刑事と皇帝

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刑事と皇帝

 運び込まれたのは、普段は整体師やトレーナーが常駐する部屋だった。  部屋にはマッサージを受けるためのベッドの他に、検査をするための器具が並んでいる。すでにスタッフは帰宅し、誰もいなかった。  単なる目眩だったのか、一時間も横になっていると気分が楽になってきた。少しだけ開けた窓から吹き込む風が、心地よい。  休んでいる間、ゴードンは部屋の中を眺めたり、メールをチェックしたりしながら、そばについていてくれた。まだ仕事が残っているだろうに――ありがたい反面、申し訳ない気持ちで一杯だった。 「……すみません、ご迷惑をおかけして」  彩人はベッドから体を起こし、うなだれるように頭を下げた。気分は良くなったが、頬が火照っている。身体にはまだ、彼の余韻が残っていた。 「気にするな。俺が倒れた時は、お前が運んでくれよな」  おどけるゴードンに、彩人は苦笑した。その巨体を? 無茶言うな。  ゴードンに水入りのペットボトルを渡され、半分ほど流し込んで息をついた。水をこんなにおいしいと思ったことはない。  ふと、ゴードンがじっと見っていることに気付いた。 「何ですか?」 「いや? ぐったりしたお前は、なかなかセクシーだったと思ってな」  好色そうに笑うゴードンに、彩人はむっとした。だが、抱き上げられていたとき、彼に同じことを感じたことを思うと、お互い様かもしれない。 「……そういうの、セクハラですよ」 「そうか? 男同士、こういう話くらいするだろ?」  普通、男は男にそんなことは言わない――と言いかけて、止めた。  ふと気づいた。彼が相手なら、そういう話をするのも自然なことかもしれない。  自分が同性に性的なフィルターを通して見たり、逆に自分が見られたり――彼に出会ったことで、自分にもそういう可能性が開かれたのだと思った。そしてその可能性を前にどうしたらいいのか分からず、ひどく戸惑った。 「まあ、大したことなくて良かった。あまり無理するなよ」  ゴードンの一言に、はっと顔を上げる。 「ええ……刑事さんが早く犯人を捕まえてくれたら、僕ももっと気が楽になるんですけど」 「お前、本当に言うことがきついな」  ゴードンは不満げに右の頬を膨らませた。彼はころころと表情が変わる。そういうところが、だんだん好きだと思えてきた。  ふいに、部屋の扉が開いた。  入ってきたのはジョルジュだった。彩人の姿を認めるやいなや、切れ長の目がすっと細まる。温んでいた空気が、一気に引き締まった。 「倒れたって?」  開口一番、ジョルジュは言った。 「あ、いえ、もう大丈夫です。大したことじゃないから――」  言い終わる前に、ジョルジュの手に両頬を包まれていた。  彼は彩人を上向かせると、医者が診るようにじっと顔をのぞき込んだ。額を手のひらで撫で、親指で首と顎のつなぎ目をなぞる。無遠慮な手つきに、落ち着いていた心臓がまた騒ぎ始めた。 「帰って休めと言ったのに、なぜ残っていた?」  一瞬、彩人は言葉を詰まらせた。注がれる視線に耐えきれず、目を逸らす。 「あ、その……ごめんなさい」 「君に謝らせたいわけじゃない」  ぴしゃりと叩き落すような言い方に、身がすくむ。だが彼の眼差しが、ほろりと崩れた。 「……何事もなくてよかった」  ぽつんと独白のような言葉が、彩人に向かって落ちてきた。 「努力することと、無理をすることを混同するな。もし身体を壊して、ダンサー生命を縮めたらどうする? 私は君に長く踊ってほしいんだ」  叱責が飛ぶかと思いきや、『皇帝』の言葉は思いの外優しいものだった。不意打ちでもされたように、彩人は両目を瞬かせた。  自分が恥ずかしい。彼は純粋に自分を心配してくれていただけなのに、失望されたと思いこんでいた。触れられた頬が、じわっと熱くなる。 「私が休めと言ったら休み、踊れと言ったら踊れ――いいな?」  彩人は顔を挟まれたまま、こくこくとうなずいた。離れていった細い指の感触が、少し名残惜しい。  