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落とし物
追い立てられるようにシャワーを浴びて、着替えて更衣室を出た。まだ心臓がばくばくいっている。身体の色んな関節が外れたように、ぎくしゃくしていた。
エントランスを出ると、正門の前にサラが立っていた。
細身のパンツに、オーバーサイズのデニムジャケット。たっぷりのボリュームの髪を下ろした彼女は、レッスンのときよりも大人びて見えた。指先には、紫煙のたなびく煙草。
「あ、やっと出てきた」
サラは彩人を見つけると、短くなった煙草を足下の排水溝に投げ捨てた。確かここは全面禁煙ではなかったか。
「待ってたの?」
「まあね――やだ、目が真っ赤じゃない。どうしたの?」
彩人はぱっと顔を逸らし、目元を拭った。さっき冷水で浴びるほど顔を洗ったはずなのに、まだ頬が火照っている。
「かわいそうに、ジョルジュにいじめられたのね」
「別に、そんなんじゃないよ」
少しむきになって言い返したが、まだ心中は羞恥と動揺でグラグラしていた。首もとには細い指の感触が、唇には乾いた質感と濡れた舌の熱がまとわりついている。もう一生忘れられないかもしれない。
「それで、何の用?」
話を切り替えると、サラは「用ってほどじゃないけど」と肩をすくめた。
「ご飯でも一緒にどうかなって――ほら、わたしたちあんまり話したこともないじゃない? これからペアを組むんですもの、親交を深めたほうがいいでしょ」
彩人は、赤らんだ目に苦笑をにじませた。誰かさんのようにキスを迫られるより、ずっとありがたい。
「いいけど……それって、ジョルジュの指示?」
「まさか。わたしの指示よ」
「奢ってあげるよ、坊や」そう言って、彼女はいたずらっぽくウィンクした。
サラ・カーティスは、彩人が入団した当初から一線で活躍するダンサーだ。
きびきびとした動きと豹のようにしなやかな肉体、そしてきりっとした目元の冷たさは、野に咲く一輪のバラを思わせた。そのため、彼女にはどことなく近寄りがたい雰囲気がある。
彼女に連れられて入ったのは、セントラルパークにほど近いバーガーショップだった。本部にも近く、ダンサーたちがよく利用している。今は遅い時間だからか、知っている顔はなかった。ほの暗い店内には、バンズとパティの焼ける香ばしい匂いが漂っている。
「サラ、決まった?」
メニュー表越しに伺うと、細くアイブロウを引いた眉が悩ましげに引き締められていた。彼女はすでに十分以上もメニュー表のカロリーと格闘している。
「ああ、もういいわ。明日のリハ超頑張る」
そう言うなり、彼女は牛肉のパティとチーズが二段重ねになったバーガーと、山盛りのオニオンフライを注文した。なんと潔い。
「あんまり思い詰めちゃだめよ。あの人の完璧主義には限界がないんだから」
料理が届くなり、サラが唐突に言った。さっき涙目で本部から出てきたことをまだ気にかけてくれているらしい。彩人は苦笑をこぼした。
「仕方がないよ。僕は駄目なところばかりだから――それより、サラはすごいね。急な代役なのに、振りを完璧に自分のものにしてる。ほとんどミスもないし」
「何言ってるのよ」サラは目を見開く。「わたしだって、誰もいないところじゃめちゃくちゃ言われてるんだから」
彩人はバーガーを運ぶ手を止めた。あの完璧な踊りで?
