焦燥

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焦燥

 プリマ殺害事件――と呼ぶのはマスコミぐらいだが――の捜査は停滞しているようだった。遺体が発見されて一週間以上経つが、刑事たちが現れることもなく、誰かが逮捕されたという報道もない。あれほど騒ぎ立てていたゴシップ記者たちも、今や大人しいものだった。  未来あるダンサーが無残に殺されたというのに――そして、殺人犯はのうのうと街中を闊歩しているというのに――世間は平気な顔をして回っていくのだから残酷だ。きっとルーシーも墓所で歯噛みしていることだろう。彼女は無視されるのが、心底嫌いだったから。  事件と同様、彩人にもめざましい進展はなかった。ジョルジュの叱責を受け、先輩であるサラやトレヴァーに何とか食らいついている。優雅に水面を泳ぐというより、激しい流れの中でぎりぎり溺れずにもがいているような、そんな日々。 「――もういい」  ジョルジュの一言で伴奏が止んだ。  しんと静まりかえったスタジオは、寒々しかった。前髪がぐっしょりと汗で濡れ、背中に張り付くシャツの感触が気持ち悪い。彩人は荒く息を吐き、立ち尽くした。  ああ、何が悪かったのだろう。胃の底が、ずんと重くなる。言われた通り踊れている気もするし、何もかもが駄目な気もする。もういっぱいいっぱいだ。死刑を待つ囚人の気持ちで、次の言葉を待った。 「今日は、これまでにしよう」  彩人は思わず、「えっ」と声を上げた。ピアニストに続いてスタジオから出て行こうとするジョルジュを慌てて引き留める。 「あの、何が……どこが、悪かったのでしょうか?」 「どこも」  ぽんと投げ渡されたようなその言葉には、何の感情もこもっていなかった。ただ彩人を見下ろす眼差しだけが、ナイフのように冷え冷えとしている。 「ラインもテンポもほぼ完璧だ。あとは――前に言った通りだ」  冷たい汗が、首筋を滑り落ちる。何も言い返せず、唇を震わせることしかできなかった。  何も進歩していない――そう言われたも同然だ。焦りが洪水のように押し寄せて、頭の中を埋め尽くした。  ふいに、ジョルジュに顎をすくい上げられた。あの日のことが蘇り、とっさに身体が強張る。 「顔色が悪いな」  ジョルジュは品定めするように、片方の眉を上げた。 「今日はもう、これ以上やっても無駄だ。帰って休め」 「いいな?」と念を押し、ジョルジュはスタジオを出て行った。革靴の底が床を叩く、かつんかつんという音が、虚しく響き渡った。  どうしよう、失望された。その場に立ち尽くし、白くなるほど唇を噛んだ。  見込み違いだった、やはり君はロミオにふさわしくない――そんな言葉がいつ出てくるかと、毎日びくびくしている。そうやって怯えるほどに、身体は萎縮し、動きは鈍り、ますますジョルジュが理想とするロミオから遠のいていく。  きっとまだ、練習が十分じゃないせいだ。彩人はピアノの演奏を伴わないまま、先ほどと同じ動きを繰り返した。疲労の溜まった膝や筋肉が痛みを訴えていたが、そんなものには構っていられない。もっともっと、高みへ、這ってでも近づかなければ――  だが、不十分なのが技術や肉体の鍛錬ではないことくらい、とっくに分かっていた。それはもっと深い部分、表面には表れない、人生観とか、情熱とか――もっと曖昧で、彩人の核に関わる問題なのだ。  結局、戻るのはいつもここだ。完全に袋小路にはまりこんでいる。 「――っ!」  足下がふらつき、一瞬ひやりとした。危うく変な転び方をするところだった。心臓がばくばくいっている。  やっぱり、僕には無理なのだろうか。目元がじんと熱くなり、鼻をすすった。  その時だ。ぱちぱちぱち――と、拍手の音がした。  振り返るまでもなかった。鏡に映った彩人越しに、あの目立つ長駆があった。 