26人が本棚に入れています
本棚に追加
暴露
ルーシーが殺害されたのは、九月七日の二十時から二十二時。つまりは配役が発表された日の、夜のことだった。
彼女の遺体は翌八日、ブロンクスの廃倉庫で見つかった。普段なら誰も立ち入らないような場所だが、倉庫は近く取り壊しが決まっていて、下見に訪れた解体業者が彼女を発見することとなった。
死因は窒息。後頭部を何かで殴打されたうえ、首を絞められて殺された。所持品はなく、着衣に乱れはなかった。シーツに包まれ、物陰に放置された彼女の遺体は、まるで森の奥で眠るお姫様のようだったと言う。別の場所で殺害され、倉庫に運ばれたとするのが警察の見解だった。
簡単な事件のあらましを説明された後、ダンサーたちはひとりずつ応接室に呼ばれ、聴取を受けることになった。当然のことながら、この日のリハはすべて中止。そもそも明日もあるのか、公演はどうなるのか――待機を命じられたスタジオには、重苦しい空気が流れていた。
「……トレヴァーのやつ、余計なこと言ってくれたよな」
フロアに胡坐をかくリックが、ぼそりと呟く。ひょうきんな彼には珍しく、本気で頭にきているようだった。
「彩人が犯人なわけねえのに。あんなやつの言うこと、気にするなよ?」
励ましの言葉に、彩人は小さく頷く。こんな時、彼のキャラは心強い。きっと一人だったら、めそめそ泣きだしていただろう。
だが、トレヴァーのネガティブキャンペーンは効果絶大だった。リックたちを除くダンサーはみんな彩人を遠巻きにし、時折疑念を込めた視線を向けてくる。次回からのリハを思うと、かなり憂鬱だった。
「次、彩人だって」
聴取を終えた女性ダンサーが、戸口から声をかけてきた。
彩人がスタジオから出ようとすると、彼女はさっと目をそらし、早足で立ち去っていった。フランケンシュタインの怪物にでもなった気分。
応接室は廊下側の壁がガラス張りになっていて、内装は白で統一されている。重い足取りで訪れると、テーブルの片側を二人の男が占めているのが見えた。
「ようこそ。まあ楽にしてくれ」
ゴードン刑事が出迎え、テーブルの向かい側を指し示した。さほど広くない応接室に彼がいると、より狭く感じる。
「時間をとらせてしまって申し訳ない。全員に形式的な質問をしているだけだから、気負わないでくれ」
そう言ったのは、ゴードンのとなりに座る初老の男性だった。彼はウィルソン巡査と簡単に名乗った。
「名前は……西原彩人、でいいのかな?」
ウィルソンは手元に引き寄せたファイルをめくった。おそらく所属するダンサーたちの履歴書がつづられているのだろう。入団前に受けた面接の緊張感を思い出した。
「出身は日本? ここに来る前はパリにいたのかね?」
「ええ。十六歳の時に、留学で」
「パリ?」
横で聞いていたゴードンが、何かを思いついたように目を見張った。
「俺はフランス語が苦手でね、いつも赤点だった。君はしゃべれるのかな?」
「もちろんです、ミスター」
彩人が答えると、ゴードンは苦笑とともに肩をすくめた。彼から漂うシェービングローションの香り――シトラス、それから男らしいウッドとスパイスの香り――が鼻先に触れた。
たぶん三十代前半くらい。鼻筋を彩るそばかすに、口元には人なつっこい笑み。改めて見るダニエル・ゴードンは、少し幼い感じがした。精悍な顔つきに、少年めいた笑顔は反則だ。
「あの、さっきはありがとうございました」
彩人が遠慮がちにそう言うと、「なんのことだ?」とゴードンは首を傾げた。
