事件

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事件

 夢を見なかったのは、せめてもの救いだった。見たなら、悪夢だったに違いないから。  ひどい目覚めだった。泣きはらした目は重く、手足は鉛が詰まったようにだるい。表の通りでは近所の中国人が大声で何やら話し、朝の静寂を台無しにしている。もう最悪。  いつもより一時間早く目が覚めたが、起き出す気になれなかった。窓の外が明るくなるにつれ、レッスンの時間が近づいてくる。じわりじわりと、導火線が短くなるように。  ――あいつはホモよ。薄汚いホモ。あいつにロミオなんて踊れやしない。  今頃、ルーシーがそんなふうに自分の性指向を暴露しているのかと思うと、胃袋がキリキリした。頭からシーツをかぶり、顔を枕に押しつける。だがそんなことをしても、おぞましいイメージは一向に去らなかった。  結局、遅刻ぎりぎりの時刻にベッドを抜け出し、マンハッタン行きの地下鉄に乗った。  もう逃げようが隠れようが、起こってしまったことは仕方がない。そう腹を決めて本部の門をくぐったが、すれ違う人々の目が恐かった。みんなが自分をじろじろと見ているような気がして、背中を丸めて廊下を足早に歩いた。  他のダンサーたちの視線を避け、こそこそと更衣室にすべりこむ。ロッカーの扉を開けようとした、その時だ。 「彩人! 俺のキャリーケース知らない?」 「ひゃっ!」  背後からかけられた声に、彩人は飛び上がった。振り返ると、リックも驚いたように目を丸くしている。 「うわぁ、びっくりした……なんだよ、大声出して」 「ご、ごめん」  彩人は謝罪し、肩を縮こまらせる。まだ心臓がどきどきしていた。 「お前がまだ更衣室にいるなんて、珍しいじゃん。どうした?」 「別に、寝坊しただけだよ」  リックは「ふうん」と生返事をし、隣のロッカーで着替え始める。鼻歌なんか歌いながら着替える彼の横顔からは、何の変化も見いだせなかった。  もしかして、知らない?  彩人がゲイであると噂を聞いたら、彼なら必ず態度に出るはずだ。たまたま聞いていないだけか? いや、彼は社交的で友達が多いから、すぐ耳に入る。  ルーシーはまだ誰にも話していないのだろうか。あんなヒステリーを起こし、彩人を不潔なもののように拒んでいたのに。  彼女が考え直してくれたのだと思いたい。最悪、役を降ろされても良いから、秘密だけは守ってほしい。 「ああ、そうだ」  リックが顔を上げ、反射的に視線をそらせた。 「俺のキャリーケースだけど、どこにいったか知らないか?」 「え、そんなのあった?」  彩人は眉根を寄せた。 「あったよ。夏にカリフォルニアから戻ってきてから、ずっと置いてただろ」  リックは更衣室の入り口のあたりを指さした。  そういえば、そんなものがあったような。長期旅行用のグレーのキャリーケースで、出入りするときひどく邪魔だった。ハオランがそれに足をぶつけるたび、「さっさと持ち帰れ」と小言を言っていたのを思い出した。 「困るんだよな、勝手に動かされると。中に着替えとか入ってるのに」 「置きっぱなしにしてるのが悪いんだろ」  彩人はリックを残し、スタジオに向かった。  レッスンはソリストとアーティストに別れて行われる。彩人はスタジオでハオランと合流し、ウォームアップを始めた。他のダンサーたちも広いスタジオのあちこちに散らばって、身体をほぐしていた。  いつもと変わらない光景だ。みんな和やかに談笑しながら、バーを掴んで身体を反らしたり、床に寝そべって足を上げたりしている。誰も彩人を気にして、噂している様子もない。ハオランも特に変わった様子もなく、iPodで音楽を聞きながらアップに励んでいる。何もかもがいつも通り過ぎて、不気味なくらいだ。  ふと、その中にルーシーがいないことに気づいた。  この時間なら、彼女もここでウォームアップをしているはずだ。