「よお」  ゴードンは軽く手を挙げ、笑みを浮かべた。今日は『メン・イン・ブラック』みたいなダークスーツ。仕事モードだ。 「すごいな、さっきのどうやるんだ? 重力がないみたいだった」  ゴードンは軽く腕を上げ、左足を軸に回転するような真似をした。何の変哲もないピルエットの動きだ。彼の身体は重そうだから、きっと優雅に回ることはできないだろう。 「……こんばんは」  彩人は低く答えて、とっさに目元を拭った。鏡の中の顔はやつれているが、目は赤くなっていない。よし、セーフ。 「居残りか? 精が出るな」  彼はスラックスのポケットに両手を突っ込みながら、ゆったりと歩いてきた。重量感のある足音が、高い天井まで響いた。 「俺が高校でアメフトやってた時も、こんなに遅くまで残らなかったぞ。サイバラ君は真面目だな」  アメフトね。彩人はかすかに苦笑した。あの大きな身体にプロテクターをつけたら、より巨大に見えるだろう。それこそターミネーターみたいに。 「サイバラって、なんかざらざらした名前だな」  ゴードンは彩人が掴むバーに寄りかかり、表情筋の運動のように口を動かした。 「彩人って呼んでも?」 「……お好きにどうぞ、ゴードンさん」 「今日は機嫌が悪そうだな」  ゴードンはそう言って苦笑した。機嫌が悪いというより、余裕がない。用件があれば手短に済ませてほしい。 「今日は何のご用ですか?」  彩人はバーを掴んだまま、プリエを繰り返した。ゴードンは、それを珍しそうに横目で見ている。 「まあちょっとな。色々確認と――あとは張り込みかな」  張り込み? 視線を投げかけても、ゴードンはとぼけたように天井のあたりを見上げている。 「捜査は進んでるんですか?」 「まあだいたい。殺害現場と、容疑者は絞り込んだ」  彩人は目を見開いた。ルーシーは発見された廃墟とは別の場所で殺害されたと報じられていたが、その場所までは特定されていなかった。 「それって、どこで?」 「ここ」  ゴードンはバーから身体を離し、両手を大きく広げて見せた。 「この建物の、どこかだ」 「そんな……本当に?」  背筋がうっすらと寒くなった。日々練習を繰り返し、仲間たちと交流するこの場所は、彩人にとっては第二の住まいのようなものだ。そんな場所で、殺人――出来の悪い冗談としか思えない。 「この建物には、正面入り口と裏口に防犯カメラがあるだろ?」  ゴードンは当たり前のことのように聞いてくるが、そんなことは初めて知った。普段、防犯カメラなんか気にして生活していない。 「殺害当日、ルーシーは正面入り口から中に入ったところはカメラに映っていた。だがその後、表からも裏口からも出たところが映っていない。どっかその辺の窓から抜け出したのでなければ、この建物のどこかで殺されたと考えるのが妥当だな」  滔々と自身の考えを述べながら、ゴードンは物珍しそうにスタジオの中を歩き回った。この第三スタジオは上の第一、第二スタジオの半分程度しかない。調度品の類はアップライトピアノとスツール、それから小振りな飾り棚くらい。飾り棚にはニ体のブロンズ像――半裸の三美神を象った像だ――が飾られている。モダンな内装に不釣り合いな像は、総裁の趣味だった。 「そうなると、死亡推定時刻の午後八時から十時の間、この建物にいた人間が犯人である可能性が高い」  ぴたり、とゴードンは足を止めた。 「例えば、総裁のカレン・アーロンと事務局長のビル・ボーマン、バレエ・ミストレスのルイーザ・ノールズ。この三人は午後八時から九時まで会議室にいたことを互いに証言している」  その他、数名のダンサーや出入り業者の名前が挙がったが、いずれもラウンジで談笑していたり、整体師のケアを受けていたりと、犯行に関わっている可能性が低い者ばかりだった。 「それから、トレヴァー・リース。彼は午後十時前までこの建物にいた」  トレヴァーが? 