロミオ? どうして主役に選ばれたのか、全然分からない。
だが不安が大きい分、湧き上がる喜びも大きい。この瞬間のために、子供の頃から鍛錬し、多くのものを犠牲にしてきたのだ。
絶対に成功させたい。期待とやる気が、彩人の胸を熱くした。
そうやって感極まっていると、どしん! と熱の固まりが飛びついてきた。彩人はたまらず「うっ!」と声を詰まらせる。
「わあ、素敵素敵! わたしたち、やっとペアで踊れるのね!」
そう言って上目遣いで微笑みかけてきたのは、ルーシー・ブロックだった。
彼女はカンパニーが売り出している、注目の若手ダンサーだ。華奢な肢体からは想像もできない身体能力に、豊かな演技力、そして妖精を思わせる可憐な容姿は、見る者を瞬く間に虜にする。昨年『白鳥の湖』で演じた無垢なオデットと妖艶なオディールの一人二役は、業界内でも高く評価された。年内にもプリンシパルに指名されると噂が立っている。
「ほら、ほら、わたしはジュリエット! せっかくだから、一緒に写真撮りましょ!」
ルーシーは彩人を配役表の真ん前に引っ張り、「イエーイ!」とスマートフォンのシャッターを押した。彼女の爪もスマートフォンケースも、キラキラの派手派手。一人でブロードウェイミュージカルでもやっているみたいだと、彩人はいつも思う。
「彩人ならロミオにぴったりね。きっと素敵な舞台になるわ。楽しみ!」
彩人の肩に、ルーシーはチークを塗った頬を寄せる。女性特有の甘い体臭と、クロエの香水が香った。
「ええと、ルーシー。僕たちそろそろ行かなきゃいけないんだけど……」
さりげなく腕をはずそうとすると、「えー、じゃあルースも一緒に行く!」とさらにしがみついてきた。彼女の手はいつも冷たい。人形の手のようだ。
外見は可憐な妖精のようだが、油断は禁物だ。彼女はこの美貌と人気をいいことに、複数人のダンサーやファンと交際しているとの噂が立っていた。やっかみからくるデマだと思うが、彼女が今の地位にいるのはスポンサーと寝たからだ、なんて話を耳にしたこともある。
最近は彩人の何を気に入ったのか、こうして事あるごとに絡んでくるのが悩みだった。好意を向けてくれるのはありがたいが、正直やめてほしい。彼女と付き合っているなどと、妙な噂が広まったら面倒だ。
ふいに、誰かと肩がぶつかった。反射的に「あ、ごめん」と謝ったが、明らかにわざとぶつかってきたような、不自然な動きだった。
人だかりの中、広い背中がちらりと見えた。トレヴァー・リースだ。彼は彩人に一瞥をくれたものの、無言で歩き去っていった。
彼はプリンシパルの一人で、カンパニーの花形だ。長身で手足が長く、ダイナミックな動きが特徴だ。野性味のある甘い顔立ちは、『海賊』のアリや『ラ・バヤデール』のソロルといった役がよく似合う。
今回、彼はティボルトに指名されていた。物語の中でも重要な役どころなのに、なぜあんなに不機嫌なのか。彼は肩で周囲の人間を押し退けるようにしながら、更衣室の方へと去っていった。
「主役を取られて怒ってるのよ」
耳元で、ルーシーが囁いた。
「若手の子が自分より目立つのが気に入らないのね。気にしなくていいのよ、彩人。ジョルジュはあなたの実力を認めているんだから」
くすくすと笑って、ルーシーは気安く前髪を撫でてくる。励ましてくれるのは分かるが、もう少しパーソナルスペースというものを考えてくれないものか。
主役に選ばれるのは嬉しいし、やり遂げたいという意欲もある。だが、これからは同期や先輩たちからの嫉妬を向けられることになるのだろう。この世界では当たり前のことだが、自分がその的になるのだと思うと少し憂鬱だった。
「あなたたち、まだこんな所にいたの?」
鋭い声と共に、パンパンと手をたたく音がロビーに鳴り響いた。
バレエ・ミストレスのルイーザだ。芸術監督が不在の今、彼女がダンサーたちを仕切っている。
「これからミーティングよ。ほらほら、みんな第二スタジオに行って」
ルイーザに追い立てられ、彩人たちはぞろぞろと階段を上った。その間も、ルーシーは腕にしがみついたままだ。まるで公私ともに、自分は彩人のジュリエットなのだと言わんばかりに。
きっと普通の男だったら、彼女の甘やかな体臭や、柔らかな感触にすぐさま参ってしまうのだろう。実際、彩人だって彼女を可愛らしいと思うし、好意を向けられて悪い気もしない。男の本能に従うのならば、心も体も彼女を「欲しい」と思うはずだ。