気まぐれな性格だが、レッスンにだけは遅れたことがない。  なぜ――奇妙だが、少しだけ安堵した。彼女と顔を合わせずに済むのは、ありがたい。 「みんな、おはよう。全員そろっているかしら?」  きびきびとした足取りで、ルイーザがスタジオに入ってきた。その後に、ピアニスト、補助の講師と続く。  ダンサーたちは彼女の元に集まり、フロアに腰を下ろした。 「ルーシーは?」  周囲の顔ぶれを見渡し、ルイーザは眉をしかめる。 「主役がいないじゃない。誰か、休むって聞いてる?」  曇り顔のルイーザに、「知りませーん」と誰かが応じた。カンパニーの花形が不在だと言うのに、誰も気にしているふうではなかった。 「何なのあの子、信じられない! ジョルジュがいないからって……」  ルイーザは「みんな、先に始めていて」と言い残し、スタジオを出て行った。  結局、その日はルーシー不在のままレッスンが行われた。彩人には代役の女性ダンサーがあてがわれ、ルイーザの指導に従って粛々と踊った。しかしその間、頭を占拠していたのはルーシーの事だった。  調子に乗ったプリマの気まぐれ――みんなルーシーの無断欠席をそう考えているようだったが、彩人はどうしても不安をぬぐえずにいた。  どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。とても嫌な予感がする。それとも、考えすぎか? 昨日の事があって、神経が過敏になっているのかもしれない。  しかし彩人の予感は、的中することになる。  新しいシーズンのリハが始まると、空気は変わるものだ。  厳しいレッスンのストレス、緊張、そして本番を待ちわびる期待感――そんなピリピリとした空気は、嫌いじゃない。何か大きなものを作り上げるのだという楽しみが、むくむくと膨らむ。  だが、今朝の空気は異質だった。期待でも焦りでもない。本部へ足を踏み入れたときから、彩人の肌は異変を感じ取っていた。  ロビーから更衣室へ続く廊下に入ると、ダンサーたちがたむろしていた。ウェアやレオタードに着替えているのに、どうしてスタジオへ移動しないのか。みんな身を寄せ合い、顔をうつむけるようにして声を潜めていた。 「おはよう」  彩人は女性ダンサーのグループに声をかけた。 「何かあったの?」 「あったわよ、もう大事件」  ダンサーの一人が、興奮して言った。 「ルーシーが死んだんだって」 「え?」  間の抜けた声が、ぽろりと零れ落ちた。次の言葉が見つからない。 「しかも殺人事件」  別のダンサーが付け加えた。 「ブロンクスの廃墟で、死体が見つかったんですって。もうびっくり」 「本当よねえ」と、彼女らは芸能人のゴシップでも話題にするような調子で、うなずきあった。きっと殺人なんて非日常の出来事に、現実感をもてないのだろう。それは彩人も同じだ。もうびっくり。 「全員、第一スタジオに集合」  頭上から降るその声に、全員が視線を上げた。階段の踊り場から、ハオランがたむろするダンサーたちを見下ろしていた。 「ダンサーはスタジオで待機。総裁から説明があるそうだ」  ハオランに続いて、ダンサーたちはぞろぞろと二階のスタジオに移動した。その間も、おしゃべりが絶え間なく続いていたが、彩人はじっと息を詰め、集団に続いた。 「ルーシーが殺されたってマジ? なんでなんで?」  遅れてスタジオに入ってきたリックが、彩人とハオランのもとに駆け寄ってきた。通常通りにレッスンが行われていたら、彼はまた遅刻で叱責を受けていただろう。運のいい奴。 「知らないよ。まだ詳しいことは報道されていないみたいだ」 「公演はどうなんの? まさか中止?」 「さあな。今から説明があるんだろ」  ハオランはぞんざいに言って、肩をすくめた。周囲でいくつかのグループに分かれているダンサーたちも、公演の行く末を案じている。それはそうだ。彩人と同様、今回初めて重要な役を与えられた者も多いのだから。