皇帝の凱旋

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皇帝の凱旋

《プリマドンナを襲う悲劇。彼女を取り巻く愛憎と嫉妬の渦》 《惨劇のプリマ。その表と裏の顔》 「何これ?」  差し出されたスマートフォンを見下ろし、彩人は顔をしかめた。大仰な文体でつづられるヘッドラインと、続くルーシーの愛くるしい笑顔。それは『白鳥の湖』のオディールとして踊る一場面だった。 「すっげえよ、もうこんなにネット記事があがってる。しかもあることないことめちゃくちゃ書かれてるし」  リックは興奮した様子でスマートフォンをスクロールさせた。自身も聴取を受けておきながら、どうしてこれほど野次馬根性を露わにできるのか。彼の神経の図太さには、ある種尊敬の念すら湧いた。  第二スタジオではすでにソリストが集まり、おのおのアップにいそしんでいる。レッスン前はリラックスした時間なのに、今日はどことなく空気が重い。みんな黙々とバーや鏡と向き合い、誰とも話さないようにしている。特に彩人と。  記事に書かれた事件のあらましは、どれも警察の発表に準じたものだった。だが被害者であるルーシーの人となりになると、ひどいものだ。 〈舞台に立つ姿は可憐な王女。しかし、裏の顔は何人もの男を手玉に取る悪女だ。ファンやダンサーたちを次々と誘惑し、自身の虚栄心と肉欲を満たし――〉  当たっている部分もなくもないが、誇張がひどい。これでは彼女が殺されても、仕方がないと言わんばかり。被害者であるはずなのに、ゴシップ記者たちのかっこうの餌にされている。一時は殺してやりたいと思ったほど憎んだ相手だが、だんだん気の毒になってきた。 「リック」  彩人は数段声を潜めた。 「こういうのは、ここでは見ない方がいいよ。みんなピリピリしてるんだから」 「そっか。ごめん」  リックはしゅんとした面もちでスマートフォンの画面をオフにした。彼の美点は物分かりのいいところだ。  プリエ、タンジュ、ジュテ、ロン・ドゥ・ジャンブ・アン・レール――バーを掴み、基本の柔軟をこなしていく。子供の頃からすっかり染み着いた動作なのに、ぎこちなく、手足が重い。鏡に映る顔も、徹夜明けのようにむくんでいた。そもそも、昨夜はほとんど眠れなかった。  昨日の聴取でのことが、頭から離れない。潔白なのだから堂々としていればよかったものを、刑事たちの前で怒鳴り散らし、醜態をさらしてしまった。悪印象を与える作戦なのだとしたら大成功だ。  僕は逮捕されてしまうのだろうか? 本番ではロミオを踊れるのか?  最悪の事態ばかりが頭を通り過ぎていく。よくない癖だと分かっているのだが、ついついネガティブに考えてしまう。バレエコンクールの前よりひどい気分だ。 「みんな」  ぱんぱん、と空気を打つ音に、彩人は顔を上げた。扉の前で、ルイーザが背筋を伸ばして立っている。 「第一スタジオに集まって。これから臨時のミーティングよ。ジョルジュが戻られたわ」  彼女に続いて、ダンサーたちが一斉に動き出した。バレエ・シューズの底が、しゅっしゅと擦れる音が響く。 「やれやれ、『皇帝』の凱旋だな」  リックが苦笑混じりに耳打ちしてきた。  第一スタジオではすでにアーティストたちが集合し、フロアの上に腰を降ろしていた。彩人たちもその後列に加わり、彼らと同じく、一人の男を注視する。  すらりとした長身、目を引く端整な顔立ち。オートクチュールの紺のシャツをざっくりと着崩し、片足に体重をかけて立っている。ダンサーたちを睥睨する切れ長の目は、どこか物憂い気配が漂っていた。  アーロンBC、専属振付家兼芸術監督ジョルジュ・クプラン。  彼は十八歳でローザンヌ国際バレエコンクールに入賞し、二十歳という若さでパリ・オペラ座のエトワールに昇格。その後フリーダンサーとして活躍しながらも、四十代で引退。五年前にアーロンBCに招聘され、斬新な振付と指導力によってカンパニーを牽引してきた。そのカリスマ性と妥協を許さない厳しい指導から、ダンサーたちからは『皇帝(アンペルーペ)』と呼ばれていた。  ジョルジュは彩人の憧れだ。  子どもの頃、ヨーロッパで舞台装置のデザインを手掛ける父のつてで、彼の『ボレロ』を見た時は圧倒された。引退間近とは思えないほどの躍動、観客を強引にねじ伏せる存在感、そして官能的ですらある表情。彼の偉大な肖像は小さな胸に刻み込まれ、彩人を今日まで夢中にさせてきた。  彼の指導を受けているなんて、今でも信じられない。長い長い夢を見ているのだと言われても、きっと驚かないだろう。 「彩人、早く座れよ」  ハオランに声をかけられ、彩人は慌てて彼のそばに腰を降ろした。 「みなさん、おはようございます」  口を開いたのは、ジョルジュの横に控えるカレンだった。 