でも――
彩人はルーシーに気付かれないよう、そっとため息を吐いた。
その日はキックオフ・ミーティングと振り写し――指導者から直接振付の教えを受けること――で一日が終わった。初めての振付と慣れないパートナーに、彩人はおたおたしてばかりだった。技術的な難易度はそれほど高くないのだが、繊細な感情表現を求められるのがこの役の難しいところだ。
「ほら彩人、もっとしっかりルーシーをホールドして」
第一スタジオに、ルイーザの叱責が飛ぶ。寝室のパ・ド・ドゥの場面だ。
「恥ずかしがっちゃだめよ。あなたが童貞でも、レッスンではそうじゃない振りするの」
彼女の余計なひと言に、周囲からくすくすと笑いが上がる。赤面する彩人に、ルーシーもまた笑みを殺していた。彼女はほぼ完璧に振付をこなしているだけに、自分の稚拙さがなおさら際立っている。恥ずかしがっていると思われるようでは、プロ失格だ。
午後六時をすぎた時点でレッスンを終えたが、彩人は第三スタジオにひとりで残っていた。
あんなふがいない有様では、ジョルジュに見せられない――ルイーザにも手ひどくやられたが、彼なら「猿の方がまだ上手く求愛できるぞ」くらい言いかねない。バレエ・ピアニストはすでに帰ってしまったので、CDを何度もかけ直し、振付を身体に叩き込んだ。
そうして没頭しているうちに、八時をとっくに過ぎていた。クールダウンし、くたくたになった足をひきずって更衣室へ。ラウンジからは談笑する声が聞こえるが、更衣室には誰もいなかった。忘れ去られた物置のように、しんと静まり返っている。
シャワー室でウェアとダンスベルトを脱ぎ捨て――まったく、こいつの履き心地にはいつまでも慣れない――ざっと汗を流した。くたびれきった身体を温かい雨が打つ、一日で最も心地よい瞬間。
久しく忘れていた充実感だった。主役なんかできっこないと不貞腐れていた中、突然舞い降りてきたチャンス。アメリカンドリームなんて古い言い回しをするつもりはないが、まさしくそれを掴みかけている気がする。
不安はあるが、希望もある。そして純粋に踊ることが楽しい。レッスンの間も、自主練習も、やっとポジションを覚えたばかりの子どものようにわくわくしていた。
ロミオを踊りきれば、きっと自信がつく。自分を好きになれる。十代の惨めな過去も、忘れられる。そう、あいつを追い越せば――
彩人はスウェットの下だけ履いて、シャワー室を出た。わしわしとタオルで頭を拭いて、ドライヤーの風を吹き付ける。
ふいに、誰かが入ってくる気配があった。他にまだ誰か残っていたのか。
誰かの気配が、背後でぴたりと止まる。
「やあ、お疲れ」
挨拶しながら振り返り――固まった。
そこにいたのは、ルーシーだった。
「ル――」
唇がうわずった声を上げようとした瞬間、ルーシーの指が止めた。
「しぃっ、誰かが来るでしょ」
彼女にたしなめられる。
「何でここに――男子更衣室だよ?」
「分かってるわよ、それくらい」
逆に「あんた馬鹿なの?」と言わんばかりに、ルーシーは唇をとがらせる。メイクを直したのか、唇が油でも塗ったようにつやつやだ。それなのに、服装はレオタードのままだった。
「じゃあ、な、な、なんでここに……」
「な、な、なんでかって?」
ルーシーは彩人の口真似をして、くすくすと細い肩を揺らす。後れ毛が張り付く首筋のラインが、いやに艶めかしかった。
「わたし、もっと彩人と話がしたいの」
そう言って、ルーシーは怪しげな微笑とともに距離を詰めてきた。
「は、話?」
「そう。ほら、わたしたち、これからパートナーを組むのよ? もっとお互いの事をよく知った方が、良いと思うの」
それはいい心がけだ。ここが更衣室でさえなければ。彩人は曖昧に笑って、返答を濁した。
「彩人はわたしのこと、どう思ってるの?」
背中がシャワー室の壁に触れ、ひやりとした。いつの間にか猫を前にしたネズミのように、追い込まれている。
まずい――こんなところを誰かに見られたら、たちどころに噂になってしまう。それだけはごめんだ。
「どうって……すごいダンサーだと思うよ、本当に」
「それだけ? 他には?」
裸の肩に触れられて、ぞくっとした。どうして彼女の手は、いつもひんやりしているのだろう。胸の奥で、心臓が痛いくらい鳴っている。それは彼女の艶やかな微笑や、甘やかな香りに反応しているわけではなかった。