中止になれば、トップダンサーへの道がまた遠のく。  だが、それ以上に彩人が気がかりだったのは、全く別のことだった。  ――彼女は死ぬ前に、誰かに秘密を話しただろうか?  他に秘密を知る者がいるのか、それともいないのか。確かめたいが、そのすべがない。彩人に今できるのは、彼女が秘密を漏らす間もなく、死んだことを祈るだけだ。  ルーシー、どうか、永遠に黙っていてくれ―― 「彩人、大丈夫か?」  見れば、ふたりが心配そうに眉を寄せている。スタジオの鏡に映った彩人の顔は、今にも倒れそうなくらい青ざめていた。暑くもないのに、額には玉のような汗。 「ひどい顔してるぜ。熱でもあるんじゃないか?」 「いや、大丈夫だよ」  額に伸びてくるリックの手を、彩人は制した。微笑み返したが、どうしてもぎこちなかった。 「お前が殺したんじゃないのか、彩人」  ふいに、太い声が響きわたった。スタジオがしんと静まり返る。  首筋から、ゆっくりと血液が落ちていく。息が止まった。  振り返った先に、トレヴァーが立っていた。腰に手を当てた彼の目は、ぞっとするほど冷たい。 「今なんて言ったんだ、トレヴァー」  不穏な沈黙を押しのけるように、ハオランが口を開いた。 「お前がルーシーを殺したんじゃないかって、聞いているんだよ。なあ、彩人」  トレヴァーの視線は、質問したハオランを無視して彩人に固定されたままだった。それこそ剣を構えたティボルトが、ロミオと対峙するように。 「ルーシーと何かあったんだろ? 一昨日、お前たちが言い争ってるのを見たって、ステフが言ってる」 「なあ?」とトレヴァーが促すと、壁際にたたずむステフが遠慮がちにうなずいた。彼女はトレヴァーの恋人だ。いつも散歩中の犬のように、彼の後ろにひっついている。 「喧嘩して、かっとなって、お前が殺したんじゃないのか? なあ、どうなんだ?」  無数の視線が、一斉に彩人へと突き刺さった。首筋がまた、ひやりとすくむ。 「違う」  彩人は、ゆっくりと、噛みしめるように言った。 「僕は、殺してない。絶対に」 「そうだよ、彩人が殺すわけないじゃん」  すかさずリックが加勢に入ったが、トレヴァーの顔つきは険しいまま。周囲のダンサーたちも、重々しい表情で彩人を凝視している。 「じゃあ、何を争ってたんだ?」 「別に、何も……つまらないことだよ。ただの、思い違いなんだ」 「答えになってない」  はっ、とトレヴァーは呆れたように息を吐いた。侮蔑と嫌悪。顎を上げ、彩人を見下ろす切れ長の目に、それらがなみなみと漲っている。 「つまらないことっていうのは、つまり何なんだ? 後ろめたいことがあるから、そうやってはぐらかすんじゃないのか。ええ?」 「だから、それは――」  そこまで言いかけて、言葉が喉につっかえた。  つまらないこと? 彼女にゲイだって、ばれただけさ。  そんなふうに言えたら、どんなに楽だろう。だが、言えるはずがない。何か言おうとして口を開いたが、出てきたのは乾いたため息だけだった。  何か、言わなければ――みんな彩人の言葉を待っている。嘘でもいいから釈明しなければ、犯人にされてしまう。だが、全身が石のようになって、声ひとつ立てることもできない。冷たい汗が額を伝い、顔に透明な玉をいくつも作っていた。 「――この人殺し」  トレヴァーの手が、彩人のパーカーの襟元をつかんだ。その手は震え、彼の顔は赤黒く染まっている。ハシバミ色の瞳が、怒りと憎悪で潤んでいた。 「お前は俺から何もかも奪った――お前を殺してやる」  ぞっと鳥肌が立った。低く唸る声にこもった、確かな殺意。  極限の緊張にめまいを感じた瞬間――ガン、ガン、ガン、と重々しい金属音が響きわたった。  視線を向けた先で、見慣れないスーツ姿の男が立っていた。彼は金属製の扉に拳をついて、もたれかかるようにしている。 「えらく盛り上がってるじゃないか。俺も混ぜてくれよ」  男はにっと笑って、大股で歩いてきた。