「さっき、トレヴァーからかばってくれたでしょう? 助かりました」
すると、ゴードンはウィルソンと顔を見合わせた。そして、にやりと不穏な笑みを浮かべる。
「礼を言うのは早いんじゃないか? 次は俺たちが、君を追いつめる番だからな」
くっくと押し殺した笑声にあわせて、大きな肩が揺れた。
「さっきの彼――トレヴァー・リースか? も言っていたが、ルーシーと口論した理由に俺も興味があるね」
ゴードンは身を乗り出した。青い瞳に好奇心がみなぎっている。
「何を言い争っていたんだ?」
「だから、別に……つまらないことなんです。ちょっとした、トラブルというか」
同じ失敗を二度犯す気か? こんな答えじゃ子供だって誤魔化されない。
「わざわざお話しするようなことでもないんです。本当に、つまらないことですから」
「だが、殺人事件はつまらないことで起こるもんさ。庭の境界とか、ペットの鳴き声とかな」
薄い唇の間から、白い糸切り歯がのぞいた。彼はいつもこうやって容疑者を追いつめているのだろうか。だとしたら、いい性格してる。
「じゃあ質問を変えようか」
彩人が黙ってうつむいてしまうと、ゴードンはさっぱりとした調子で言った。
「七日の夜は何してた? そのくらいは教えてくれるだろ?」
「……九時前まで、第三スタジオで練習してました。その後更衣室で、ルーシーとちょっと口論になったんです」
何でもありませんよ、というように、彩人は肩をすくめて見せる。
「でも、その後すぐに帰りました。帰宅したのは十時前です。ルームメイトのハオランが、証明してくれるはずです」
「さっきそのハオランと話をしたんだが」
ウィルソンが親指をなめ、手帳をめくった。
「彼は君が何時頃に帰ってきたか、はっきりわからないと言っていた」
しまった、口裏を合わせるべきだった。あの夜ハオランは部屋にこもっていて顔を合わせていないし――そもそもあの夜は誰にも会いたくなくて、自分もすぐ自室に引っ込んだ――リックは彼女の部屋に泊まって帰ってきていない。帰宅時間を証明してくれる人間はいなかった。
その後も、殺害当日の動向について質問が続いた。居残りの練習は誰かと一緒だったか? ノー。帰宅時に誰かとすれ違ったか? ノー。その時刻、第三スタジオにいたことを証明できる人間はいるか? ノー。
ノーを繰り返すたび、どんどん内臓がせり上がってくるのを感じた。当日の行動を思い返してみると、犯行時刻とされる間のアリバイがない。焦りが悪寒となって、背中を這い上がってきた。
「君はルーシー嬢と付き合っていたと、何人かのダンサーが言っていた。それは事実かね?」
続くウィルソンの質問に、彩人は目を剥いた。
「ご、誤解です。それは、なんというか……彼女につきまとわれていただけなんです」
「辛いね、モテる男は」
茶化すように応じるゴードンをウィルソンが軽くねめつけた。彼はどうしても軽口をやめられない性分らしい。
「口論の話に戻るが」
ゴードンが言った。
「彼女につきまとわれていたことが、君の言うつまらないことか? ずいぶん困っていたようだな」
「……でも、僕はそんなことで彼女を殺したりしない」
耳の後ろがぴりぴりする。危険信号だ。彼らも怪しんでいる。男女間にありがちな感情のもつれ、その果ての凶行――そんなシナリオだろうか。
「別に、俺たちは君が犯人だと思っているわけじゃない。被害者の人間関係を整理して、犯人候補を探しているだけだ――ただ、その中に入りたくないなら、聞かれたことには素直に答えたほうがいい」
思わず乾いた笑いが漏れそうになる。それは脅しか?