「こっちは精一杯やってるのに、嫌みと駄目だしばっかり。あのクソオヤジ、きっとろくな死に方しないわよ」
サラはそれが憎き敵であるかのように、大口を開けてバーガーを頬ばった。『皇帝』をクソオヤジ呼ばわり――彼女の十八番は『エスメラルダ』なのだが、その権威者に媚びない姿勢は孤高のジプシーそのものだった。
「話は変わるけどさ」
彼女は急に声のトーンを落とした。
「実際どうなの? あんたがルーシーをやったの?」
たまらず口に含んだアイスティーを吹き出しそうになった。げほげほとむせながら、胸を押さえる。
「――やってるわけないじゃないか。冗談じゃない」
「そうよね。あんた、女の子と手もつないだことなさそうだし」
流行のベリーレッドで縁取られた唇が、意地悪くつり上がった。女の子と手をつなぐことと殺人に何の関係がある? 彩人はむっとしてサラを睨んだ。
「そういう君こそどうなんだ? みんな噂してたぞ。君が殺して主役の座を奪い取ったんだって」
意趣返しで言ってやったつもりが、彼女は気を悪くするどころか、ふんと鼻を鳴らした。
「もちろん違うわよ。わたしなら、事故か自殺にみせかける。あんな下手な殺しかたしないわ」
やれやれ、とでもいうように、サラは首を振った。彩人など不眠症気味になっているのに。トップダンサーのメンタルの強さに、改めて感心させられた。
「でもさ、本当にカンパニーの中に犯人なんていると思う? 僕にはどうしても、そう思えないんだけど……」
彩人は迷路を描くように、フォークの先で皿に垂れたソースをなぞった。ソースはケチャップやドレッシングと混ざり合い、混沌とした色合いを醸し出している。
犯人がカンパニーの人間とは限らない。むしろ、そうであってほしい。仲間を疑ったり疑われたりしたくないし、彼らの中に殺人犯がいると思いながらレッスンなどしたくない。カンパニーとは全く関係のない、ルーシーの過激なファンか、ストーカーの犯行であってほしかった。
だが、彩人の願望はあっさりと否定される。
「いてもおかしくはないんじゃない? あの子、色んな男に言い寄ってたし、彼女に捨てられたとか、彼氏をとられたとか、しょっちゅう聞くもの」
サラはうっとうしそうに前髪をかき上げた。
「それに、入団してすぐに大役をもらったでしょ? 同期でまだコール・ドで踊ってる子たちからは、相当嫌われてるわよ。男女問わず、殺してやりたいって奴は大勢いるんじゃないかしら」
むうっと唸り、彩人は押し黙った。
バレエは競争の世界だ。同期や後輩に役を奪われ、歯がゆい思いをするなど珍しくもない。時にはダンサー同士の嫉妬が、刃傷沙汰に発展したなんて話を耳にすることもある。それを思えば、カンパニーの中から犯人を探すのが、手っ取り早いのかもしれない。
サラは顔を寄せ、声のトーンを落とした。
「わたしは、トレヴァーが怪しいと思うな」
「トレヴァー? 何で?」
彩人は眉をひそめた。
「だってあいつ、結構本気でルーシーのこと狙ってたもの。あの子、なぜかトレヴァーには興味なさそうだったし、全然相手にしてなかったじゃない? それでなおさら、むきになってたんじゃないかしら」
「ちょっと待って」
彩人は片手をあげて制した。
「あいつ、ステフと付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「ステフなんてつなぎでしょ。みんなそう言ってる。自分が本命の彼女だと思ってるのは、本人だけよ」
サラは冷たく言って、煙草に火をつけた。ミントに似た紫煙の香りが、熱した空気に割り込んだ。
「ルーシーもひどかったけど、あいつも相当遊んでるもの。ファンの子にも手出してるって話よ」
「その内ウィリの大群に殺されるわね」と、サラは悪魔めいた笑みをこぼした。ウィリとは『ジゼル』に登場する乙女たちの亡霊だ。彼女らは女性をもてあそぶ男を見つけると、死ぬまで踊り狂わせる。確かに、彼にはお似合いの最期だ。
トレヴァーが犯人。あり得ない話ではないかもしれない。
彼はかなり負けず嫌いな性格だし、おまけにかっとなりやすい。一向に振り向いてくれないルーシーに激昴し、思いあまって殺害――彩人を公衆の面前で犯人だと詰め寄ったのも、自身から疑いの目を逸らす工作だったのではないか。そう思うと、鳥肌が立つようだった。