普段はポワントやバレエ・シューズが舞っている床の上で、革靴の踵がカツンカツンと軽快な音を立てる。  男はとにかく大きかった。長い手足と、幅の広い肩と胸。鮮やかな金髪を軍人風に刈り、日に焼けた肌はつやつやとしている。ただ歩いてくるだけなのに、妙な迫力があった。 「……誰だよ、あんた」  トレヴァーは胡乱げに男を見上げる。彼は長身だが、男はなおも背が高い。  男は砕けた感じでスラックスのポケットに両手を突っ込み、敵意むき出しのトレヴァーを見下ろした。口元には、余裕の笑み。 「NYPD(ニューヨーク市警)の者だ。バッヂ、見せてやろうか?」 「警察?」  すると、トレヴァーにぐいと襟元を引っ張られ、男の前に突き出された。襟が喉元に食い込み、「うぐっ」と変な息が漏れる。 「だったら、こいつを逮捕しろよ。こいつがルーシーを殺したんだ」 「はあ?」  彩人は声を引きつらせた。殺した? 何で断定形なんだ。  視線を上げると、男にぶつかった。  厳つい顔に似合わず、男はどこか愛嬌のある目をしていた。瞳は少し緑がかった、深みのあるブルー。その目が、じっと彩人を見下ろしている。  見えない手で、ぎゅっと心臓を掴まれた。見られている。それだけで、頭がじん痺れた。 「――何があったのかは知らないが」  男が再び口を開いた。 「彼を逮捕するかどうかは、俺たちが決めることだ。君が勝手に決めることじゃない」 「いいから、こいつを調べろよ!」  トレヴァーの怒声が、高い天井に反響した。 「こいつがやったんだ。絶対に、こいつが――」  彼の訴えは最後まで聞いてもらえなかった。男の手が、彼の手首を捕えたから。  驚きでトレヴァーの目が見開かれた。ふりほどこうと身じろぎするが、ごつごつとした男の手はびくともしない。 「いいか、坊や」  男はトレヴァーに顔を寄せる。 「誰が犯人かなんて、まだ分からないんだ。証拠も何もそろってないのに、逮捕なんかできると思うか?」  男の口調はあくまで穏やかだった。教師が、聞き分けのない生徒を諭すように――だが、柔和な笑みの下からは、言いしれない威圧感がにじんでいた。そう、威圧感。足を踏み入れた瞬間から、彼の圧力がスタジオいっぱいに埋め尽くしていた。 「君はダンサーだ。ダンサーっていうのは、踊るのが役割だろ?」  心地よいバリトンが、朗々と響きわたる。その場にいる誰もが彼の声に聞き入り、じっと息を潜めた。 「そして俺たちは刑事だ。犯人を見つけて逮捕するのは、俺たちの役割だ。君たちの役割じゃない――犯人探しは俺たちに任せて、お前は愉快に踊ってろ」  ぱっと男はトレヴァーの腕を放した。トレヴァーは男を睨みながらも、無言で手首をさすった。  男は完全にこの場を支配していた。彼がダンサーであったなら、ここは彼のための舞台だ。華というのか、存在感というのか、身体で表現する者が欲してやまないものを彼は備えている。  ブラーヴォ――彩人は心の中で賛辞を送った。もう何があろうと、この男に逆らおうとする者はいないだろう。彼は自分の存在感と力を見せつけた。  再びスタジオの扉が開いた。入ってきたのは、総裁のカレン・アーロンだ。その後ろには、固い面もちのルイーザを伴っている。 「みなさん」  カレンはスタジオを見回した。元バレリーナである彼女はいつでも優雅な笑みを湛えているが、今日はことのほか表情が暗い。 「そちらはダニエル・ゴードン刑事です。ルーシーの件について、これからみなさんに話を伺います」  男は胸に手を当て、芝居がかった仕草で一礼した。目元にかかる睫毛の影から、靴のつま先まで、彩人の目が釘づけにされる。トレヴァーからは解放されたのに、まだどきどきしていた。 「気軽にダンと呼んでくれ。よろしく」  そう言って、彼はにっこりと微笑んだ。
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