「みなさんも心配していることと思いますが、公演は予定通り行われます。本日よりリハーサルを再開し、またレッスンに励んでください」  スタジオ中に安堵のため息と笑みがこぼれた。彩人はハオランと顔を見合わせてうなずき合う。よかった、せっかく巡ってきたチャンスが無駄にならなくて済む。 「――ルーシーはすばらしいダンサーだった。もう彼女の舞を見られないことを残念に思う」  スタジオに響きわたる、重厚なバリトン。全員がはっとして、声の主を見た。  ジョルジュはうつむき、内省するように足元を見つめていた。さすがの彼でも若きプリマの死は堪えたのだろうか、眼差しがいつにもまして険しかった。 「今回の公演はマイナスからのスタートだ。貴重な才能を失い、研鑽のための時間を無駄にした。警察やマスコミといった外の連中が、君たちの集中を乱すだろう。今、私たちはカンパニー創設以来の苦境に立たされている」  だが――と、彼はダンサーたちを見渡した。孤狼を思わせる、グレーの瞳。 「私たちは何があろうとも、踊り続けなければならない。君たちにはその使命がある。そして、やり遂げられるだけの力がある。公演は必ず成功させる。それが私たちの矜持であり、彼女への弔いだ」  ジョルジュが言葉を結ぶとともに、自然と拍手がわき上がっていた。使命、矜持――芸術を最上ととらえる、彼らしい言葉だ。高みを目指す彼の精神は、事件やスキャンダルでは揺るぎもしない。  そうだ、何を恐れることがある。何があろうと、ただ踊るだけ――彩人は彼の言葉に鼓舞され、萎れた身体に活力が戻ってくるのを感じた。  拍手が止むのを見計らい、ジョルジュは再び口を開いた。 「ルーシーが抜けたため、配役を変更する――サラ」  集団の端に座っていたブルネットの女性が、顔を上げた。  彼女は、カンパニー設立時から在籍する古参のダンサーだ。クラスはプリンシパル。以前は花形として踊っていたが、近年は二番手の役に甘んじていた。  理由は言わずもがな。若き黒鳥が入団したから。 「ジュリエットは君だ。できるな?」 「ええ、もちろん」  サラは間髪入れずに答えた。ダンサーたちの間で、かすかなざわめきが起こる。  彼女は主役の座に返り咲いた。ルーシーの死のおかげで――そんな考えは、あまりにも意地が悪いだろうか?  その後、細々とした連絡事項が伝えられ、ソリストとアーティストに分かれてレッスンが始まった。  待ちわびていた、束の間の日常だった。 『皇帝』の凱旋により、リハの空気はがらっと変わった。彼はアーティストたちの群舞やソリストたちの演技を見て回り、ひとつひとつ厳しく修正を加えていった。中には「養成学校からやり直せ」と叱責され、初日から泣き出した者もいたそうだ。  芸術監督や振付家にはそれぞれやり方があるが、ジョルジュは最初から完成図が頭の中にあって、ダンサーをその通りに踊らせアップダウン型だ。彼の理想に従わない者は、徹底的にしごかれ、矯正される――それは主役を踊る彩人も例外なく。 「ストップ」  ジョルジュの鋭い合図に、ピアニストが手を止めた。サラをリフトしようとする中途半端な体勢のまま、彩人は振り返った。  その日、主演の二人は第三スタジオに移動し、ジョルジュから直接指導を受けていた。今踊っていたのは、作品の核となる〈バルコニーのパ・ド・ドゥ〉――ロミオとジュリエットが初めて愛を交わす、名シーンだ。  時刻はすでに八時を過ぎていた。ぶっ通しで踊り続けたせいで、全身汗だくだ。ゼイゼイ喘ぐ胸は、ちっとも静まらない。 「なんだ、そのざまは?」  ジョルジュは鏡の前に立ち、眉根を寄せている。彼の険しいまなざしは、まっすぐ彩人に向けられていた。 「……えっと、どのあたりが?」 「全部」  彩人は閉口した。サラとピアニストは、困ったように苦笑している。 「彼女を手に入れたいという欲求が、まるで感じられない。老人の社交ダンスパーティだ。いや、そっちの方がマシだな」  容赦のない暴言に、ばっさり切って捨てられる。覚悟はしていたが、ここまで言われるとは思わなかった。 「おまけに、彼女にエスコートされているような踊り方じゃないか――舞台が現代ならいざ知らず、十四世紀の男がそれじゃ話にならん」  彼はうんざりとため息を吐き、解れた前髪をかき上げた。さりげない仕草から漂う、成熟した色香――現役時代、多くの女性ファンを虜にしたそれは、いまだ健在だ。 「サラ、君はどう思う?」  ジョルジュはサラに話を振った。 「今日一日、彼と踊ってみてどう感じた? 彼に惹かれるか? 抱かれてみたいと思うか?」 「だっ……」  赤面する彩人をよそに、サラは肩をすくめた。 「そうね……わたしはないかな」 「だろうな」  目の前で交わされる、自分の男としての評価。恥ずかしさで蒸発してしまいそうだった。 