そうやって、あれやこれやと可能性を考えていると、だんだん気が重くなってきた。
怪しもうと思えば、誰もが怪しく思える。舞台を作り上げるために切磋琢磨しあってきた仲間たちなのに、裏では誰が誰を恨んでいるとか、妬んでいるとか――こんなことで、本当に舞台は完成するのだろうか。不安でずんと胃の底が沈んだ。
「――そういえば」
と、サラはバッグからスマートフォンを取り出した。
「本命と言えば、ルーシーにもそういう男がいたみたいよ」
そう言って、彼女が見せてきたのはルーシーのフェイスブックだった。
最後の更新は九月七日――配役が発表された日だ。内容は、もちろん自身がジュリエットに指名されたことだった。秋シーズンへの意気込みに、ランチ時と思われる自撮りが添えられている。人気店のサラダボウルとともに映る彼女は、これから身に降りかかる悲劇など、全く予期していなかった。
「すごいわよ、あの子。毎日どうでもいいようなことばっかり投稿してんだから」
サラは呆れたように言って、ログをさかのぼった。
頻度は一日に一回、時には二回も三回も更新している。レッスンやリハの風景、その日のランチやディナー、新しく買ったコスメ、映画や舞台の感想、著名人の訃報に寄せたコメント――内容が何であれ、投稿には必ず彼女の自撮りが添付されている。文末には山ほどのハッシュタグがつけられ、いいねを欲する意思が痛いほど伝わってきた。
「あ、ちょっと待って!」
彩人は投稿のひとつを目にして身を乗り出した。「これ、僕じゃないか?」
そこに映っていたのは、ルーシーにしがみつかれる彩人だった。
確かこれはルーシーに誘われ、他のダンサーたちも同席したランチだ。スマートフォンを掲げるルーシーは愛らしく小首を傾げ、彩人はベーグルサンドにかじり付こうとする体勢のまま、驚いて目を見開いている。もちろん、画像を使用する許可を出した覚えはない。
「あら、仲良さそうじゃない」
にやにやするサラにからかわれ、彩人はぐぬぬと呻いた。
これでは付き合っていると誤解されて当然だ。その証拠に、コメント欄には『素敵な彼氏ね!』などと書き込まれている。彼女はどうしてこうも人を困らせることばかりするのか――せめてもう少し、写りのいい画像を使ってほしかった。
寄り道をしながらも、目的の投稿にたどり着いた。日付はおよそ一年近く前――サンクトペテルブルクからの旅行帰りのようだった。彼女はマリインスキーの公演で鑑賞した『白鳥の湖』に触発され、自身のバレエに対する思いを綴っていた。
〈――わたしが踊るときは、いつも一番大切な人のことを思ってる。相手が誰でも、その人と踊っていると思えば、わたしは世界で一番綺麗なお姫様にも妖精にもなれる。本物のバレエには、本物の愛情が必要なのだわ〉
「本物の愛情だって」
サラは、ぞっとしたように口元をひきつらせた。「まるでポエムね」
お約束の自撮りは、夜の空港ロビーをバックにしたものだった。彼女は上目遣いでこちらをみつめ、まるで夢でも見るように瞳をきらきらさせている。それこそおとぎ話に登場する、恋するお姫様や可憐な妖精のように――これが男たちを翻弄する小悪魔だなどと、誰が思うだろう。
どこの誰か知らないが、きっと〈一番大切な人〉も、彼女の死に打ちのめされていることだろう。そんな彩人の考えに対し、サラは真逆の考えを示した。
「この〈一番大切な人〉が、犯人ってことはないかしら」
「えっ?」
不意打ちを食らったような顔をする彩人に、サラは白々とした視線を向けた。
「だってそうじゃない。一番大切とか言いながら、他の男にもちょっかい出してたんだからさ。ばれたら修羅場よ。犯人としては最有力候補ね」
「そんなんだから手もつなげないのよ」とでも言わんばかりに、サラは鼻から短く息を吐いた。そりゃ男女の感情の機微のことなど分からないさ。ゲイだからな。
彩人は改めてスマートフォンに視線を落とした。
液晶画面に映し出される、プリマの微笑。彼女の想いも、美しい舞も、すべては過去の遺物になり果てた。もう何ひとつ戻ってこない。
ルーシー、君は誰に殺されたんだ?