彩人は眉をひそめた。先日のサラとの会話が、頭の中で蘇る。 「彼はここを出るまでの間、何をしていたのか曖昧でな。ここのジムでトレーニングしていたと言っているが、アリバイを証明できる人間はいないし、何か隠しているような感じだった。その辺、思い当たることはないか?」 「……さあ」  彩人は首を振った。彼はルーシーに執着していた、と言ってやろうかとも思ったが、告げ口するみたいで気が引けた。我ながら人が好い。 「残る容疑者は――言わなくても分かるな?」  彩人は短く鼻を鳴らした。その時間、ルーシーにゲイであることを知られて、更衣室でふさぎ込んでいた。もちろんそれを証明してくれる人間はいない。有力な容疑者であることに変わりはなかった。 「信じてもらえないでしょうけど、僕は殺してませんから」  ゴードンは片方の眉を上げ、苦笑した。 「俺もそれを証明してやりたいが、今のところ材料がない」 「残念だ」と頭の後ろをかくゴードンは、本当に自身の不首尾を恥じている様子だった。それが少し、意外に感じる。 「僕は逮捕されますか?」  彩人は警戒心むき出し睨みつけたが、ゴードンはけろっとした顔をしている。 「逮捕されるようなことをしていなければ、ないだろうな」 「どうでしょうね。何もしていない人が、逮捕されることもあるし」 「かわいい顔して、きついこと言うじゃないか」  ゴードンは面白くて仕方がない、というふうに白い歯を見せた。かわいいだって? こいつ、完全に舐めてるな。  彩人は憮然として、壁際に置いたペットボトルに手を伸ばそうとした――その時だ。  どすん、という鈍い音とともに、背中に衝撃が広がった。  気がつくと、天井を見上げていた。手足の先から力が抜けて、軽くしびれすら感じる。なんだ? 「おい、大丈夫か?」  のぞき込むゴードンの顔が、逆光に塗りつぶされている。見上げると本当に巨人みたいだ。  まずい、貧血か? とっさに起きあがろうとしたが、腕に力が入らず、無様にフロアを転がるだけだった。ぐわんぐわんと、頭の中で鐘が鳴っている。 「ここ、休憩室とかないのか?」  腕を掴んで引き上げようとするゴードンを「だ、大丈夫ですから……」と彩人は拒もうとした。だが彼の力はずっと強く、抗いようがなかった。 「馬鹿言うな。ほら、行くぞ」  大きな腕に、ひょいと抱え上げられる。それだけで悲鳴を上げそうになり、全身に波が立った。  ゴードンは彩人を抱えながら、スタジオの外に向かって歩き出した。スーツ越しに、分厚い胸板の力強さを感じる。  まずい、まずい、まずい――何がまずいのか自分でも分からないが、頭の中で嵐が吹き荒れていた。  あり得ないほど近くに、ゴードンの顔がある。鋭角的な顎の輪郭、凛々しい鼻梁、そして薄いが柔らかそうな唇。シェービングローションに混じる、かすかな汗の匂い――無理だ、死ぬ。  スタジオを出たところで事務員の女性に出くわし、救護室へと誘導される。抱えられたままエレベーターに乗り込み、三階へたどり着くのを待った。女性に身を案じる言葉をかけられたが、まったく耳に入らなかった。 「あの、本当に。立てますから……」  沈黙に耐えかねて降りようとすると、「じっとしていろ」と却下される。背中と肩を支える腕に、ぐっと力がこもった。息が止まる。  ――温かい。  彩人は、男の肩に頭をもたれた。  彼の腕の中で、とても小さく、無力な生き物になった気がする。何もできない、何も考えられない。そして、それを喜んでいる。  このまま小さく小さく丸められて、彼の好きなようにしてもらいたい――どうしたらいい。とても困る。  彩人は、ゴードンにもたれたまま、目を閉じた。そして、静かにため息を吐いた。
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