「これって、任意の聴取ですよね?」
彩人は言った。
「だったら、答えたくない質問には答えなくていいはずだ。そうでしょう?」
「そうだが」
ウィルソンは神経質そうに口ひげをいじった。
「私たちは、隠し事をする者を最初に疑う。君が潔白だというのなら、この場で証明したほうがいい」
「そうさ。後ろめたいことがないなら、隠す必要もないよな?」
後を引き継いだゴードンが、すっと目を細めた。猟犬の目だ。
気づけば、また冷や汗が額を濡らしていた。ガラスにぼんやりと映った顔は、頬が強張り、浅く息を喘がせている。我ながら、禁断症状のジャンキーみたいで笑える。
「どうした?」
ゴードンが、ぐっと身を乗り出してくる。くそ。こんな時でも、彼の匂いに胸がざわつく。
「いいえ、何も――」
「お前、何を隠している?」
ゴードンの声が、深さを増した。
「まさか、本当に――」
「僕は、」
彩人は、ぐっとつばを飲み込んだ。
「……ゲイなんです。誰にも言ってない。家族にも、友達にも」
とっさに出た言葉に、ぷつん、と何かが切れる音がした。全身から力が抜け、空気になってしまったような気がした。
「そのことをルーシーに知られたんです。そしたら彼女、急に怒り出して……どうして怒ったのか、分からないんですけど」
そう、今でも分からない。なぜあんなに怒っていた? 何の迷惑もかけていないのに、どうして嫌悪されなければならない? 僕はそんなに許されない存在なのか?
こわごわと視線を上げると、ゴードンはぽかんと口を開けていた。
「なんだ、そんなことか」
やがて、ふっと彼の口元が弛緩した。彩人は目を見張る。
「そんなこと……」
「ああ。何をご大層に隠しているのかと思った……ゲイ? それがなんだ。無駄に引っ張りやがって」
そう言って、彼は鬱陶しそうに前髪をかき上げた。さっきはあんなに魅力的だったバリトンが、ひどく耳障りだった。
そんなこと?
そうか、彼らにとっては「そんなこと」か。
確かに、そうなのだろう。けれど、けれど――
「――あ、あんたたちには、分からないことだ!」
椅子が倒れ、けたたましい音が応接室に響き渡った。ガラスの壁に、上気した彩人の顔がぼんやりと映った。
「僕が今まで、どれだけ怖かったか、分かるか? 男が男を好きなんて、そんなの異常なことだ。まともじゃない。僕がまともじゃないと分かって、みんなが今まで通りでいてくれる保証はあるのか? 誰が僕を受け入れてくれるっていうんだ」
そうだ。現に拒絶されたじゃないか。
ルーシーにも、彼にも――
気づけば馬鹿みたいに涙があふれて、頬をべしゃべしゃに濡らしていた。こんなにぜいぜい息をしているのに、全然頭に酸素が回ってこない。いっそ酸欠で死んでしまいたかった。今すぐに。
刑事たちは彩人を見上げ、唖然としていた。きっと彼らの目には、キレると何をしでかすか分からない、クレイジー野郎に見えたかもしれない。最高だ。こんな奴だったら自分でもルーシーを殺したと思う。
「……もう、ついでに言ってしまうけど」
彩人は、ずずっと鼻をすすり上げた。
「ルーシーが死んだと聞いたとき、ほっとしたんです。彼女が他の誰かに言っていなければ、誰も僕の秘密を知る人はいないから……」
「……分かった」
ゴードンは、彩人を制するように片手を上げた。
「もういい。君の聴取は終わりだ。今日は帰ってくれ」
その声はひどく強張っていた。見れば、ゴードンからは余裕めいた笑みが消え、代わりに苦々しい影が浮かんでいる。なぜ? どうして彼が重大な罪でも犯してしまったように、重々しい目をしているのだろう。
「これでもう、僕は犯人候補ですね、刑事さん」
そう言って、彩人はぎこちない笑みを作った。最後の抵抗にすらなっていない、ひとあがき。そうでもしないと、自分を保てなかった。
応接室を出る瞬間、叩きつけるようにガラス戸を閉めた。さすがは金をかけているだけあって、ガラス戸にはひび割れひとつ入らなかった。
彩人の心は、粉々になってしまったのに。
最初のコメントを投稿しよう!