彼女は答えることなく、ただ虚ろに微笑むだけだった。
サラと店を出ると、彩人は「忘れ物をしたから」と言って本部への道を引き返した。マンハッタンの夜風には、すでに秋の気配が漂い始めていた。
忘れ物は嘘だ。本当はスタジオに戻って、練習するつもりだった。そんなつまらない嘘は見抜かれていただろうが、サラはちょっと困ったように笑って、「気をつけてね」とだけ返した。
裏口のテンキーに数字を打ち込み、本部に入った。ダンサーたちはみんな暗証番号を教えられていて、時間外でも練習できるよう、自由に出入りできるようになっている。
建物の中はすでに人の気配が絶え、非常灯以外の照明はすべて落とされていた。窓から街明かりが差し込む廊下は、真夜中の病院のように静かだ。第三スタジオの半分だけ照明をつけ、彩人は軽くアップを始めた。全身の筋肉にはまだだるさが残っていたが、頭は妙に冴えていた。
伴奏はいらない。脳に染み着いた旋律を従えて、教え込まれた動作を丹念に繰り返す。天井の隅々まで響く足音、熱っぽい吐息。時折届く街のクラクションやサイレンが、遠くなっていく。
集中して踊るとき、すべては遠い彼方だ。ただ一人、物語の世界に没入していく。ここは十四世紀のイタリア。乾いた風、埃っぽい空気――跳躍(グラン・ジュテ)の瞬間、本当に異国の風が吹いたように感じる。
〈本物のバレエには、本物の愛情が必要なのだわ――〉
薄闇から、そっとルーシーが囁きかける。
僕は女性を愛せない。ゲイであることを隠して生きている。それなのに、ロミオを演じることなどできるのか?
〈――あんたはロミオにふさわしくない〉
ぐらり、と足下が揺れた。背中がひやりとして、思わず目の前のバーにしがみ付く。
あえぎすぎて肺が痛い。背中も足も石のように固まって、もう一歩も動けないという気がした。
壁掛け時計の針が目に入り、思わずぎょっとした。長針がまもなくてっぺんに届こうとしている。いったいいつの間に、一時間も時が吹っ飛んで行ったのだろう。
フロアにぺたりと尻をつけ、天井を仰いだ。さっき開けておいた窓から、冷たい風が流れ込んでくる。どこか懐かしい、秋の匂いだ。酷使した身体と頭が、少しずつ冷めていく。
ルーシーは〈一番大切な人〉のために踊った。だから彼女の踊りには嘘がなかった。どんな相手でもきらきらと瞳を輝かせ、恋の喜びに全身を震わせる――きっとジョルジュが求めているのは、あれだ。
それなら僕は、誰のために踊れるだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
彼、は絶対にあり得ない。もう二度と思い出したくもない。
リックやハオランは友達だ。ゲイだが、彼らに恋愛感情や性的な欲求を感じたことはない。
ならばジョルジュはどうか。彼を思って踊れるか? 先ほど強引にキスされたことが思い出されて、また耳が熱くなってきた。どうしてあんなことに――フロアを転げまわって、叫びだしたい衝動に駆られる。
ジョルジュも考えられない。彼はずっと遠い存在、憧れの対象だ。彼に認めてもらいたいという想いはあるが、ルーシーが言うような〈一番大切な人〉とは違う。彼に浮ついた感情を抱くのは、とんでもない背信行為のように思えた。
それなら、ダニエル・ゴードンではどうだ?
思いもよらない声が、頭の中に浮かび上がる。
堂々とした立ち姿、自信にあふれた微笑、深く青い瞳――彼は鮮烈だった。撃ち抜かれたように、どうしようもなく惹かれた。それこそ舞踏会の会場で、ロミオがジュリエットを見初めたように――
「馬鹿を言うな」
彩人は頭を振り、鏡の中の自分に向かって冷笑した。
「あんな奴、ありえない」
初めて目にしたときの印象も強かったが、聴取での屈辱を忘れた訳じゃない。ゲイだと告白させられた瞬間の、身をねじ切られるような恐怖――それなのに、あの男は何て言った? 「なんだ、そんなことか」あの男にとってはそんなこと。彩人の苦悩も孤独も、そんなこと。
あの男に愛情なんか感じるわけがない。あんな奴のために踊るものか。
身体もだいぶ冷めてきた。立ち上がろうとした瞬間――アップライトピアノの下で、何かが光った。
何気なくピアノの下に身を屈め、それを拾い上げた。誰かが落とした硬貨かボタンかと思ったが、照明にさらして見ると違った。
それはペンダントチャームだった。
チャームはコインほどの大きさで、女性の横顔を彫ったカメオがはめ込まれていた。透かし彫りがされた縁の模様は精緻で、アンティークのような趣がある。女性の横顔は気品があり、そしてどこか憂いを帯びているようだった。
裏面と縁のところが少し黒ずんでいたが、タオルで拭うと目立たなくなった。誰かの落とし物だろうか。だが、こんなものを身につけているダンサーなどいただろうか。
彩人はチャームをポケットにつっこみ、スタジオの照明を落とした。
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