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脅迫
暦が十月に変わった頃、またやられた。彩人のロッカーが、再び何者かの手で荒らされたのだ。
今度はもっとひどい。中のウェアやシューズが、黒いインクでどろどろになっていた。彩人が開ける直前にやったのか、まだウェアがぐっしょりと濡れている。鼻をつくインクの臭いに、胸がむかむかした。
「彩人、どうした?」
怪訝そうに声をかけるリックを振り切り、彩人は更衣室を飛び出した。階段を一息に駆け上がり、第二スタジオに飛び込む。ウォームアップをしていたダンサーが数名、何事かと顔を上げた。
「トレヴァー!」
彩人は、女性ダンサーらと談笑するトレヴァーにつかつかと歩み寄った。
「お、お前いい加減にしろよ。あんなことをしたって、何の意味もないんだからな」
「なんのことだ?」
トレヴァーは眉をしかめる。その白々しさに、腹の底が煮えて溶け落ちそうだった。
「とぼけるなよ。僕のロッカーにインクぶちまけたのは、お前だろ」
「は? 知るかよ」
彼が漏らした笑いには、呆れとあざけりが混じっていた。やれやれ、とでもいうように、女性ダンサーらに目配せする。
「誰がそんなことするんだ、馬鹿馬鹿しい――お前、自分でやってるんじゃないのか?」
「なんだって?」
声が裏返った。あり得ない返答に、目眩すらした。
「刑事ドラマとかであるだろ? 事件の犯人が、自分が被害者の振りをするやつ。そんなことしたって、誰も同情なんかしないぜ」
侮蔑のこもった言葉の一つ一つに、頭がおかしくなりそうだった。お前はドラマの見すぎだ、馬鹿野郎。
「お、お前だって、怪しいのは一緒だろ!」
彩人はトレヴァーの鼻先に指を突きつけた。もともと人前で怒りを露わにするのも、口論するのも苦手だ。感情の抑えが効かず、舌先がもつれる。
「知ってるんだからな。お前だって、あの晩ここにいたじゃないか。何してたんだ?」
トレヴァーの顔から、さっと表情が消えた。秀でた額が強張る。
「……そんなこと、お前には関係ないだろ」
「関係ない?」
彩人は皮肉っぽい笑い方をした。
「そうだな……じゃあ、ルーシーに言い寄ってたことも、関係ないよな」
次の瞬間、トレヴァーに突き飛ばされた。足がもつれ、危うく倒れかける。
見ると、彼の目はつり上がり、赤く膨らんでいた。まるで荒れ狂う悪魔だ。広い胸が、激しく上下している。
「うるさい、黙れ!」
怒声を上げ、トレヴァーが掴みかかってきた。あわや彼と取っ組み合いになりかけたが、周囲のダンサーたちに止められ、それ以上は大事にならなかった。
その後のリハは最悪だった。いったん抜いた刃を納めたものの、ロミオとティボルトの殺陣の場面では全く息が合わなかった。彩人は危うく剣で顔を突かれかけ、トレヴァーは勢い余ってすっ転ぶ――本番までもう間がないというのに、とても人前では見せられない出来だった。
「この際どっちか本当に刺し殺されたらどうだ? きっと観客も盛り上がるぞ」
青筋を立てたジョルジュから、きわどい皮肉が飛んだ。もう殺人事件は勘弁してほしい。
リハが終わった後、リックに請われてロッカーの中を見せた。
そこには今朝と変わらない、悲惨な光景が広がっていた。帰ったらインクまみれの衣類を洗わなければならないのかと思うとうんざりする。いっそ全部燃やしてしまおうか。ロッカーごと。
「うわー、ひでえなこれ」
まじまじとロッカーをのぞき込むリックは、心なしか面白がっているようにも見える。野次馬根性を隠さないのは彼の悪い癖だ。
「これをトレヴァーがやったって?」
「そうとしか考えられない」
彩人はイライラとして親指の爪を噛んだ。今日一日そんな調子だから、爪の先がぼろぼろだ。
聴取が行われたあの日、トレヴァーにかけられた言葉を覚えている。「お前は俺からすべてを奪った」と唸る彼の声には、殺意すらこもっていた。このカンパニーで彩人を一番目障りに思っているのは、間違いなく彼だ。
「リックも知ってるだろ? あいつは僕に役を奪られたと思って、目の敵にしてるんだ」
「ふうん……」
リックは探偵よろしく顎に手を添え、内側の悪戯書きを眺めている。彼には珍しく、考え込んでいるようだった。
「でもさあ、これ、ほんとにトレヴァーがやったのか?」
「え?」
彩人は聞き返した。
「何でそう思う?」
「んー、なんというか、トレヴァーっぽくないような……確かに、あいつは嫌なやつだけど、こんなことはしないんじゃないかな。陰険すぎるっていうか、みみっちいというか」
冷静なリックの言葉に、するすると頭に上った血が降りていった。
確かに、トレヴァーは直情型だ。気に入らないことがあれば、言葉や行動でストレートに示す。スタジオで彩人に掴みかかり、「お前が殺した」と罵ったように。FBIのプロファイラーじゃなくても、そんなことは分かりそうなものだった。
それなら、誰がこんなことを? 思考をかき乱され、混乱する。
「これって、ルーシーを殺した犯人がやったんじゃない?」
ぽつん、と何気なく吐き出されたリックの言葉に、ぞわっと悪寒が走った。
そんな可能性、あるのだろうか。もしそうだとしたら、次に狙われるのは彩人だ。でも、なんで? 何の恨みで?
「そんなマジな顔するなよ、冗談だって」
リックはけらけら笑いながら、肩を叩いてきた。自分は関係ないからって――彩人は呑気な友人を睨んだ。
「最近は盗難も流行ってるしさ、もしかしたら、そっちの犯人がやったことかもしれないだろ」
「え、そうなの?」
彩人は目をむいた。
「女どもが言ってたんだ。最近更衣室から、ポワントとかタイツが消えるって。そいつがやったんじゃないか?」
「それはそれで嫌だな……」
殺人事件に盗難事件。このバレエ団はいったいどうなっているんだ。
窃盗犯がロッカーに悪戯する目的も分からないし、ルーシーの殺害と同一犯だとしても、やはり理由が分からない。どんなに考えてみても、明確な答えは出てこなかった。こういう時、ミステリ小説の素人探偵なら何がしか閃きがあるのに。
これは、ゴードンに相談するべきなのだろうか。
あの晩渡されたメモは、結局バックパックのポケットに忍ばせてある。せっかくもらったのだからと、自分に言い訳をして。
「どんな小さなことでもいい」と彼は言っていたが、こんなことを相談してもいいものか。事件と関係あるか分からないのに、大事にするのも気が引ける。いやでも、もしかしたら関係あるかもしれないし――
気づけば、ゴードンに連絡をとる理由を探している自分がいた。
あのいたずらっ子のような笑顔で和ませてほしいし、馬鹿っぽい冗談を言って笑わせてほしい。嫌がらせの犯人を捕まえてくれなくてもいいから、ここへ来て元気づけてほしい。できたらまた頭を撫でてほしい。無理なら顔を見るだけでいい。
それだけでいい。そう、それ以上は望んじゃいけない。
彩人は、ぱたんとロッカーの扉を閉めた。この気持ちも、どこかに仕舞っておけたらいいのに。
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