ごほん――乾いた咳が、静寂の中に落ちた。  ゴードンが立ち上がって、ジョルジュを見ていた。口元には、微笑とも苦笑ともつかない曖昧な表情を浮かべている。 「彼は?」  ジョルジュはさっとゴードンに視線を走らせ、細い眉を持ち上げた。 「この人は、NYPDのゴードン刑事です……ルーシーの、事件で」 「やっとお会いできましたね、クプランさん」  そう言って、ゴードンは軽く顎を上げた。笑顔だが、目が笑っていない。どこか剣呑な気配がした。  ジョルジュは胡散臭そうに鼻を鳴らした。 「悪いが、サインはしない主義だ」 「別にあなたのファンじゃない。ルーシーが殺害された日について、話を伺いたい」 「ちょっと、待ってください」  彩人はベッドから身を乗り出し、割って入った。 「ジョルジュが帰国したのは、ルーシーが殺された後だ。彼は無関係です」 「あるんだな、それが」  もったいぶるように言って、ゴードンは口端をつり上げた。さっきはあんなに優しく見えたのに、今は悪徳警官のようだ。 「彼はあの日の夜、九時にここへ来て、それから四十分ほどして出て行った。カメラに映っていたんだから、間違いない」  彩人はジョルジュを見た。彼は警戒するようにゴードンを見据えているだけで、表情は全く変わらない。まるで鉄の面でもかぶっているかのようだ。 「大した手間はとらせません。この後、聴取させてくれませんか?」 「残念だが、それは無理だ」  ゴードンの目元が、痙攣するようにぴくりと動いた。構わずジョルジュは続ける。 「この後、先約がある。用があるならアポをとりたまえ」 「アポ? 何度もとろうとしましたよ。そのたびに、あなたは予定があるとか外出してるとか言って、逃げ回ってた。だからこうして、わざわざ張り込んでたんですよ」  ゴードンは挑発するように言って、腰に手を当てた。あれはそういう意味だったのか。  うんざりとしたため息が、ジョルジュの唇から漏れ出した。鬱陶しそうに額にかかった髪をかき上げ、眉間にしわを寄せる。ダンサーが自分の言う通りに動かず、イライラし始めたときの仕草だ。 「逃げ回っていたとは心外だ。公演前のこの時期は、とにかく忙しいんだよ。君には分からないだろうがね」 「分かりますよ。現代のアメリカ人は、みんな忙しいって言いますからね」  おちょくるようなゴードンの口調に、彩人はヒヤヒヤした。警察より『皇帝』の怒りを買うほうがよほど恐ろしい。彼らの間で密度を増しつつある空気に、押しつぶされそうだった。 「先約は後にしてもらえませんか? こっちは殺人事件の捜査なんですよ。あなたがたの遊びとは訳が違うんだ」 「遊び?」  ジョルジュのこめかみに、青筋が立つのが見えた。  ああ、まずい。この男のほうが、よっぽど言うことがきつい。彩人は息を殺し、存在を消した。彼らのいがみ合いに巻き込まれるなんてまっぴらだ。 「それは我々への侮辱か? ここには遊びで踊っている者など一人もいない」 「侮辱したつもりはありませんよ。ただ、まともな神経の人間なら、何をおいても捜査に協力するものだと思ってね」 「――くそったれ(ピュタン)」  ぼそりとつぶやかれた一言に、ゴードンが眉をひそめる。彼のフランス語が赤点でよかった。  しばらく重苦しい沈黙が続いた。カチコチ、カチコチ、と壁掛け時計の音がいやに大きく響く。じわじわと背中をあぶられているような気分だった。 「……明日、昼頃に出直したまえ」  唐突に、ジョルジュが口を開いた。 「少しだけ時間を作ってやる」 「ご協力、心から感謝します」  ゴードンは慇懃に頭を下げた。緊張した空気がゆるむと共に、彩人の肩からも力が抜けた。 「あと、協力ついでにもう一つ。キャリーケースを提出していただきたい」  彩人とジョルジュは、同時に眉根を寄せた。 「あの晩、ルーシーがこの建物を出たところは防犯カメラに映っていない。ということは、この中で殺され、何らかの方法で運び出されたということだ。あなたはあの晩、でかいキャリーケースを引いてここを出入りしましたね」  その先は聞かなくても分かった。