おどおどするばかりの彩人に業を煮やしたのか、「ねえ、何か言ってよ」とルーシーは迫ってきた。
「わたしたち、舞台では恋人になるのよ。わたしはあなたを愛し、あなたはわたしを愛するの。そうでなきゃ、どんな上手に踊っても、嘘になっちゃう。ね、そう思わない?」
彼女の声に滲む、艶めいた気配。きっと男なら、彼女の誘惑にたまらず屈伏するのだろう。この状況では、むしろそうなるのが自然だ。
だが――彩人は、ひくりと喉を鳴らした。
「わたしはもっと、あなたを深く知りたいの」
目を閉じたルーシーの唇が、ぐっと近づいてくる。
冷たい手が、首筋に触れた瞬間――緊張が弾けた。
「――っ」
気づけば、彩人はルーシーを突き飛ばしていた。一歩、二歩、よろめいた彼女は、いっぱいに目を見開いて、呆然と彩人を見上げる。まるで、ありえないことが起こったかのように。
「……その、ルーシー」
絞り出した声が、震えて滲む。かたかたと奥歯が鳴り、全身を悪寒が包んでいた。
「僕は――その、無理なんだ」
ルーシーは、しばらく不可解そうに震える彩人を凝視していたが――やがて、彼女の顔から表情が消えた。
「そう……あんた」
グロスで塗れた唇が、まがまがしく歪んだ。
「ゲイなのね」
ルーシーの声が、刃のように振り下ろされる。彩人は声にならない声を漏らし、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
そうだ、ゲイだ。
子供の頃から、ずっとそう。
誰にも話したことはなかった。家族も友人たちも、誰も知らない。彩人の絶対の秘密。
そしてこの先もずっと、秘密でなければならないのに――全身が虚脱して、ぐずぐずに崩れてしまいそうだった。
「――ルーシー」
彩人は蚊の鳴くような声で言った。
「頼むよ……頼むから、絶対誰にも言わないでくれ」
どうか、秘密を守ると言ってほしい――切実な願いを込めて、ルーシーを見た。
だが彼女の顔は、どす黒く膨れていた。
「ゲイ? ゲイですって――はっ、何なのよ、馬鹿みたい!」
すると、ガンッ! とけたたましい音があたりに響き渡った。彼女がぞんざいにスツールを蹴飛ばす姿に、彩人は唖然とする。
まるで人格が入れ替わったかのような変貌ぶりだ。潤んでいた目が血走り、完璧に塗り重ねたルージュが剥げている。白鳥の面がひっくり返って、黒鳥の顔が現れたかのようだった。
「最低よ、最低――ジョルジュに言うわ。役を降ろしてもらう」
「はあ?」
彩人は、弾かれたように立ち上がった。
「な、何で?」
「だって、そうじゃない。あんたはゲイ、ホモなんでしょ? 女を愛せない。そんな男に、ロミオを踊れると思うの? そんなの偽者よ。あんたはロミオにふさわしくない!」
ルーシーは金切り声をあげ、彩人の顔を指さした。まるで自分が裏切られたと言わんばかりに、ぽろぽろと涙をこぼしている。マスカラが溶けだした黒い涙が、彼女の頬を濡らした。
「最低、最低! わたしに近づかないで!」
ルーシーはそう言い捨てると、更衣室から飛び出して行った。彩人ははっとして、後を追う。
「待って、ルーシー。落ち着いて――」
「やだ、触らないでっ!」
腕を掴もうとした瞬間、鋭い痛みが走った。彼女のネイルに引っかかれ、手の甲に赤い線がにじむ。
「気持ち悪い……なんで、あんたみたいなのがいるのよ」
まっすぐに向けられる、嫌悪と侮蔑の目――それは引っかかれるよりも強く、深い痛みを胸に刻んだ。胸から全身へ、悪寒と恐怖が波紋のように広がっていく。
「みんなにだって、言ってやるわ。あんたみたいなホモが、そばにいるなんて耐えられない。絶対に、ここから追い出してやる」
ルーシーは涙声で吐き捨て、走り去っていった。パタパタという足音が、虚しく遠ざかっていく。
彩人はのろのろと更衣室に戻り、壁際のベンチにへたり込んだ。人は本当に絶望すると、涙は出ないらしい。全身が砂になって、ぼろぼろと崩れていくようだった。
きっと、明日にも自分がゲイだという噂が広がるだろう。そしたらどうなる? リックやハオランは、友達でいてくれるだろうか? それとも、みんな気持ち悪いと言って拒絶するだろうか。ルーシーのように。
そして、彼のように――
最高の気分から一転、最悪の気分に叩き落された。今日は最低の一日。きっと人生で、もっとも惨めな一日。
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