「君たちは帰っていい」とジョルジュに言われ、サラとピアニストは退室した。しんと静まり返ったスタジオに、『皇帝』と二人――刑事から取り調べを受ける以上の緊張が、彩人をカチコチにした。 「……すみません、ジョルジュ」  彩人は、反射的に頭を下げた。 「初めての振付だから、慣れてなくて……だから、動きが悪いんだと」 「そんなことは問題じゃない」  ぴしゃり、とジョルジュは彩人の言葉を遮った。灰色の冷え冷えとしたまなざしが、降り注いでくる。 「君の気持ちの話をしているんだ。振りだとか技術だとか、そんなことは後からどうにでもなる――だいたい、振りはもう覚えているだろう? どうせ君のことだから、毎日一人で残っているはずだ」  ぎくりとした。『皇帝』には何でもお見通し――そう思うと、頬が熱くなってきた。 「さっきも言ったな? ここはロミオが初めて恋の歓びを発露する場面だ。君は一秒でも長く、彼女と時を過ごしたい。愛しい女が立ち去ろうとするのを引き留めたい――」  こんなふうに、とでも言うように、ジョルジュはぐっと彩人の手を引っ張った。よろめいて彼の胸に突っ込みそうになる。スパイス系のオードトワレの香りに、心臓が飛び跳ねた。 「それなのに、君は遠慮し、おびえている。なぜだ? どうして欲しいものを手に入れようとしない? 君は誰かに恋い焦がれたり、激しく欲したりしたことはないのか?」 「あ、あります」  とっさに答えたが、あとが続かない。 「じゃあ、なぜその気持ちで彼女をほしがらない? 恥ずかしがっているのか? 自分の恥部を隠しておけるほど、この世界は優しくないぞ」  握られた手首に、力がこもる。彩人の胸の奥底まで覗き込もうとするような、グレーの瞳――その容赦のない鋭さに、怯えが這い上がった。  誰かに恋い焦がれたり、欲したりしたこと――そのくらい、あるさ。  その人のことしか考えられなくなって、夜も眠れず、相手の挙動に一喜一憂する日々――そして感情を抑えられず、なりふり構わず突っ走った。  だが、その結果――言い知れない苦々しさが込み上げてきて、彩人は唇をかんだ。  重苦しい沈黙が続いた。窓の外は真っ暗闇で、時折ポプラの葉がかさかさと揺れる気配がする。それと、クラクションとサイレン。ニューヨークの街は動いているのに、このスタジオだけは停滞している。 「……僕は、」  彩人はこわごわと口を開いた。 「ごめんなさい、僕にはやっぱり――」 「できないのか?」  囁かれた言葉に、ぞくりと背筋が震えた。低く雄々しい声は、腹の底まで響くようだった。 「できないなら、手本を見せてやろうか」  何を――そう問う間もなく、ジョルジュに顎をすくわれた。  彼の唇が彩人の口を塞いだ。一瞬、目の前が真っ白になる。 「……っ」  身をよじって逃げようとすると、足の間に膝が割り込み、もう一方の手に腰を掴まれる。細い腕からは想像もできない、強い力。  なぜ? なぜ? パニックに陥る彩人をあざ笑うように、熱く湿った舌が唇に割り込んでくる。その未知の感触に、思わず悲鳴をあげたくなる。  怜悧な眼差しや言葉とは裏腹な、情熱的な口づけだった。湿った汗の匂い、オードトワレのスパイス――そして、相手を奪い尽くしたいという欲望。  口づけと欲望の激しさに、頭が蕩かされる。このまま、身を委ねてしまおうか――そんな誘惑が、彩人の意識を濁らせた。  だが、彼の手が腰より下に降りた瞬間、身体の奥で火花が弾けた。  すさまじい衝動に駆られ、彩人はジョルジュを突き飛ばした。  反動で足元がふらつき、危うく尻もちをつきそうになる。鏡に映る半泣きの顔は、我ながら滑稽だった。 「な、なんで……こんなこと」  彩人は口元を拭った。ほんの一瞬の口づけだったのに、ぜいぜい肩が喘いでいる。満身創痍。どうしようもなく、痛めつけられていた。 「君に分かって欲しかった」  平然と言う薄い唇に、かすかに血が滲んでいた。突き飛ばした時に噛んでしまったのか。だが、彼はちっとも気にしていなかった。 「君がジュリエットであったなら、私は躊躇しない。何を犠牲にしても君を手に入れる」  暗く燃える眼差しに、ぞくりとした。後先考えない、衝動的な口づけ。演技とは思えない、恐ろしいほどの生々しさ――そんな真似、自分にはできない。心を開き、傷つくことを恐れる自分には、とても。 「……すみません、失礼します」  彩人は短く言って、逃げるようにスタジオの外へと向かった。唇が熱い。それを押さえて、ぐすりと鼻を鳴らした。 「――我々は、跳躍しなければならない」  ジョルジュの声が追いかけてくる。 「下らない常識から、因習から、この世のあらゆるものから――私たちは自由にならなければいけない」
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