彩人の背筋から、さっと血の気が引いた。 「いいだろう」  間髪入れず、ジョルジュは答えた。 「明日、持ってくる。好きなだけ調べればいい」  そう言ってジョルジュは踵を返し、大股で部屋を出ていった。ばたん、と乱暴に閉められたドアの音が響きわたり、室内は再び沈黙に包まれた。 「……ジョルジュを疑っているんですか?」  彩人は恐々と口を開いた。 「疑うべき理由があれば、疑う」  きっぱりと言い放つゴードンの答えは、冷淡ですらあった。 「アリバイもそうだが、遺体を運び出した方法も問題だ。その点、クプランはクリアしている。ルーシーはだいぶ小柄だったし、彼が持っていたキャリーケースに入れて運ぶことができる。疑うには、十分な理由だろ?」 「彼は、ルーシーを殺したりなんかしない」  ゴードンは短く息を吐き、小鼻を膨らませた。やれやれとでも言いたげな苦笑に、神経が逆立った。 「殺す理由がありません。彼女にとても期待していたし、今度の公演では主役だったんです。彼が自分で自分の舞台を台無しにするようなこと、するわけがないでしょ」 「どうかな。人間にはみんな、隠された一面があるもんだ――それは、君もよく知っているだろう?」 「そう怖い顔するなよ」と言って、ゴードンは肩をすくめた。知らず内に、彩人はきつく彼を睨んでいた。  怖い顔にもなる。尊敬する人が疑われているのに、平静でいられるか。自分に容疑を向けられるより、何倍も許せないことだった。  ジョルジュがルーシーを殺すなんてありえない。彼は舞台のためなら、それ以外はすべて犠牲にする人間だ。ルーシーを守るために誰かを殺すことはあっても、その逆はない。それだけは絶対に言える。 「さて」ゴードンは何かを思いついたように、壁掛け時計に目をやった。時刻はすでに九時を越えていた。 「いい時間だな。家まで送ってやろうか?」 「いいえ、結構です」  彩人は憮然と言って、床に両足を降ろした。足の指を伸ばし、縮め、土踏まずで床を掴むように屈伸させる。よし、問題なし。 「いいものをやろう」  ゴードンは胸ポケットから手帳を取り出した。素早くボールペンを動かし、破いたページを差し出してくる。そこには大胆な筆跡で、電話番号が書き付けられていた。 「何です? 緊急通報サービス?」 「俺の仕事用の番号」  彩人はゴミでも拾ったように、メモの端っこを摘んだ。なんなら今すぐゴミ箱に放ってもいい。 「何か気づいたことがあれば、教えてくれ。勤務時間内なら、出てやる」  出てやる? なんで上からなんだ。彩人は「ふん」と鼻を鳴らした。 「僕はスパイなんかしませんからね」 「そう言わずに、協力しようぜ。早く犯人が捕まれば、君も心おきなくクルクルやれるだろ?」  ゴードンはコーヒーでもかき混ぜるように、人差し指を下に向けてクルクルさせた。なんだ、クルクルって。 「電話なんかしません」 「はいはい。じゃあな、坊や」  ゴードンにくしゃくしゃと頭をかき回され、たまらず「うがああ!」と悲鳴を上げた。彼はニヤけた笑いを残し、部屋から出ていった。  坊やだって? 頭の中で、ぷつぷつと音を立てて毛細血管が切れていく。サラならまだしも、あいつに言われるなんて心外だ。  彩人は手の中のメモをくしゃくしゃと握りつぶし、足下のくずかごめがけて拳を振り上げた。くたばれ、ダニエル・ゴードン!  けれど、振りかぶった体勢のまま、彩人は静止した。  腕や肩の筋肉がコチコチになって、動かない。身体が頭に反抗し、メモの投棄を拒んでいた。  腹が立つ――腹が立つがそれと同時に、どうしようもなく惹かれている。  不愉快なことを言われたのに、自分を殺人犯と疑っているのに、尊敬する人のことも疑っているのに――あの笑顔と触れた体温とが、すべてチャラにしてしまう。どうして? 気持ちと頭とが矛盾している。  結局、彩人は拳を開いてメモのしわを伸ばした。彼らしい豪快な筆跡が、にやにやと笑っているようだった。
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